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「女に、飽きた。確かにそう言ったのね?」


 ラブちゃんの吐息が顔にかかる。その問いかけに無言で頷いた。確かにそう聴こえた。無の世界に引き摺り込まれていく感覚の、薄れていく意識の中。わたしは確かにそう聴いた。


「頭の中に直接入ってくるような声で、そう聴いた。それに、女性の姿を視たの。助けてって。頭の中で、それも聴こえた。ねえ、ラブちゃん。きっとその女性がゆららさん、人形を購入した中嶋美咲さんだよ。写真で見た女性とも良く似ていた……」


「ふう」ため息混じりに吐息を吐き、ラブちゃんはすくっと立ち上がる。わたしも床から腰をあげた。倒れた時の衝撃からくる痛みなのか、それとも夢の世界で走り続けていたせいなのか。足の筋肉が悲鳴をあげ骨が軋む。ふらつきながら立ち上がり、身体をそのまま壁に預けた。ラブちゃんはカチッと音を出し細い煙草に火を付ける。煙を静かに吐き出しながらラブちゃんは「カイ君の姿がないの」と言った。


「え?」聞き返し首を動かす。確かにカイリ君の姿が見えない。それに棚橋さんの姿も見えない。薄暗い石壁の廊下にはわたしとラブちゃんしかいない——。


 ラブちゃんはもう一口煙草を吸い込み、今度は勢いよく吐き出すと、「カイ君がいなくなった」と苦々しく言葉を吐いた。


「車も見に行った。外も探した。でも、どこにもカイ君の姿がない。それに電話も通じない——」

「それって、まさか——」

「女に飽きた。その言葉が気になる」


「それに、これ」差し出されたスマホの画面を見る。液晶画面に映るカイリ君の姿。それは建物に入る前、ラブちゃんが撮ったカイリ君の写真で——。


 黒服の美男子は浄化の煙を天に掲げている。


 でも——。


 カイリ君の黒服が透け後ろの景色が映り込んでいる。それに、身体に巻きつくように黒い靄がかかっている。


「なんで、これ——」

「カイ君は狙われた。そういうことかな」

「狙われたってっ……、どうして、そんなことに」

「名前を知られた。どこかで。そう考えるしかないか——」


 ——名前。


「あ」と思った。車から降りた時、背後にカイリ君の気配を感じた。わたしの耳元すれすれに唇を寄せて、囁くようにわたしに尋ねた。「僕の名前は——」と。でも振り返った時、カイリ君はそこにいなかった。ラブちゃんと一緒に車の反対側に——。


 ——そんな。


 もたれていた壁から背を離す。

 ザザザァ——。

 音を立て後悔の波が押し寄せてくる。もしもカイリ君が狙われたのだとすれば、それはきっとわたしの——。


「どうしよう……。ラブちゃん、それ、わたしのせいだよ。わたし車から降りた時、カイリ君の声がして、それで、それで、それで……、カイリ君の本当の名前を——」


「今更しょうがない!」ラブちゃんは勢いよく吐き捨てて、煙草を携帯灰皿に揉み消した。熱が帯びる目をぎゅッと結ぶ。それでも堪えきれず涙が溢れ頬の傷に滲みた。急いでグシっと拭き取る。泣くな。泣いても時間は戻らない。でも、それでも。わたしの不用意な発言のせいで。肺の奥が苦しい。後悔しても仕切れない。


「カイリ君が狙われたのは、わたしの、わたしの——」

「それが原因かどうかも分からない」

「でもっ——」

「ウジウジするなっ! そして泣くなっ!」

「でも——」

「あああ、もうっ!」


 バンッ! 背中に衝撃が走る。弾かれたようにラブちゃんの顔を見た。


「いい? 今はそんなことで泣いたり悩んだりしてる暇はないのっ! 後悔してる暇もない。それにあんたのせいかどうかも分からない! とにかく、カイ君を探し出さなきゃ。女に飽きた。その言葉が引っかかる。蠱毒師は基本女性。それに、その人形を買って都市伝説書いたのも女。女に飽きた。だからカイ君を今度は依代よりしろにしようとしてるのかもしれない」

「依代?」

「そう。でも、依代というよりはお世話係と言ったほうがいいかも知れない。実態を持たない貓鬼びょうきが、現代社会において動きやすくなるための道具みたいなものよ。便利に使われる道具。もっと広範囲に動くための道具。その道具にされるかも」

「そんな……」


 わたしが不用意に名前を言ったせいで、カイリ君が貓鬼の道具に——。


「なんとしても阻止する。でも、最悪の場合——」ラブちゃんはそこで言葉を止めた。ごきゅ。喉の奥で鈍い音が鳴る。次の言葉を聞くのが怖い。最悪の場合とは——。


「とにかく」と、ラブちゃんは重々しく口を開く。親指を立てついと動かして「トシちゃんのところへ行こう」と薄暗い廊下の先へ顎を向けた。


「あんたが倒れていた場所に木の扉があった。何も入ってないただの倉庫だったけど、念のためトシちゃんが調べてる」

「木の、扉——」


 ——そうだ。


 木の扉の前でカイリ君に腕を掴まれて、それで意識が無くなった——。

 それにあの時カイリ君は言っていた。


 ——それにこの煙、凄い効果ですよ。駆除しても駆除しても寄ってきた蟲が逃げていく。


「駆除しても寄ってきた蟲が逃げていくって。気を失う前、カイリ君がそう言ってた。蟲が浄化の煙で逃げていくって——」

「効かないんだ。小者の魑魅魍魎には効くけど貓鬼には効かないってことだよ」

「そんな。じゃあ——」

「分からない。だから最悪の場合——、いい。とにかくトシちゃんと合流しよう。煙が効かないなら、トシちゃんも危険なの」

「わ、分かった」


 石壁に囲まれた薄暗い廊下。ラブちゃんの後に続いて棚橋さんの元へ急いだ。






 


 


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