第五章 美咲

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 ——中嶋美咲さん、三十三歳。独身、一人暮らし。現在失踪中。


 取調室で『太郎くん』の名前を言った殺人鬼、鷺沼の発言を元に、被害者である鈴木敬太さんの女性関係を調べた。そこから辿り着いた中嶋美咲という女性。偶然にも、わたしがご葬儀を担当した(故)中村幸代さん——享年七十五歳——のご葬儀で出会った女性が美咲さんのお母様だった。


 ——偶然。


 多分、それは偶然。

 そう思うけれど——。


 その不思議なご縁のおかげで中嶋さんは私達を信用し、娘である美咲さんの部屋の鍵を貸してくれたと、思う。


 ——いや、それだけじゃないか。


 カイリ君はわたしが心配する必要なんて全くない程に、しっかりと対応していた。低くて落ち着きのある声。美しい立ち振る舞い。会話のトーンを相手に合わせ、間も完璧だと思った。でもいまは——。


「真矢ちゃん、やっぱり夜はコーヒーですよね。眠気が吹っ飛ぶくらいの濃いやつが飲みたいです。この時間だとどこで飲めますか? 東京と違って、お洒落なカフェなんてないでしょ? スタダとかこの辺ってありますか? ねぇ、真矢ちゃん? やっぱりコンビニくらいしか——」

「あのさ、ちょっと黙っててくれる? ナビの案内する声が聞こえないんだけど」


 中嶋さんのお宅を出て車に乗った瞬間、カイリ君は元に戻った。一瞬でも見直したわたしが馬鹿だったかも知れない。助手席でいつもの黒服に着替えたカイリ君は、濃いめのコーヒーをご所望している。


「僕、缶コーヒーは苦手なんですよね。甘さが強過ぎて。コーヒーだけはブラックと決めているんですよ。それに炭火焙煎が一番好きです。知ってますか? 東京には——」

「もう黙ってて! ここは東京じゃないし、コンビニくらいしかやってないから!」


 ——暗いんだから。煩くて運転に集中できないって。


 もうすぐ日付が変わる。こんな時間にやってるのは、国道沿いの牛丼チェーン店かコンビニくらい。ファミレスも多分閉店している。それに——。


 カーナビの表示を見る。中嶋美咲さんのアパートまでは残り十五分。そこに行くまでの道沿いにコンビニはないような気がする。美咲さんのアパートは、わたしの家の方角に三十分ほど進んだ場所で、帰り道ならばとこのまま寄ることにしたのだけれど——。


「コンビニも見当たりませんよねぇ」

「そだね」

「真矢ちゃん何か怒っていますか?」

「別に」


 車は堤防を走っている。当然、コンビニは見つからない。大きな河川沿いに走る堤防道路は幹線道路並みに市町村を跨いでいく。この道が一番早く目的地に到着できると思った。ヘッドライトが照らす細い道。ガードレールのない夜の堤防道路は気を抜くと転落しかねない。慎重に、慎重にと走っている横で煩いことを言われたらかなわない。


「闇ですね」

「うん、闇だよ。堤防だし。だからもう喋んないで」


 それにしても——。


 中嶋さんは娘である美咲さんがどこかで生きていると信じていた。失踪して一年。全く手掛かりもなく、あのテレビもない家で独り。この一年間どんな思いでいたのか。それを思うと切なくなる。


 ——母と娘、行き違いはきっとどこの家庭でもある。わたしだってそうだ。実家のお母さんと相容れないところはどうしてもある。それでも親子だし、やっぱりお母さんに何かあれば心配になる。美咲さんは、一人暮らしのお母様のこと、心配じゃないのかな……。


 人が変わったように——。


 相田金属でカイリ君が聞いてきた話を思い出す。


 ——まるで別人だったと云っていました。化粧は派手でも大人しい子だったのに、自分の事を見下すような目で見て『用はない』と吐き捨てて出て行ったそうです。


 そんな風に人は変われるものなのだろうか。例えば、お仕事モードを脱ぎ捨てて、職場で本来の自分になった——と。そういうことなのか。でも余程のことがない限り、そんな風に自分を変えれない気がする——。


 それに、中嶋さんに見せてもらった美咲さんの写真。振袖を着た成人式の写真を見る限り、綺麗で大人しい人という印象を持った。ずかずか意見をいうタイプではなく、どこか控えめな印象。もちろん写真で人の内面までは分からない。それに、社会に出て性格が変わる人もいる。溜め込んでいたものが爆発して犯罪を犯す人のように——。


 ——報道で知る限りでは、鷺沼もそういう人だった。


 一年前の事件。

 報道機関の取材に応じた鷺沼の同級生は言っていた。


 ——正義感や責任感の強い奴だったのに、なんで。


 事件後、テレビで見た鷺沼の顔と中学時代の顔はまるで別人だった。小学生の頃からバスケのクラブチームに入り、将来を期待された少年時代の鷺沼。確か父親が体育教師で、母親も教員だと言っていた。普通の家庭に育った少年は、なぜ残忍な犯行に及んだのか。積年の恨み。抑え込んでいた感情。その背中を押したのは太郎くんの声。


 ——なわけ……、でも……。


 誰でも心に隙間を持っている。わたしだって黒い感情がないとは言い切れない。その黒くて深い闇を一筋の光が照らし、もしもそれが良からぬ方向へ向かったとすれば——。


 ——何が希望の光になるのかなんて、その人にしか分からない。


 真っ暗な堤防道路を走りながら、わたしはそんなことをふと思った。その人の中の正義は必ずしも、全ての人にとって正義ではない。きっと戦争がいい例で、お互いがお互いの正義をぶつけ合い、己の正義の為に人を殺す——。


 本当は殺し合いなんてしたくないはずなのに。

 それでも正義の為に——。

 それがその国の未来だと信じて——。


 だとすれば、そんな正義はわたしにはない。

 死の匂いのする葬儀場。

 死んで良かった人なんて、誰もいない——。


 それぞれの家族があり、それぞれの生きた時間があるはず。

 それが、例えどんな人生であったとしても——。

 でも——。


 ——それは綺麗事か……。

 

 殺したいほど憎かった姑の葬儀。

 殺したいほど嫌いだった夫の葬儀。

 そんなご葬儀で聞いた話。


 ——焼切ってください。そんな人の骨、持って帰りたくないんです。


 最後の最後、その瞬間。死んだ故人は知らない現実。その家族やご遺族に、いろいろな事情や思いがあるのも確か。わたしはまだ、そこまで人生を経験して生きていない。


『三百メートル先、左です』


 ナビの声が聞こえ、はっと意識を戻した。ヘッドライトをハイビームにしてスピードを落とす。堤防道路を左に降り、ナビを見ると、美咲さんのアパートまではすぐだった。


 

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