7_5

 いつの間にか途絶えた意識がゆっくり再生する。見慣れない天井に布団の感触。ここはどこかと一瞬考え、ガバッと身体を起こした。衣服は乱れていない。でも、どことなく煙草の匂いがした。薄暗くなっている部屋。締め切った窓。陽の光は差し込まず、スマホで時間を確認しなければと、スマホを見る。


 ——八時過ぎ。


 いつもなら朝の情報番組をつけている時間。いつもの癖でテレビをつけようとして、止めた。深夜、寝ようと思えば思うほどに目が冴えて、寝るのを諦めテレビをつけた。でもここはそういうホテルな訳で——。


 ——裸のお姉さんとおじさん、喘ぎ声が大音量で部屋に響き……。


 慌てて消したわたしを見てカイリ君は大笑いしていた。


 ——真矢ちゃん、そういうのが観たくて起きたんですか?

 ——いや、あの、これはね、観たくて、って、なわけないでしょ!


 その後布団に包まり結局いつの間にか寝ていた。それに、心配していたようなことはなく、緊張してドギマギしていた自分が滑稽に思えるほど、カイリ君は紳士的なまでに紳士的で。もちろん指一本触れられることはなく。また少しだけカイリ君を見直して、信用できる人かもと思った。


 ベッドの端を見る。落ちそうなほど端っこに、いつ寝たのか分からないけれどカイリ君が寝ている。起きる前なら大丈夫かと布団から這い出て顔を覗き込んだ。


 ——本当に一個上? めっちゃ肌のきめが細かいし。それに……。


 もじゃもじゃの髪の毛が顔にかかっているけれど綺麗な顔をしている。整った鼻と唇。長い睫毛にスッとした顎。まじまじ観察し、起きる気配がないことを確認してから洗面所に向かった。


 ——さすが。田舎とはいえ、急な宿泊でも対応できるラブホテル。


 歯ブラシは当然のことながら基礎化粧品の小さなセットも置いてある。まずはメイク——ほとんどしてないけども——を落とし、化粧水。乳液をつけながら部屋に戻り、鞄の中から化粧ポーチを取り出した。仕事上、化粧直し用に簡単なセットを持ち歩いている。ファンデーションに口紅、アイメイク。洗面台に戻り、ささっと手短に整えてから、ふと髪の毛の匂いが気になった。髪をつまみくんくんと匂いを探す。


 ——煙草の香り。


 昨日、今時珍しい全席喫煙の喫茶店に行ったことを思い出し、急に不安が押し寄せてきた。


 ——そうだ、その流れでいろいろ動きまわり、今、ここにいるんだ。


 ぞわぞわと背筋に嫌な感触が走り、白々しい照明の洗面台、その鏡が怖くなる。視界の隅に鏡に映る自分の姿——。もしも、自分じゃないものが映り込んでいたらどうしよう。そう思うと髪を摘んだまま身体が硬直した。


 ——やだな、そんなことある訳ない。ある訳ないって、でも……。


 恐る恐る視線を少しずつずらす。髪の毛を指で摘んで顔を横に向けている自分の上半身。白いタートルネックがぼんやりと見える。肩まで伸びた黒髪は結んでいない。白に黒、それ以外はホテルのピンクな壁紙があるだけで——。


 ——刹那。

 自分の後ろに黒い影を見つける。


 ——うそだ……。


 直視できない視界の隅。

 わたしの後ろ。

 黒い影が見える。

 もやもやと実態を持たないその影がわたしの背後に、いる——。

 

 硬直する身体。

 地鳴りのような音。

 その中に混じって笑い声が聞こえる。


 あはは。

 うふふ。

 あはははは。

 うふふふふ。


 性別不明なその声はとても楽しそうで。

 わたしの周りを笑い声がぐるぐる動いている。


 あはは。

 うふふ。

 あはははは。

 うふふふふ。


 ——やめて、なんなの、やめて、やめて……


 髪を摘んだままの手に感触を感じる。

 さわさわと黒い煙のようなものが手に纏わり付きわたしを撫でていく——。


 ——いや、い、や……


 指先から手の甲へ。

 手の甲から手首を伝い腕を撫でながら登っていく感触。

 硬直し動かなくなったわたしの身体を舐めまわすように。

 じわわと身体に感じる触手。


 訊こエル。

 訊こエル。

 笑い声が——。


 あはは。

 うふふ。

 あはははは。

 うふふふふ。


 首筋に触れる感触。

 顔を背けたくても動かない。

 湿り気を帯びた生温かい感触。

 それはまるで舌のようで——。


 ——や、やめ……てぇ……


 太腿の内側に。

 舐めまわすようにその上へ——。

 纏わりつく舌。

 抵抗したくても動けない。

 蹂躙じゅうりんされていく身体。


 ——や……や、やめ……


 訊こエル。

 訊こエル。

 笑い声が——。


 あはは。

 うふふ。

 あはははは。

 うふふふふ。

 助けて——。

 

 ——だ、れ……? 


 あはは。

 うふふ。

 僕?

 僕はね——。


『公衆電話の太郎くんだよ』


 ブチッ——。

 自分の中、何かが切れた。

 瞬間声が——


「いやぁぁあああぁあぁ!」


 叫び声と共に身体の力が抜ける。

 宙を舞う両手。

 踠き、踠き、踠き、両腕を振り回す。

 刹那。

 強い力で手首を掴まれた。

 視界に光が差し込む。

 ぼやけた視界。

 だんだん明瞭になる世界。

 カイリ君の顔が見えた。

 

「大丈夫ですか?」

「カ、カイリ君……」

「酷くうなされていましたよ」

「魘されて……。ゆ、夢……夢か……」

「大丈夫ですか?」

「う、ん……」


 薄暗い部屋。

 ラブホテルのベッドの上。

 全身がびっしょり濡れている。

 いや、自分の汗か。

 着ている衣服のその下。

 全身に汗をかいている。


「真矢ちゃん?」

「ごめん……、すごく、すごく……怖い夢を、見て……、あれ……?」

「なんで泣いてるんですか?」


 無意識にわたしは涙を流していた。

 



 


 


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る