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 薄ら寒い車内。買ってきた肉饅を半分に割ると、中華味の湯気が立ち昇った。はむっと肉饅を頬張り噛み締める。


 ——美味しい。


 そう思えた後で、お茶と肉饅で体内を温めながら、喫茶店で聞いてきた話をカイリ君にした。


 鈴木さんには複数の女性がいたこと。

 その中には鈴木さんの子供を堕した人もいること。


 ——子供を堕した。


 数年前に、と小林さんは言っていた。でも正直、それが真実なのかどうなのかは、わたしには分からない。小林さんは鈴木さんと同僚で、お酒を呑みに行くような仲だった。でも本心は鈴木さんのことが嫌いだった。そんな印象を持った。死人に口無し。死んだ人をおとしめるような発言をする人はたまにいる。


「いま訊いた話だと」と、カイリ君が口を開く。


「その紫色のジャンバーを着た人の話が興味深いですよね」

「う〜ん。小林さんの話が本当ならね。元カノで、鈴木さんの子供を堕した事がある人——」

「そう。そしてその人は、あの事件の日から失踪してる」

「失踪、そこは引っかかるよね。確かね、えっと、紫のジャンバーに『相田金属』って書いてあったと思う。詩を書く人と同じ苗字だなって思って読んだから間違いないと思う」

「なるほど。あの、それよりもですね……」


「ん?」と、ペットボトルのお茶を飲みながらカイリ君の方を見る。カイリ君は買ってきた餡饅が喉に詰まったのか、喉に手を当て苦しそうな顔をしている。


「あ、餡饅が喉に詰まって……真矢ちゃん、そのお茶、いますぐ僕にくれませんか——」

「自分で買ってきたの飲めば良いじゃん」

「そう思って飲んだんですけど、これ……」


 カイリ君は買ってきたお汁粉の缶をこちらに見せた。そこに書かれた宣伝文句は『濃いめ粒入り、小豆たっぷり』——。


「それは、もはやぜんざいだね」

「そうなんです、喉が、喉が、だからひとくちだけお茶を——」

「やだ。もうくちつけちゃったし」

「そんなこと、言わないで……」

「買っておいで! まだコンビニの駐車場にいるんだから」


「意地悪」と言いながらカイリ君はよろよろ車を降りた。黒服のカイリ君が白い建物に消える。それをバックミラーで見ながらお茶をもうひとくち飲んだ。コンビニの建物横の駐車場は表と違って暗い。チカチカと切れかけの蛍光灯が真上にあるのか、時々白い光が瞬いていた。嫌な感じがする。それに——と、ペットボトルのキャップを閉めながら思った。


 ——子供を堕した。


 それは女性にとって、とても辛い出来事だと思う。体内に宿った命。それも好きな人の子供を堕すなんて。それが本当だとしたら、ますます鈴木敬太という人間が好きにはなれない。あの、鈴木家の合同葬儀を思い出す。奥様方のご両親が敬太さんのご両親を責め立てる姿——。


 ——たとえ敬太さんがゲス男でも、ご両親に罪はないよ。それに悪いのは犯人。


 犯人の鷺沼は敬太さんに積年の恨みがあった。だから残虐な犯行に及んだ。幼い子供や奥さん、お腹の胎児まで巻き添えにして。


 警察の取り調べで、犯人の口から太郎くんの名前が出たとカイリ君は言った。警察の人からの情報。そこに嘘はない気がする。なぜ犯人の鷺沼は太郎くんと言ったのか。そこからの流れでまずは鈴木啓太さんからと調べ始めたけれど——。


 ——失踪した元カノ。


 カイリ君の言う通り、次はその路線で調べて良いと思う。小林さんの言ってる事が本当なら子供を堕した恨みもあるかもしれない。でも——。


 ——相田金属へ行き、また、わたしが聞き込みを? 


