第六章 解明

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 耳に心地良い流水音と鼻先を擽る香り。ひくっと小鼻が自然に動き連動する様に目蓋を持ち上げた。窓から差し込む光に微細な何かが反応してキラキラと輝いている——。


「ん……」と声を漏らし身体の向きを変えた。柔らかい布団の感触、温かい温もり。そういえばここはカイリ君の家だったと思い出す——と、「おはよございます」と優しい声が聞こえた。


「ん、おはよ……」


 ゆっくり身体を起こすとキッチンにいるカイリ君が見えた。カウンターの上に置かれた朝食。珈琲の香りが部屋中に漂っている。


「真矢ちゃんぐっすりでしたね」


 カイリ君の声がゆったりとしたスピードで耳朶に流れ込む。「うん、久しぶりにこんなに寝れたかも——」と答え、髪の毛をくしゃっと触った後で、手で目蓋を押さえた。久しぶりに熟睡した。ここ最近まともに寝れなかった気がする。眠っても、怖い夢を見て汗ぐっしょりで起きる。そんな日が続いていた。


 ——ラブちゃんの煙草のおかげ……?


「あ、れ?」と部屋の中を見渡す。ソファーを陣取って寝ていたラブちゃんの姿が、見えない。


「ラブちゃんは?」

「ラブちゃんはランニングに行きました」

「ランニング……」

「毎日の日課だそうです。健康的ですよね〜」

「へぇ。凄い」

「という僕も、もう走ってきてシャワーを浴びました。真矢ちゃんも、シャワーどうぞ」

「あ、うん。カイリ君も走ってきたんだね」

「メンテナンスは大事ですから。朝食は下のベーカリーで買ってきたパンとサラダ、それとスクランブルエッグ。真矢ちゃんは朝ご飯にパン、大丈夫ですか?」


「うん」と布団から起き出してカウンターへ。白木のカウンターの上には白いプレート皿におしゃれに盛り付けられた朝食。


「これ、全部カイリ君が作ったの?」

「もちろん。作ったと言っても卵以外は盛り付けただけですけどね〜。下のベーカリーには鎌倉の無農薬野菜が売ってるんですよ。早朝から開いてるパン屋さんで。ランニングの後に寄って買ってきました」

「凄い……。都会的な朝食とエピソード」

「あはは、ここは大都会東京ですから。覗いたりしませんので、どうぞシャワー使ってください」

「あ、うん……。ありがと」

「はやく入らないと、ラブちゃんが乱入してきますよ」

「え?! それはやだな——」

「あはは。お風呂は廊下に出て右です」


 鞄から宿泊セットを取り出しお風呂場へ。大理石の床にガラス張りのシャワールーム。その奥には横長の湯船。足を伸ばせそうな程大きなバスタブには白い泡こんもりと乗っていて、思わず「セレブかっ!」とツッコんだ。


「凄すぎる……」


 こんなリッチなお風呂、入ったことがない——。

 それに、甘くてとろけるような香りが漂っている。

 それはまるで麻薬の様にわたしの脳を刺激して——。

 無意識に服を脱ぎ出した。

 はやく、湯船に浸かりたい。

 あの泡泡の湯船で寛ぎたい。

 溶けてしまいたい。

 このままこの世界に溶けて——。 


「いかんいかん、まずは身体を」


 まともな頭を取り戻し、シャワールームへ。見たこともない銀色の操作パネルを触ると、頭上から適温のお湯が流れ落ちた。頭を撫でていく生温いお湯。目を瞑り髪に手櫛を入れる。


 ——気持ちいい。

 ——最高の気分。

 ——これが都会でリッチな暮らしかぁ〜。

 ——カイリ君は美男子だし、朝食は都会的だし。

 ——最高の気分。


 これが欲しいか——。

 ——欲しいよ、そりゃ。最高の気分だよ。

 欲しければ——。

 ——欲しければ?

 願え——。

 ——願え?

 願えば、叶う——。

 ——願えば、叶う?

 

『僕に願えば全部手に入るよ、真矢ちゃん』


 自分の名前が聞こえ「え?」と、目を開ける。


 ——刹那。


 赤、赤、赤、真っ赤な世界が網膜に飛び込む。錆びた鉄の香りが充満したシャワールーム。頭から足先まで真っ赤な液体に塗れる身体。白い肌を滑り落ちていく赤、赤、赤——。


「や、な、なにこれ……とめ、とめなきゃ——」


 シャワースイッチを押す。

 でも——。

 押しても押しても止まらない。

 カチャカチャ。

 スイッチを押す音が虚しく鳴る。


「やだ、やめてっ! なんで止まらないの?!」


 あははは。

 うふふふふ。

 

 訊こエル。

 訊こエル。

 笑い声が——。


「訊こえない! 訊こえるわけないっ!」


 シャワールームのドアを押す。

 開かない。

 ガラスの壁を叩く。

 バンバンバンバン!

 バンバンバンバン!


「やだぁ! 出してぇ! 出してぇ! カイリ君! カイリ君! 助けて!」


 バンバンバンバン!

 バンバンバンバン!


「カイリ君! ラブちゃん! 助けてぇ! 助けてぇ!」


 バンバンバンバン!

 バンバンバンバン!

 バンバンバンバン!


 ——バンッ!


