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 中嶋さんがポットからカップにハーブティーを注ぐ。暖色に煌き流れ落ちる液体。優しい香りが漂う仄暗い部屋で、一連の動きに合わせて宙を舞う湯気。魔法使いのように白い湯気を操り、中嶋さんはハーブティーを淹れる。


「娘は——」


 中嶋さんが静かに語り出す。


「娘の美咲は、可哀想な子でした。ずっと、そう思っていました。お腹に命を宿した時から、あの子の為にと、随分わたし頑張ってきたんですけどね——。


 無農薬の野菜、添加物の一切入っていない食品に洗剤。身体に良いものが子供の為だと思って拘ってきました。でも、わたし、きっと拘りが強すぎたんです。


 幼稚園も、車で三十分もかかるシュタイナー系の幼稚園を探して、毎日お弁当を作ってお菓子を焼いて、子供にできるだけ刺激を与えないようにと、別れた主人を説き伏せてテレビも家に置きませんでした。そういう教育方針の幼稚園だったので——。


 その頃に出会ったのがさっちゃん先生です。同じ幼稚園の卒園児のお母様で、子育ての大先輩でした。その当時は、わたしも専業主婦でして、幼稚園時代はさっちゃん先生のお宅によくお邪魔して、お人形を作ったり、お菓子を焼いたり、それはそれは心豊かな生活をしていました。


 でも——。


 小学校に上がるまではそれでも良かったんです。小学校に美咲があがって、それで、うちが普通じゃないって気づいたんですよね。テレビのない家の子供なんて、幼稚園時代はみんなそうだったのに、普通の小学校じゃ、みんなテレビやゲームがあって当たり前でしょ?


 それに——。

 子供会や友達の家で出されるお菓子。


 わたしは添加物の入った駄菓子を食べることを禁止していたのですが、それもどうやら心の負担だったみたいで。何度かそういう喧嘩をしたことがあります。喧嘩、と言ってもわたしがすぐに怒ってしまい、あの子は口を閉ざしてしまうといった風なんですが——。


 可哀想なことをしたと、思っています。


 一人っ子だったし、それにわたしは子供ができてからずっと家にいました。専業主婦で、子育てをしている自分の存在を、自分で認めたかったんです。だから、夫や子供が反発すればするほど、わたしの拘りはどんどんエスカレートしていきました。それこそ、ある種の宗教のように。


 それで——。


 主人はわたしに嫌気がさしてこの家を出て行きました。

 もともと女性の影もありましたし……。


 ——すいません。

 美咲の話でしたね。余計なことを、わたし……」


「冷めないうちにどうぞ」と勧められ、「いただきます」と静かに答えた。カップを手に取りハーブティーを口に含む。柔らかい香りをゆっくりと飲み込んで、静かにカップを置いた。隣からも、かちゃんとカップを置く音が聴こえ、「それで——」と、中嶋さんはゆっくり続きを話し出した。


「あの子は、高校時代から変わってしまって。あの子が中学三年生になる頃、夫と離婚しました。それで、わたしが外に働きにいくことになって——。


 高校受験の大事な時に、親が離婚。

 あの子の心は壊れてしまったのかもしれません。


 あの当時、わたしの財布からたまにお金がなくなっていることがあって、わたしはそれを知っていたけれど、あの子に問い詰めることもできなくて——。


 わたしも外で働き始めて、人間関係で悩んだりしていましたし、あの子と何を話して良いものか、わからなくて。だから親子の会話が殆どない家庭になってしまいました。


 それでも染み付いた自分の価値観は捨てきれなくて——。


 本当に馬鹿な母親です。

 お二人は知ってますか?