 ずしっと肩に重みを感じ「はぁ〜」と大きな溜息が出た。「失踪した事務員について教えてください」なんて、誰に聞けば良いのか。刑事でもなければ家族でもない。友人ですらないし、その人の顔も知らない。そういえば名前も知らない——。


「無理すぎるよね?」独り言ち、またキャップを外してお茶を口に含んだ。口がやけに乾く。ゆっくり飲み込んでから思考の海を泳ぐ。


 ——急に失踪。それも年末の忙しい時期に。会社も相当迷惑な話だっただろうな。と、それはいつもしている仕事の内容にもよるか。誰でもできる仕事ならそこまで大変じゃないかもだし。ああ、でもそんなことを言えば……、わたしもか……。


 自分の状況を思い出す。ご葬儀が増える冬。もう一週間も休んでいる。加藤さんは「落ち着くまで休んで良いから」と言ってくれた。でもさすがにこれ以上は。


 でも——。

 死の匂いがする場所、葬儀場。

 ——視えないものが視えそうで怖い。

 刹那。

 ぞわぞわと鳥肌が立ち寒気が背中を走り抜けた。

 コンビニ横の暗い駐車場。

 窓ガラスに映るぼんやりとした自分の顔。

 車外、安蛍光灯のチカチカする光に気づく。

 白い光がつくたびに自分の顔が消え外が見える。

 そしてまた、暗い窓ガラスに自分の顔が映る。

 何度も何度も。

 消えては浮かぶ自分の顔。

 フロントガラスの向こうは白いフェンス。

 そのフェンスの向こうは田畑なのか真っ暗で何も見えない。

 

 でも——。


 ——もしも次に灯りがついた時、何かがそこにいたら。黒くて得体の知れぬ何かがいたら。

 

 妄想。

 勝手な妄想。

 フロントガラスの向こう。

 フェンスの向こうにも誰もいるわけない。


「やだなぁ……」と声に出しバックミラーを見た。一瞬、後部座席に黒い影が視えた気がして凍りつく。


「いるわけない。誰もいるわけない」


 突然に心に襲いかかってくる恐怖心。

 そうだ。

 わたしはいま、一人なのだ。

 忘れていた感覚が急に押し寄せる。

 ——と。

 ぎしっと後部座席が小さな音を立てた。

 びくっと肩が震える。

 何かいるような気配がする。

 その妄想を急いで振り払う。


 ——誰もいない。誰もいるはずない。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。


 カーエアコンの送風口から聞こえる音、エンジン音、その振動。

 さっきの音はそういった振動でたまたま何かが軋んだだけ。

 そう思うけれど——。


 ——怖い。


 思ったら最後、また恐怖が頭をもたげた。

 バッグミラーを恐る恐る見る。

 幹線道路の大通り。

 走る車のライト。

 そこに黒い影なんて映っているはずはなく。

 はずはなく——。

 でも、しかし。


 わたしには視える気がした。

 視えないけれどそこにいる何かが——。

 

 ——もうやめて、怖いなんて思いたくないのに。


 顔をハンドルに埋める。

 見なければいいのだ。

 視えないものを。

 そう思ったのに。

 ——聴こえる。

 コンコン、コンコンと外から窓ガラスを叩く音が聴こえる。


「嘘だ。幻聴だ」


 ——コンコン、コンコン。


「聴こえない、聴こえない、そんなものは聴こえない」


 ——コンコン、コンコン、コンコン、コンコン。


「幻聴、気のせい、本当になんでもない」恐怖を振り払うように大きな声でそう言うと、音が止まった。


 ——ほら、思い込んだせいで幻聴が聴こえただけ。


 そう思ったけど——。

 ——コンコン!


「ひっ……」と息を飲む。今度はすぐそば、運転席側の窓ガラスがノックされた。もうだめだ、限界だと思ってさらに目をぎゅっと閉じた。そして聴こえる声——。


「真矢ちゃん、開けてください。鍵、開けてください。寒いから、外は寒いんですよ〜」

 

 聴き慣れた低音ボイス。ゆっくりハンドルから顔をあげ窓の外を見る。


 ——お化けでもなんでもなかった。


「は、ははははは」と、乾いた変な声を出しこくこく頷くと「はぁ〜」と息を吐いた。


「ごめんね」とすぐに車のロックを外す。完全に脳が恐怖のウィルスに支配されていた。怖いものなんて何もないのに。勝手に妄想して恐怖に飲み込まれていた。一人で家にいる時のように、思い込んで怖がって、視えないものが視える気がしていた。


 車内に潜り込んできたカイリ君の顔を見て、わたしはようやく正気を取り戻した。




 


 


 


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