「ひっ」思わず口を手で塞ぐ。

 突如目の前にあの日と同じ——。

 美琴ちゃんがガラス壁に打ち付けられて——。

 頭から脳漿が零れ落ちている。

 血走った眼——。

 わたしを睨みつけている。


「やっ……」


 訊こエル——。

 美琴ちゃんの声が——。


『真矢さ…ん……どうして?』

「美琴ちゃん、ごめんなさい」

『た…け……てっ……て、…った…のに……』

「なにもできなかった」

『……し…に……た…のに…』


 ——バンッ!

 ガラスを美琴ちゃんが叩く。

 その美琴ちゃんの手の跡が——。

 ずりずりとずりずりと——。

 下に落ちてゆく。


「もうやめてぇー! カイリ君! ラブちゃん! 助けてぇー!」


 訊こエル。

 訊こエル。


 欲しければ願えばいい。

 欲しいでしょ?

 こんなリッチな生活。

 都会の街でいい男。

 高級マンションでリッチな生活。

 もう働く必要なんてないんだよ?

 あははは!

 あははははは!

 最高の気分でしょ〜?


「誰なの……?! それに、やだ……、欲しくない、そんなの欲しくない!」

 

 欲しいって思ったでしょ?


「欲しくない! 普通の暮らしで十分幸せ!」


 嘘つき。

 嘘つき。

 嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき!


 訊こえてくる声を振り切る為に力を振り絞り叫ぶ。


「欲しくないー!」


 刹那。

 無明の闇に吸い込まれ——。


 チカチカッと頭上から小さな音が聞こえ、恐る恐る目を開ける。寒々しい光。青白い蛍光灯がチカチカ瞬く電話ボックス。はっと視線を下げると目の前には緑の公衆電話が——。


「いや、やめて……」首を振る。必死に首を振る。でも背後から頭を掴まれて動けない。息が苦しい——。


「くっ……ハッハッハッ……ウぅう」


 腕が勝手に動く——。

 緑の公衆電話、その受話器を持ち上げ——。

 耳に——。

『ツー……』

 ——やめてぇ……

 指がダイヤルを押し始める。 


『ピポピぺポ——』


 ——0906……わたしの携帯ば……ご……助けて、カイリく……ラブちゃ……


『もしもし?』


 ——わた……声……だ、め……


『太郎くん太郎くん——』


 ——いっちゃ……め……


『ようこそわたしの——』

「いぃやぁ……ぅめぇてぇ——」

『い——』

「ういやぁぁあ!」

『え——』

「ぁあああああ……!」


 ——ダメだ、言ったら……


「ダメダァーーーー!!!」

 

 

「かはぁっ」

 一気に肺に空気が流れ込む。

 気怠い身体。

 視界に映る暗い場所。

 温かく柔らかい温もり——。

 

 ——ここは布団の中……。


「はぁ〜」深い息を吐く。

「良かった……夢だった——」


 また怖い夢を視ていた。

 ここは東京、カイリ君の部屋。

 わたし、また夢を——。


 ——ブルブルブルブルッ ブルブルブルブルッ 


 刹那。

 胸を刺激する振動音。


「なんで、スマホが布団の中に……?」


 咄嗟に思い浮かぶ緑の公衆電話——。


「嘘でしょ……ら、ラブちゃん……。ラブちゃん!」飛び起きてラブちゃんを探す。


 ——居ない。


 ソファで寝ていたはずのラブちゃんが、居ない。


「カイリ君、カイリ君……、え? 居ない? なんで、どうして?! 二人ともどこいったの?!」


 薄暗いカイリ君の部屋。スマホはまだ鳴っている。布団の上でブルブル震え、微かに光が漏れている。


「違うと言って——」


 布団の上のスマホを足で転がし画面を見る。網膜に飛び込む『公衆電話』の四文字——。


「いやぁあ! たす、ケテ……」頭を抱え蹲る——と、背後から衝撃が走った。激痛が身体中に広がる。痛い。転げてゆく身体。痛い、身体が、凄く痛い——。


 ——カイリ君、助けて……

「お……て! ま……ちゃ……!」

 ——カイリ……?

「起き……! 真……ちゃん!」

 ——起き、て……


「「起きろ! 真矢!」」と力強く頬を引っ叩かれ、目を見開いた。カイリ君の顔が目の前にあって涙が溢れる。


「カイリ君、わたし、わたし、また夢を……。それに、それに、公衆電話が、公衆電話が——」


 カイリ君にしがみつく。怖かった。凄く凄く怖かった。身体の芯がまだ恐怖で震えてる。カイリ君はわたしの頭を抱きしめた。温かい胸。これは現実。大丈夫、これは現実——。


「夢だよ、大丈夫、夢だから」

「怖かった、凄い怖い夢だった——」

「夢だから。もう起きたから大丈夫——」

「もう、やだ……」

「大丈夫、夢だから。ね、そうだよね? ラブちゃん?」


「ラブちゃん?」とカイリ君がもう一度言う声を聞いて、顔をあげる。臙脂えんじ色のジャージを着たラブちゃんは無言で立っている。


「ね、夢だよね?」もう一度カイリ君が聞く。ラブちゃんは考え込む様に顎に手を当て固まっている。


「ねえ、ラブちゃん……?」

「カイ君。残念だけど、これは夢だけど、夢じゃない。真矢ちゃんは夢に入り込まれてる——」

「夢に、入り込まれてる……?」

「多分、間違いない。だって、ほら——」


 ラブちゃんが「ほら」と指差す方を見る。ガラステーブルの上、小さく光るスマホ画面。恐々覗き込むと、わたしのスマホには着信が一件入ってた。


『不在着信 公衆電話』

 



 


 

 

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