 

 オーガニックなものって、普通よりも値段が高いんですよ。そんな拘りにお金を使わず、もっとあの子の欲しいものを買ってあげたりすれば良かったと思うけれど、一度染み付いた意地がなかなか捨て切れなくって……。 


 今更ながら思います。

 テレビくらい、買えば良かった。

 あの子の部屋に置いてあげれば良かった。

 お菓子だって、自由に食べさせてあげれば良かった。

 添加物で死ぬなんてことはないのだから。


 それでもね、あの子が高校を出て地元の企業に就職して、しばらくはこの家で一緒に暮らしていたんですよ。社会に出て世間を知って、思春期も過ぎたのか、少しずつ会話も増えてきたんです。家に帰ってこないこともあったけど、それでも親子としてやり直せるような気がしていました。


 だから——。


 あの子が一人暮らしをしたいと言った時も、この家から離れることで、お互いに違う景色が見えると思ったんです。わたしの拘りの世界から抜け出して、あの子なりの世界を見つけて、それをわたしが受け入れればと——。


 親子であっても、違う人間ですからね。

 わたしも外で働き出して、いろんな思いをして、ようやくそう思えたんです。

 そう、思ったんですが——。


 遅過ぎたのでしょうか……。


 あの子がいなくなる前。飼っていた金魚が死んでしまったからと家に帰ってきたんです。ちょうど一年前の、雪の降る夜でした。庭の椿の下に一緒に埋めて、白菜の鍋をあの子の夕飯に出しました。白菜だけの鍋、なんて、きっとお二人には物足りませんよね。甘くて美味しいんですよ。あの日は、すぐに食べれるものはそれしかなくて。あまり食欲もないと言っていたので——。


 あの子も実のところ、白菜の鍋は物足りなくて、美味しくなかったかも知れません。でも、何も言わずにあの子はそれを食べて、食べ終わると、二階にある自分の部屋に行きました。


 あの日、もっと話をすれば良かった。

 話したいことがあっただろうに。

 何かあったの、と聞けば良かった。

 きっと思い悩むことがあっただろうに。


 自分から話しかける勇気がなくて、わたしはずっとあそこで、あの椅子に座り、本を読んでいました。本を読みながら、何を話せば良いかわからずに、ただ、黙って、本を——。


 本なんて、いつでも読めるのに。


 わたしは、ダメな母親です。

 あの子のことを何も知りません。

 自分の拘りを押し付けて、自分の価値観を押し通し、あの子を育ててきたのですから、知る権利もないかも知れません。

 それに——。

 あの子を片親にしたのも、わたしの責任です。


 でも——。

 それでも、知りたいのです。


 あの子のことを。

 何に悩んでいたのかを。


 それに、またあの子に会いたいんです。

 やり直したいんです。

 きっと、また会えると信じています。

 あの子はきっと死んでなんかいない。

 どこかで必ず生きています。

 謝りたいんです。

 あの子に、今までのことを——。


 あの子と、美咲と、連絡が取れないと、勤務先から連絡をいただいて、わたしはどこを探して良いか分かりませんでした。警察に届け出は出しましたが、成人女性の失踪はまともに取り合ってくれません。もう三十三歳でしたから——。


 いまはただ、帰ってくることを、待ち続けることしか、できないのです。


 ——だから。


 いつでも帰って来れるようにと、あの子のアパートはそのままにしています。毎週一回、帰ってきた形跡がないか、あの子のアパートを見に行きます。でも、帰ってきた形跡を見つけることはできません。それに——。


 お恥ずかしい話。

 わたしはいまだにスマホを持っていなくて——。


 馬鹿ですよね。

 本当に。

 使い方がわからないんです。

 パソコンも使えません。

 だから、あの子の部屋のパソコンを調べることもできません。


 だから先ほど、佐藤さんからお電話をいただいて思ったんです。どなたがあの子を探しているのか、知らなくてもわたしは結構です。あの子を探して欲しいんです。そんな人はこの一年間、誰もいませんでした。あの子を探してくれる人は、誰もいなかったのです。


 だから、お願いします。


 あの子のアパートを調べてください。

 そして。

 どうか、お願いします。

 あの子を、美咲を。

 わたしの娘を、探してください——」


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