5_3

 ——正気を取り戻したけれど。


 まだ身体の筋肉が緊張している。いや、筋肉というよりもその根底にある自分の軸みたいなものが緊張している。


「真矢ちゃん、どうかしました?」


 耳朶に流れ込むカイリ君の声はとても心地よく。それを安心材料にして震える芯を徐々に解き放つ。と、自然に「良かった」と言葉が漏れた。


「良かった、とは?」

「ううん、なんでもない。あのさ、車、明るい場所に移動させて」


 バックギアに入れ、車をコンビニの光や、幹線道路を走る車が見える場所まで移動する。ちょうど一台車が出ていく。その場所、コンビニ目の前の駐車スペースに車を停めた。混雑気味のコンビニ。見知らぬ人が出入りしている。それを見てまた少し心が安心できた。


 暗い場所に居たくない。人気ひとけのある場所に今は居たい。ハンドルに顎を乗せコンビニに出入りする人を視界に入れ続ける。カーエアコンの風に乗って、髪に付着した煙草の匂いが鼻先を通り過ぎた。嫌なはずなのに生きた人間の存在を感じるようで、紫煙の香りを思わず探す。


 ——大丈夫。大丈夫、大丈夫。


 無言でいると、視界の隅に微かに写るカイリ君が緑色のお茶を飲み、「やっぱり」と話し始めた。


「餡饅とお汁粉は相性があまり良くありませんね。失敗でした」

「うん……」

「甘いものを甘いもので食べると言うのは結構好きですけど、濃度の問題でした」

「そだね」

「それにお汁粉って書いてあるけど、中身はぜんざいでした」

「うん」

「ぜんざいで餡饅はちょっと無理がありました」

「そっか——」

「真矢ちゃん」

「ん?」

「大丈夫ですか?」


「え?」とカイリ君の顔を見る。


「酷い顔色してますよ。何かありましたか?」


 わたしに尋ねるその顔は心配そうで。

 わたしはかぶりを振った。

 揺れる髪の毛からまた、煙草の匂いがする。


「大丈夫。でも——」怖かったと正直に言おうとして、やめた。無意識に変な意地が働く。別にそんな意地、意味もないのに。でも——。唇をきゅっと結んだ後で、「次、どうする?」と切り返す。


「そうですね。次、いきますか」と、カイリ君はそれ以上はなにも聞かず、それはそれでどこか寂しくなった。


 そういえば今日、カイリ君はどこかに泊まるのだろうか。前回は駅前のビジネスホテルに泊まっていたはず。今回もそこに泊まるのか、それとも東京に帰る——。


「次はさっき云ってた相田金属へ行くんですよね。今スマホで調べてますけど、えっと……あった。紫のジャンバーを着た人が写真に出てる。ここで間違いなさそうですよ。ほら、相田金属って社名もあるし——」


 差し出されるスマホ画面。見覚えのある紫色の人が工場で作業をしている写真。住所を読む限り、隣の県だけどそんなに遠い場所ではなさそうだった。すぐにカーナビに住所を入れる。高速道路を使い約三十分。高速の入り口は今走ってきた道をもう少し先に進めばある。


 車の時計を見る。

 現在時刻は午後七時に向かって分針を進めている。


「今から向かうと、順調に行けたとして七時半より少し前かな」

「その時間って会社に人はいるんでしょうか?」

「会社によると思う——」


 相田金属は製造業。工場のラインが終了したら作業員はいないかもしれない。でも、営業職の人ならまだ、もしかして——。


「さっき会った人は広末工業に居たし、作業員はまだ作業中だと話していたから、その人が会社に帰るなら、誰かはきっといると思う。でもその会社にいる人が、元カノさんのことを知っているかは分からないよね」

「ですね、それにその元カノさんの住所や実家を訊いても教えてくれるかどうか」

「うん。個人情報だもんね」

「それにさっき会った人に真矢ちゃんが訊くわけにもいかないか——」


 ペットボトルのお茶を飲み、カイリ君は少し黙って何かを考えている。その様子を横目で見ながら、コンビニに出入りしている人を眺める。


 ——と、網膜に飛び込む紫色。数人の紫色のジャンバーを着た人がコンビニの中に入っていくのが見える。すかさず指をさし「あれ、その会社の人だよ」と、カイリ君に教える。


「今から帰るんですね、きっと。あの人達が車に乗ったら後を付けて行きましょうか」


 その提案に自分でも驚く速さで「うん」と即答した。付けて行ったとして、話が聞ける確証はない。


 でも——。


 カイリ君と別れ、一人暮らしのアパートに帰るよりは一緒に居て何かしていた方が良い。ひとりになるとまた、さっきのように恐怖が頭を擡げてきそうな気がした。別に、何もないのに——。


 でも——。

 美琴ちゃんの事故。

 あれから太郎くんの存在を信じてしまった自分がいる。


 ありえない死。

 連鎖する死。

 その死の匂いが自分からもしている気がしてならない。


「あ、出てきました」カイリ君の声で意識を戻す。


 紫色の人たちは若い女性作業員で、小さな白いレジ袋を揺らし無表情で白いバンに吸い込まれていく。最後に、あの喫茶店で会った男性らしき人が車に乗り込むと、バンは動き始めた。わたしも急いで車を駐車場から出し、その後を追いかける。


 焦りは禁物。

 安全運転。

 やけにそう思った。


 ——見失っても大丈夫。カーナビは目的地まで誘導してくれる。


 わたしのハンドルを握る手は、じっとりと濡れていた。




 


 




 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る