14_1

 カイリ君に「酷い顔ですよ」と言われバックミラーで自分の顔を見た。頬に爪痕、滲む赤い血。そっと頬を撫でる。ヒリヒリとした痛み。鏡に映る自分の指先にも血が滲んでいる。夢だけど、夢じゃなかった。


 それに——と、窓の外を見る。車の外、窓から見える景色も夢と同じ。車を駐車しているのは常緑樹に囲まれた場所で、車の前方には焦茶色の洋館が見える。完全に夢の世界と一致している。多分これは、ラブちゃんの言い方を借りれば、チャンネルが合っている——と、そういうことになる。


「どうする? あんたは行くのやめて車で残る?」ラブちゃんに聞かれ、即答で「行く」と答えた。


「声を聞いたの。助けてって。夢の中で。もしもその声の主が中嶋さんの娘さんなら、わたしに助けてって言ってる。ここまで来て行かないなんてできないよ」

「ふうん、なかなか強くなったじゃない。いいね、そういうの好きだよ」


 好き——。

 ラブちゃんの言葉に胸がとくんと鳴る。

 好き。

 ——わたしもそう思う。ビクビク怖がってるより、こっちの自分の方が好き。


 胸に手を当てる。冷たかったはずの手が温かい。自分の手の温もりが身体の中心に吸い込まれていく。温かい。大丈夫。わたしはここにいる。目を閉じて、ラブちゃんに言われたことを心の中で呪文のように復唱する。


 ——自分の存在意義。確固たる芯。自分の中にある軸を見失わなければ、大丈夫。


「カイ君は大丈夫?」ラブちゃんの声で閉じていた目を開ける。


「もちろん。僕は姉さんが死んだ原因を解明して解決する。それしかないと思ってここにいます」


 強い口調。硬い決意を感じる。カイリ君は出会った時からずっとそう言っている。なんとしても解決したいと。この都市伝説を止めたいと。それにリサイクルショップを出た時も言っていた。


 ——この恐怖ウィルスを治す薬はない。自分で作るしかないんですよ。だから僕は、公衆電話の太郎くんを解決したい。その強い意思で恐怖ウィルスと戦ってます。


「そうだね」自然に言葉が出る。


「公衆電話の太郎くん、名前を言うだけでも怖かった。でも、脳内に入り込んでしまった恐怖ウィルスと戦うためには、カイリ君が言うように、目的を持って突き進むしかないんだよね。解決するしか道はない。それにわたしは中嶋さんとの約束を果たしたい——」


 決意を言葉に出し、カイリ君の顔を見る。もじゃっとした髪を後ろで結び、白い顔をしたカイリ君は「うん」と頷いた。結び損ねた前髪が一筋頬に垂れている。二十九歳だとわたしに嘘を吐いた十九歳の美少年。「そういえば——」と、今更ながらなことを聞く。


「カイリ君って、本当の名前もカイリ君なの?」

「なんですか、今更——」

「だって百鬼花入はお姉さんのアカウント名だったから」


「海と書いてカイ君よ」助手席で髪の毛を纏めながらラブちゃんが口を挟む。


 ——木崎海きさきかい。それがカイリ君の本当の名前。


「花に海。シンプルでいい名前。花を嫌う人はいない。海より深いものはない。亡くなったご両親のセンスよね。でも気をつけて。名前は大事なの。不用意に口に出してはいけない」

「口に出してはいけない?」

「そう。本名を不用意に口に出してはいけない。だからあたしはラブちゃんだし、トシちゃんはトシちゃん。あんたとカイ君のことは下の名前でしか呼ばない。本当の名前を知るだけで、その人を呪うことができるから」


 ——本当の名前を知るだけで、その人を呪うことができる。


 公衆電話の太郎くんによって死んだ人達は、誰かに恨まれ、生贄にと名前を言われた。本名を知られるだけで呪い殺される。改めて考えると恐ろしい設定で、嫌な汗がじわっと脇に吹き出した。


 ——ある特定の人の周りで感染していく。


 棚橋さんはカイリ君にそう言ったと聞いた。そして最後、その人もまた同じように死ぬとも。生贄に差し出す人がいなくなり、最後は自分が生贄の代わりになる——。


「分かった」と静かに頷く。髪の毛を頭の天辺で綺麗に纏めたラブちゃんが「それじゃあ」と動き始めた。ラブちゃんが開けたドアから冷たい空気が車内に流れ込む。棚橋さんも運転席から車外に出た。最小限の荷物、スマホを胸ポケットに入れてドアを開け、わたしとカイリ君も車から降りた。


 ジャリ。夢の中と同じ感触を靴底に感じる。空を見上げるとそこにも夢と同じ重たい灰色の空があった。風はない。でも——。


 ——ひらひらと小さな雪が舞い始めている。


 ピピッと車のロック音が聞こえ「自分ちょっと電話が——」と、棚橋さんが車から離れていった。夢とは違う。大丈夫、これは現実。慎重に情報を整理しながら辺りを見渡す。手入れの行き届いた庭木。広い敷地の奥には茶色い洋館が周辺の木々に溶け込むように建っている。建物の二階、窓は夢と同じように暗闇で、きっと良くないモノが巣食っている。ぞくぞくと神経が敏感になっていくのを抑え込むように、ぎゅっと拳を握り唇を結んだ。


 ジャリっと石を踏む音が背中で聞こえ、「真矢ちゃん」とカイリ君が背後に立つ。耳元で「解決したら僕のことを忘れますか?」と囁かれ、「忘れないよ」と前を向いたまま答えた。


 ——記憶を全て消すとラブちゃんは言った。でも、わたしが自分でチャンネルの切り替えができるなら、消さなくてもいいと言った。わたしは、誰の記憶も失いたくない。


 もう一度「絶対に忘れないから」と言葉を繋ぐ。「僕の名前も?」とまた耳元で囁かれ「もちろんだよ」と小さく答えた。——本当に? ——もちろん。 ——絶対? ——絶対。 ——じゃあ一緒に言ってみて。 ——言ってみて? ——そう、僕の本当の名前は——


「——木崎海?」


 急に気配が消え「あれ?」と振り向く。カイリ君の姿がない。「え」と首を動かすと、車の反対側、ラブちゃんとカイリ君の姿があった。


 ——気のせい……?


 確かにいま、背後にカイリ君がいた。耳元で囁かれたカイリ君の吐息の感触も残っている。なのに、なぜ後ろにカイリ君がいない——。


 ——夢? 


 まさか。これは現実。頭を振り妄想を振り払う。いけない。また夢か現実か分からなくなる。急いで車の反対側に移動する。夢の中でおかしなことが起きるのは、いつも一人の時だった。一人でいたらまた夢に取り込まれてしまう。誰かのそばにいなくては——、そう思い小石を蹴った。

 


 




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る