13_3
「カイリ君……? ラブちゃん? 棚橋さん……?」
視線を動かす。
誰もいない。
自分の声の残響が耳の中で反芻している。
薄暗い部屋の中、壁に取り付けられた燭台で炎が揺れている。
炎の揺れる明かりが辺りを照らす。
石造り、窓のない三角形の部屋。
正確な三角形。
湿り気を帯びた冷たい空気。
錆びた鉄の匂い。
滴り落ちる水の音が聴こえる——。
—— 誰もいない部屋に閉じ込められた。
そう思った瞬間、心が恐怖に飲み込まれていく。「いゃ」声が漏れ手で口を塞ぎ一歩後退った。刹那。グチャ、硬い物を踏んだ感触と音。粘り気を帯びた嫌な感触。気色悪さが足の裏から全身に走り抜ける。恐る恐ると、視線を黒いスーツの胸元からゆっくり下に移動させていく。腰、足、靴、床——。
「ぃや」
網膜に飛び込む無数の虫。硬い甲羅を持った黒い蟲、蟲、蟲、蟲が、床一面を埋め尽くし這いずり廻っている。逃げ出したいのに悍しい光景に怖気付き身体が硬直して動けない。
——怖い。でも、ダメだ。怖いと思ったら。
目を瞑る。硬く目蓋を結ぶ。
でも。
視力を失った闇の世界は触覚と聴力を敏感にさせる。
カサカシャ、カサカシャ。蟲の動く音が足元から聞こえ始め、靴底に微小な動きを感じる。靴底の下で蠢く蟲がいる。踏んだのに死んでいないその蟲が、靴底から抜け出して靴を這い上がる——。さわさわとさわさわとズボンを這い上がってくる蟲が視えないのに、視える——。そんな妄想に脳細胞が支配されていく。全身が鳥肌立ちがくがくと膝が震えた。
——これは現実じゃない。醒めろ、夢だ。醒めろ醒めろ醒めろ、醒めろ……。
口に当てたままの手に力を入れ頬を掴む。ぎりっと爪が頬に喰い込んで痛い。痛い。痛くていい。醒めろ、醒めろ、醒めろ。何度も心の中で言葉を吐き続ける。蟲なんていない。これは全て妄想、夢の世界。大丈夫、大丈夫、大丈夫——。
——た……け……ゃさ……
美琴ちゃんの声が聞こえる。
わたしの名前を呼び助けを求めている。
幻聴だ。
あれは幻聴、これは夢。
大丈夫。
醒めろ、醒めろ、醒めろ。
指に力を込める。
頬に喰い込む爪。
痛み。
痛みを感じるのに——。
醒めない夢の世界。
もっと強く、もっと痛みを——。
歯を食いしばり頬を掴む。
——たす……け……
美琴ちゃんじゃない声に反応して手の力が一瞬緩んだ。
刹那——。
弾かれたように目が開く。
網膜に飛び込む光景。
足元から消えた蟲。
その代わりに無数の壺が床に置いてある。
腰の高さほどの大きな壺。
眉を顰め一番近くの壺を見る。
壺の口には封印がしてある。
動物の皮のような硬い布。
その布には漢字が羅列して書かれている。
日本語ではない。
漢文のような漢字だけの羅列。
びっしりと隙間なく書かれた文字を目で追う——
——パンッ
乾いた音が部屋に響き動きを止めた。
自然と呼吸も止まる。
視線をあげ、部屋の様子を伺う。
この音は一体——
——パンッ
——パンッ
——パンッ
——パンッ
音が次第に増えていく。
これは壺の内側から封印を叩く音。
——バンッ!
目の前の壺から一際大きな音がして視線を戻した。
手の跡——。
人間の手の跡が内側から硬い布を押している。
——たす……け……
さっき聞いた女性の声。
咄嗟に思い浮かぶゆららさんの存在。
「いま、いま、開けるから——」
動きの悪い指を動かし封印を外そうとするけれど、壺の口に巻かれた紐が硬くて解けない。
——ここ……ここを……だ……
「いますぐ開けるから、待ってて、もう少し、もう少しで——」
必死に紐を解こうとするけれど硬く結ばれた紐が解けない。爪を喰い込ませ引っ張る。でもすぐにそれも無意味だと気づく。硬い、びくともしない。内側から助けを求める声がする。もしもこれが中嶋さんの娘——ゆららさん——なら、助けなければ。爪から血が滲む。硬くて紐が解けない。それだけじゃない。封印に使われている布も思った以上に硬く、爪を立てても破ることができない。これは布じゃない、皮だ——。
部屋の中を見渡す。
何か、何か、破れるようなものはないか——。
「あれは——」壁に刃物が掛けてある。大きな刃渡りの銀色の刃が炎の明かりを反射している。
「ちょっと待ってて、すぐにっ、すぐに、開けるからっ……!」
手の跡が何度も壺の内側から助けを求めている。急げ、すぐに。走れ。でも無数に置かれた壺が邪魔で壁際まで進めない。手で退かす。動かない。思ってる以上に壺は重たい。動けない。全然、全く。この場所から足が、そうか——
わたしの周りは全て壺で埋め尽くされている。わたしはこの壺に囲まれて動く術がない。三角の部屋の中、わたしもまた閉じ込められている。この壺の中から助けを求める人のように——。
ガクンと膝が揺れた。
力が頭から抜けていく。
鼻が曲がるような酷い匂いがした。
窓のない部屋なのに風が吹き蝋燭の炎が消える。
闇。
そこで意識がプツリと消え——
「は」
「真矢ちゃん! 良かった、起きた——」
カイリ君の声。
肩に感じる圧力。
カイリ君に肩を掴まれている。
「魘されていたわよ」
ラブちゃんの声。
甘い煙草の匂い。
ここは車の中。
夢から醒めた。
戻ってこれた——。
「はあ、はあ、はあ」浅い呼吸を繰り返す。
また、夢をみていた。
でも、前のわたしとは違う。
額の汗を手で拭いながら、わたしはそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます