最終章
15_1
アーチ状の玄関前。改めて見上げると、石造りの洋館はとても古く重厚感があった。いや、重厚感ではない。其処だけ時空が違うような威圧感。重苦しい空気が辺りに漂い、動物的本能が危険信号を出している。
カァ——
タイミング良くどこかで烏の声がした。乾いた鳴き声が風に乗って耳朶に流れ込み、気味が悪い。すぐに頭を振る。馬鹿馬鹿しい。なんのタイミングなのだ。気のせいだ。怖いと思うな。大丈夫。言い聞かせるように玄関までの段差を一段、また一段と踏み進め、扉の前に立った。
「不法侵入は違法行為です」棚橋さんが真顔で言う。「もちろん承知の助」ラブちゃんが微笑む。「これは連続不審死事件の捜査です」と、棚橋さんは言い訳じみた言葉と共に頷いた。
古い木の扉。黒い
ギィ。
軋む音を立て扉は難なく開いた。刑事。それも田舎町じゃない、都会の刑事。こういう場面は幾度となくあったのか、薄く開けた扉から中を覗く姿が妙に様になる。微かな隙間。中の様子を窺っていた棚橋さんが、「行きましょう」と言い、私達は建物の中に入った。
建物の中、差し込む弱い光と四つの影。ギィ、と、小さな音が室内に響く。静寂を軋ませて扉はゆっくり閉まった。暗い。そして、広い。命の匂いなんてもちろんしない。誰も住んでいない古い洋館。目の前には二階へ続く大きな階段がある。シンデレラ。咄嗟にそう思い、そんなファンタジーならどれほどマシかと思った。
——
視えないけれど、視える。気配がする。部屋の隅。天井。床の下。あらゆる場所からこちらを窺っている気配がする。肩にのし掛かる重たい空気。どれくらいの時間、締め切られていたのか。外とは別世界の空気が肺に流れ込み気分が悪くなる。冷え切った骨がガタガタ小さな音を出す。ぎゅっ。唇を結び奥歯を噛み締めた。
——ダメ。怖いと思ったら付け込まれる。
「見たところ家具類は一切なし。二階も同じようなものでしょう」棚橋さんが階段の上を見上げる。雪雲のせいで天窓から入り込む光はぼやけている。欠陥品のような陽の光。微細な埃が微かに舞う。それと、湿り気のある独特な嫌な臭い。
——これは死臭だと、ピンときて。
町田さんの声が脳裏で木霊する。死臭。猫に喰われ死んだリンメイシァオの死臭。この臭いがもしもそうならば——。
ぐゅ。鈍い音を出し胃が萎縮する。ダメだ。そんなことでは。自分で決めてここにいる。できるだけ息を吸わないようにと鼻先に冷えた指を当てる。
「二手に分かれよう」ラブちゃんが白い息を吐き口を開く。その後で、浄化の煙を二本立ちあげ、タンッと床を蹴った。モードファッションに身を包む黒尽くめの魔女。煙を操り美しい魔女はくるくる舞う。その動きに合わせ、室内に浄化の煙が
ズッ、ザザッ、ザザザザッ——
聴こえる。
床を擦り逃げていく微かな音。
いや、気配か。
魑魅魍魎どもが離れていく気配。
——浄化の煙を嫌っている。
視えないけれど感じる。気配が確実に私達の周りから離れていった。「よし」と小さな声が聞こえ、ラブちゃんの姿が視界に入る。ゆらゆらと立ち昇る浄化の煙。ハーブを燃やした匂い。お線香のような香り——。
「あんたの分」とラブちゃんから棒を手渡され握りしめた。
——大丈夫、これがあれば。きっと大丈夫。怖がるな、わたし。
怖いと思う感情が大好物。
怖いと思わなければ取り込まれることはない。
それに——。
脳内は完全に覚醒している。
眠気に襲われることもないはず。
「あたしとトシちゃんは二階へ行く。あんたとカイ君は一階。あたしたちは何もなければすぐに一階に戻ってくる。地下室があるかもしれないしね。だから、もしもその入り口を見つけても、絶対に先へは進まないこと」
地下室。想像するだけで気味が悪い。無言で頷きカイリ君の顔を見遣ると、煙から顔を背けながらカイリ君も頷いていた。
「何かあったら大声で叫んでね、飛んでくるから。それに、危険を感じたらあたしを待たず、すぐにこの家から逃げ出して。オッケー?」
「分かった」
パチンとキュートなウィンクをして、ラブちゃんは踵を返す。「それじゃトシちゃん行きましょぉ」と、甘い声を出して棚橋さんの腕に絡み付いた。急な出来事に驚く棚橋さん。その鼻先を指でピンと跳ね、「怖がったらだぁめ」などと甘々ボイスで囁き、ラブちゃんは棚橋さんと階段を登り始める。その後ろ姿は、まるでお化け屋敷に入っていくカップルのようで——。
——怖がったら、ダメ。うん。
二人が階段を登る姿を見ながら心の中で呟いて、「それじゃあ——」とカイリ君の方へ向き直った。
——え?
