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カイリ君の姿を最後に見た木の扉の前。
そこに棚橋さんはいなかった。
でも——。
「ラブちゃん、ちょっとこれを見てください」棚橋さんの声が扉の中から聞こえ、わたしは安堵の溜息を吐いた。良かった。棚橋さんは無事だった。でもそう思ったのも束の間。暗い倉庫の中、小さな懐中電灯の光に照らされたモノを見て恐怖が頭を
「倉庫の床板が外れ、地下に降りる階段がありました。その先に、これが——」
狭くて暗い倉庫の中。棚橋さんが手に持っているのは視覚えのある布だった。あの、夢で視た布。文字がびっしり書かれた、壺を封印していた布。
棚橋さんが身を屈め、倉庫の狭い入り口から出てくる。ラブちゃんは薄汚い古い布を受け取ると「その先にカイ君はいなかった?」と棚橋さんに聞いた。
「いませんでした。と言っても——」
——ブーブゥーッ
歪んだ振動音。棚橋さんは胸ポケットからスマホを取り出すと、「失礼——」と画面をタップして耳に当てた。
「はい、こちら棚橋。ええ、ええ。区役所にいま。ええ……え? ヤスさん、今なんて? いえ、違います。その方は九月に港区の公園で亡くなった女性の弟さんです。はい。はい……。え? それは本当ですか? ええ。ええ。ええ……。土地の名義が、その名前で登録されている——」
ラブちゃんと顔を見合わせる。九月に港区で亡くなった女性とはカイリ君のお姉さん——花さん——で間違いない。土地の名義が登録。それは一体どういう意味なのか。棚橋さんもこちらに視線を向け、首を捻る。
「はい。分かりました。役所のデータ。はい。データ上の土地の所有者は……、もしもし? もしもしヤスさん? ヤスさん、電波の状況がちょっと悪くて、すいません。ヤスさん、ヤス——」
「切れました」と棚橋さんがスマホを耳から離す。「なに?」ラブちゃんが訪ねた。棚橋さんは小さく咳払いをして、その後でありえないことを口にした。
「この土地と建物の名義がカイリ君の名前になってます」
「まさか——」声が漏れ、喉に手を当てる。
「貓鬼がインターネットに入り込んでハッキング。それで土地と建物の継承者をカイ君にした——」
「自分も信じられないです。昨日、自分が調べた時点では、この土地の持ち主は、戸籍上百五十歳の女性、『中嶋美咲』となっていたはずです。ただ、死亡後は行政管理になったと思い込んでいました。申し訳ありません」
小さく顎を引く棚橋さんは何も悪く無い。普通ならそう思うはず。ラブちゃんは喉に手を当て何か考え込んでいる。その隣で棚橋さんは話を続ける。
「ヤスさんが区役所で確認した情報では、現状はカイリ君の本名が所有者名になっていました。誰かがデータを書き換えた。まさか、そんなことはありえないはずですが——」
「トシちゃん。これは常識を超えた存在が起こした事件。でも、これで分かった。貓鬼は電波に入り込んで、自由自在にあちこち移動してる。ハッキングに改ざん行為。それに、考えれてみれば人間の脳も同じこと——」
「人間の脳も?」言葉に出した後で背筋が凍る。人間の脳にも入り込む。まさに、自分が体験してきた恐怖ウィルスそのもの。
「人間の脳に電流を流し込む研究は昔からされている。アメリカの国防総省でも数年前、人間の脳に電気刺激を与えて記憶力を向上させる臨床実験をしてる。それにわたしも脳の周波数をコントロールして瞑想し、ハイヤーセルフとコンタクトしてる。チャンネルを合わせるってのもそれに近い」
——チャンネル。
何度もラブちゃんから聞いた。チャンネルを合わせると恐怖に飲み込まれる。それをコントロールできるようになれば、わたしの記憶は消さなくていいとも。ラブちゃんは手に持った布に視線を落としながら話を続ける。
「まあ要するに脳は、微弱な電流を常に流している臓器と言える。だから貓鬼は、電気や電波を通り、スマホやイヤホン、テレビ、パソコン、ありとあらゆる電気機器を利用して人の脳に入り込んでる。恐怖を感染させたり、恨みを増幅させたり。そして公衆電話に向かわせたりね。今の話を付け足すと、ネットに入り込めばハッカー
「最悪」ラブちゃんが吐き捨て、布から顔をあげる。
「マジパナイわね」
「もしもそうならば、公衆電話にも意味がありますね」
「え?」と棚橋さんの顔を見る。棚橋さんは無言で頷き、ラブちゃんもそれに答える。
「そうねトシちゃん。あたしもそう思ってたとこ」
「どういう意味? 今時みんな携帯で、公衆電話なんて使わないのに」
「真矢、公衆電話は無くならないって知ってる?」
「無くならない?」
「公衆電話は災害時、停電時も電話が繋がるんですよ。電話回線を通じて電力供給されているので、一般的な電話回線とは別物です。だから決してなくなる事は無いんです」
「決して無くならない電話回線……」
都市伝説『公衆電話の太郎くん』。
一度契約したら最後、死ぬまで契約破棄できない都市伝説。
そして、決して無くならない公衆電話という電話回線。
ズウゥン——
ズウゥン——
ズウゥン——
頭の中で重低音が響く。『公衆電話の太郎くん』の正体——貓鬼——を知れば知るほど解決への道が塞がれていく。出口のない都市伝説。恐ろしさに足が竦みかけて頭を振った。
ラブちゃんは布をポケットに押し込み「それで、中にカイリ君はいなかったのよね?」と棚橋さんに聞く。
「それが——」
地下室へ続く階段。その先には小さな部屋がありさらに扉が。でも、その先へはまだ進んでいないと棚橋さんは言った。
「情けない話ですが。自分、その先へ一人で行くのはやめた方がいいと、反射的に感じてしまい——」
「トシちゃんそれが正解よ。ここから先、一人になるのは避けた方がいい」
眉根を寄せて、暗い倉庫の中に視線を向ける。ぽっかりと黒い口を開けた倉庫。この中に地下へと続く階段が。ヒュゥ。小さな音がした。暗闇から湿った風に乗って妖気が手招きをしている。そう思うとここから先へ進むのが恐ろしい。
でも——。
——行くしかない。
決意を込めて唇を噛み頷く。棚橋さんもラブちゃんも同じように無言で頷いた。「自分が先に——」と懐中電灯を持った棚橋さんに続き、地下室へ向かった。
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