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 カイリ君は電話に出なかった。それが一層わたしを不安にさせた。でも、昼を過ぎる頃に折り返しの連絡がきた。良かった。カイリ君は生きていた。当たり前のことなのに、そう思う自分がいた。


『いま新幹線の中です。最寄りの駅まで行くので、車で迎えに来てもらって良いですか?』


 受話口から聞こえる心地のいい低音ボイス。ファミレスで話したときとは違う、落ち着きのあるゆっくりとした喋り方。その声に少しだけ心が解けた。ここ最近引き籠り状態で誰とも会話をしていなかった。京子は今回の件を持ち込んだ人。でも、その京子と話をすれば『公衆電話の太郎くん』を思い出してしまう。それに京子は小さな子供がいる。危険な目に合わせるわけにはいかない。


 待ち合わせの最寄駅は美琴ちゃんの事故があった場所から程近く、カイリ君と合流してからすぐそばのお花屋さんで白い花束を購入し、ガードレール脇に備え手を合わせた。


 目を閉じると目蓋を押しやって涙が滲む。何もできなかった。でも、何かできたわけじゃない。美琴ちゃんと会った次の日にこの事故は起きたんだ。わたしにはどうする事もできなかった。でも——。


 ——美琴ちゃん、ごめんなさい。わたし、何もできなくて。本当に、ごめんなさい。


 頭の中で「ごめんなさい」ばかりが浮かんでは消える。この状況をなんとかしなくてはとカイリ君に電話をかけたのだ。「ごめんなさい」のその先へわたしは行く。何度目かの「ごめんなさい」の後、そう心に決め、目を開けた。


「お仕事はいいんですか?」車に乗り込みながらカイリ君が聞く。「しばらくお休みにしてもらったの」と伝えると、カイリ君は「そうですか」とシートベルトを嵌めた。


「で、どこに向かう?」

「まずは鈴木啓太さんの職場へ行こうと思っています」

「鈴木敬太さん——」

 

 あの、一年前に起きた一家惨殺事件の被害者家族。「住所はここです」とカイリ君に教えられた広末工業にナビを設定して車を発進させる。


「東京に戻って棚橋さんと会ってきました。もう少し犯人の鷺沼の話を訊きたくて。本当は棚橋さんも今日一緒に来る予定だったんですけどね」

「そうなの?」

「はい。でも事件が入ったとかで——」

「事件——」


 ハンドルを握りながら呟くと、助手席のカイリ君がすかさず「今回のこととは無関係ですよ」と笑った。


「多分ですけどね。なんか起こっているすべての事件が公衆電話の太郎くんだと思っちゃいますよね」

「あ、うん。本当、それ——」

「僕もそうでした。いや、今でもそう思うことはあります。でも思ったんですよね。人って誰でも黒い感情があるというか。妬みとか僻みとか、恨みとか。そういうのって誰でもあるじゃないですか。そういうのがある一点を超える瞬間がある。それは誰かのたった一言かも知れないし、ふっと浮かんだ考えかも知れない。知らなくていいことを知って目覚める場合もあるだろうし。誰でもきっとそういうのってある気がするんですよね。その先へ行くか行かないかってだけで——」


 至極真っ当な意見だと思った。ご葬儀の現場はそういう人間の本性みたいなものを垣間見ることがある。葬儀代金や遺産で揉める家族など、その場に居合わせるこちらも辛い。それに京子も言っていた。子供が生まれたばかりの頃。京子は少し産後鬱だった。


 ——可愛い、愛しいと思うのに、泣き止まないと気が狂いそうになるの。口を塞いでしまいたいって、そうやって思う事もあるの。真矢ちゃん、わたし、たまに自分が怖いよ……。


 出産祝いを持って会いに行った時、京子はそう言っていた。初めての赤ちゃん。初めての子育て。あの頃の京子はお母さんになったばかりで精神的に不安的だった。


 ——いまじゃママ友もできて、凄く楽しそうだけどね。


 でも、そう見えるだけかもしれない。

 他人の本当の気持ちなど、分からない。

 自分の気持ちでさえ分からないことが多いのだから。


 交差点で信号待ち。


 ちらりとカイリ君に視線を向ける。今日もパリコレデザイナーの黒い服で、モジャッとした髪は後ろひとつで結んでいる。その整った横顔をみてふと思った。


「カイリ君って何歳?」と尋ねる。


「僕ですか? なんで?」

「いや、若く見えるけどさっきの話。しっかりしてるなって。それに歳、聞いてないから」

「僕は——、秘密です」

「わたしの年齢は知ってるのに。それも京子のFacebookで知ったの?」

「ですね。キリンさんのFacebook、誕生日とか載ってたし。同級生の真矢ちゃんって書いてあったので」

「ふうん」


 ——ダダ漏れもいいとこだな、京子……。


 そう思うけれど、京子が産後鬱状態を脱する事ができたのもFacebookのおかげ。子育てサークルや講演会。Facebookでの繋がりが子育て中の彼女を救っているはず。


 ——ま、それはそれで……、うん。


 信号が青に変わり、発進するタイミングでカイリ君が「でも——」と声を出した。


「別に秘密って程でもないか。僕は真矢ちゃんとほぼ同じ歳ですよ」


「え?」と助手席に視線を向ける。夜の駐車場で話した時、若く見えると思った。二十代前半、もしくはそれより若いかと——。


「ほぼって? 何歳年下?」

「年下とは限りませんよ」

「うそ!? どう考えても二十代前半かなって思ったし」

「ははは。そう見えますか。ちゃんと手入れしてるんで。でも僕はほぼ同い歳。一個しか変わりませんよ」

「一個上——?」


 ——ということは二十九歳?


「見えない」

「よく云われます」


 チラッともう一度カイリ君に視線を向ける。その後で「本当、見えないわ」と自然に言葉が出た。


「真矢ちゃんは歳相応、もしくはもう少し年上に見えますよね」

「ちょっと失礼かもね。その発言」

「いや、落ち着きがあっていいってことですよ。じゃないと葬儀場で司会者なんてできないでしょ?」

「うん、まあそうかな。そういうことにしておくか」

「あはは。そういうことにしといてください」


 なんでもない会話。お天気が良いせいか、暖色に色づき始めた空はやけに綺麗で、視界も明るく穏やかな気分になっている。ひとりで家に篭っているよりも、カイリ君に電話して良かった。そう思いながら大きな河川に架かる橋を渡った。カーナビを見ると目的地まで残り二十分弱。このままこの幹線道路を走れば鈴木さんの勤務先、広末工業に到着する。



 

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