魔道士
「大丈夫?」
「うん、僕、その煙の臭いやばいかも——」
「やばい?」
「そう。吐き気がする——」
「え?」
刹那。
カイリ君の身体がぐらりと傾き腕を伸ばした。ズシッっと腕に走る重量感。支えきれない。咄嗟に煙の出る棒を手放し両手で支える。それでも力が足りない。傾く身体。カイリ君を抱いたままどさりと床に腰を打ちつけ、顔をあげた。急いで「ラブちゃん」と叫ぼうとした矢先、冷たい手で口が塞がる。
「大丈夫だから、呼ばないで——」
「え、でも——」
「良いから、お願い。子供扱いされたくない——」
「子供扱いなんて、誰もしてないよ」
「本当、大丈夫……、ちょっと気持ち悪くて、目眩がしただけだから——」
「本当?」
「うん——、すぐ治るから……」
——血の気の抜けた青白い顔……。
腕の中、長い睫毛を伏せたカイリ君の顔を見る。白蝋めいた肌は一層白く、額には汗が滲んでいる。指で汗をそっと拭いながら深夜の記憶がフラッシュバックした。公衆電話から携帯に電話がかかってきた深夜。カイリ君の部屋で浄化の煙を嗅いで気を失った。わたしの中に悪いモノが入り込み、そのせいで吐き気と目眩を催した。まさか、カイリ君も——
——憑かれてる?
視線を二階に向ける。ラブちゃんの姿も、棚橋さんの姿も見えない。頭上ではギシッギシッと床を踏む音が移動している。多分あれは部屋に入り歩き廻る音。大丈夫、声を出せばすぐ聴こえる距離にいる。
すっと息を吸い、ラブちゃんの名前を呼ぼうとした瞬間、腕の重みがふっと消え失せた。「え?」と視線を下げる。腕の中、目を閉じていたカイリ君の瞳がパチリと開いている。カイリ君は何事もなかったかのように、スクッと上体を起こし「大丈夫」と言った。しっかりとした声。先ほどまでの様子とは別人で、著しい体調の変化に脳が追いつかない。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
「うん。僕、いきなりスイッチ切れること良くあるから」
「え? そうなの?」
「うん。良くあるから、大丈夫。さぁ、行こう、真矢ちゃん。僕がその煙を持つよ」
「え、でも——」
「さあ、先を急ごう」
先に立ち上がったカイリ君が手を伸ばす。「うん」と、その手を握り立ち上がった。冷たい大きな手。いつも通り澄ました顔。カイリ君に別に変わったところはない。
それに——。
薄暗い古い洋館の中。カイリ君は洋服をパンパンと手で叩き、浄化の煙を拾い涼しい顔をしている。顔色もいつも通り。鼻先をくんと動かせて煙を嗅いでも、特に苦しそうな気配はない。
——浄化の煙が大丈夫なら、別に問題ないって事だよね?
「良かった」と呟いて、そばに寄る。でも、なぜなのか、わたしの動悸は激しくなっていた。
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