第四章 糸口
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美琴ちゃんのご葬儀はわたしの働く『セレモニーなかの』ではなく、別の市町村にある別の葬儀会社で執り行われた。そこはわたしの実家がある土地で、さらには鈴木家の合同葬儀が行われた町でもあった。
良かったと思った。わたしが担当するご葬儀じゃなくて。一度会っただけの人。ほんの僅かな時間を一緒に過ごしただけの人。それでも美琴ちゃんはわたしに何か云おうとして電話をかけてきた。走りながら。何かに逃げながら。助けてと叫びながら。そして——。
——目の前で死んだ。
その事実が一週間経った今でも受け止め切れない。世の中はクリスマスシーズン。コンビニもスーパーもテレビの中からも楽しげなクリスマスソングが流れている。赤と緑に彩られた世界。今年はホワイトクリスマスになりそうだとお天気お姉さんが四角い箱の中で話している。わたしはそんな気分にはなれない。テレビのリモコンに手を伸ばし電源を落とそうとして、やっぱりやめた。
一人暮らしのアパート。
音のない世界が怖い。
誰の声でもいいから聞いていたい。
そう思うけれど仕事はずっと休んでいる。
細かな事情——公衆電話の太郎くん——は話せないけれど、加藤さんに知り合いが目の前で亡くなったと伝えた。
——あの事故、知り合いの子だったの? それも目の前で……。大丈夫。落ち着くまでゆっくり休んで。どうしようもない時は呼び出すから。だから気にしなくていいから。有給も溜まってるし、ね。
電話口。加藤さんの声は優しかった。息子さんを交通事故で亡くしている加藤さんはご遺族の悲しみを理解できる人。わたしは美琴ちゃんのご遺族ではないけれど、今のわたしの状況を察してくれたのだと感謝した。
目を瞑ると目蓋の裏側で美琴ちゃんの最後が浮かび上がる。あの、最後の瞬間。ガラス越し。美琴ちゃんと目が合った。すぐそばに居たのに。何もすることができなかった。それと——。
『公衆電話の太郎くん』の呪縛。
カイリ君の云う話。
心霊現象、怪奇現象、都市伝説。
そういう類のものが心底嫌いなのはそういうものに傾倒する母親の影響。
あの信じ切った信者の眼。
何を言っても声が届かない信者の眼。
思い出すと嫌悪感に包まれて吐き気すら覚える。
——でも。
到底信じられるものではないと思っていたのに——。
『公衆電話の太郎くん』がいつの間にか心の隙間に入り込み像を結ぶ。わたしは信じ始めている。『公衆電話の太郎くん』という存在を。あり得ない状況。美琴ちゃんの死が、その死の匂いがわたしの中に入り込んで『公衆電話の太郎くん』が実在すると確信してしまった。
——怖い。
ソファの上で膝を抱く。
——怖い。
膝に顔を埋める。耳朶に流れ込むアップテンポのミュージック。早朝の情報番組から朝の情報番組に切り替わった。女性キャスターが「おはようございます今日は——」と何かを話した後で、男性MCが今日のニュースを読み始める声が聞こえる。
『最初のニュースです。本日未明、東名高速道路で玉突き事故が発生しました——』
——玉突き事故。その原因も太郎くんだったら……。
全身が総毛立つ。あの日から死亡事故のニュースが流れるたびに、太郎くんのせいじゃないかと考えてしまう。それに、芸能人が相次いで自殺したことを思い出し、それも太郎くんのせいなのではと思ってしまう。あの死も、この死も、もしかして——。
——怖い。
脳内が『公衆電話の太郎くん』で埋め尽くされていく。増殖するウィルスのように、脳細胞がじわじわとじわじわと『公衆電話の太郎くん』に浸食されていく。それが自分で分かる。
——それが、怖い。
ニュース番組は止めようと、埋めていた顔をあげテレビのチャンネルを変える。ボタンひとつで切り替わる子供番組。無邪気。邪気がないから、無邪気。今は子供番組が一番良いと思ったのに。
簡単な線で描かれたアニメキャラ。個性の違う三人が公園で遊んでいるシーン。そこに登場する白いウサギ——。
思わず電源を落とす。
ウサギ——。
生贄はウサギ——。
ゆららさんの書いた『公衆電話の太郎くん』、そのエピソードを思い出す。犬、金魚、ウサギ、そして——人間。
「もうやだ……」
膝にまた顔を埋める。エアコンの機械音だけが聞こえる部屋。機械音が気味悪く思えまたすぐにテレビをつけた。こんな状態で仕事復帰なんてできない。死者の霊。信じていなかったそれさえ、今は視える気がしてしまう。
一人でお風呂に入る時。
洗髪している最中。
後ろに誰かがいたら——。
湯船に使っている時。
太腿の間から髪の毛が浮かんできたら——。
あり得ない想像をして昼中にシャワーを浴びるようになった。
それでも怖いバスルーム。
気づいてしまったのだ。
一人暮らしのアパート。
お風呂もトイレも窓はなく。
玄関からリビングに入るまでの廊下にも窓はない。
陽の光が入る窓はベランダに面した場所だけで——。
そのベランダ側の窓もカーテンを閉めている。
陽の光を求めているのに。
二階に住むわたしの部屋のベランダに何かが居そうで怖い。
「もうやめてぇ……」
気分を変えようと外出した日もあった。でも。車に乗ると後部座席に何かいるような気がしてしまう。誰も居ないのに。居るはずなんてないのに。夜道、ヘッドライトに照らされた電柱の影に黒い人影が視える気がしてしまう。でも、通り過ぎるとそこには誰も居なくて——。
そんなことに支配されていく自分の脳が嫌だ。
母の事が今ならば少しは理解できる。
すでに取り壊されて存在しない母の実家は古い旅館で。
昭和の初め、旅館が建つ前は火葬場だった。
小さな頃。
まだ母の実家がそこにあった頃。
おばあちゃんの家に行くのが怖かった。
どこに行っても誰かに視られているようで。
それに——。
日本海に面した場所。
黒い海。
夜になるとそこにあるのは闇だった。
何も見えない真っ黒な世界。
その黒い闇から何かが這い出てきそうで怖かった。
波の音が鳴り止まない夜が怖かった。
母が霊を信じたり、宗教に嵌ったりする原点はきっとその辺りにある。おんぼさんと母は云った。
——この旅館が建つ前ここは村の火葬場でね。波に運ばれ流れてくるどざえもんもここで焼いていたんだよ。オンボさんがひっくり返してひっくり返して。
屋根があるだけの簡単な火葬場は大きな穴が開いていて、そこで一晩中遺体を焼き荼毘に付す。その話が子供の頃は強烈な映像となって脳裏に浮かび、おばあちゃんの家が怖かった。
——火葬場だった場所は人が集まってくるんだよ。商売が繁盛するって云ってね。縁起の良い土地なのよ。
おばあちゃんの家に行く度に母から聞かされるその話。それが嫌いで嫌いで仕方なかった。母は、母の実家は、きっとそういう経緯でそういう類を信じ、宗教に嵌る。そういう事だといつの頃からか知ってはいるけれど——。
——わたしは絶対信じないって思ってたのに。
信じているから怖いのだ。
目に視えない存在を。
恐怖のウィルスに脳が感染したのは、わたしが『公衆電話の太郎くん』を信じてしまったからだ。
——公衆電話の太郎くんは、実在する。
信じたくない。
でも、もう知ってしまった。
——太郎くんは、実在する。
このままではいけない。わかってる。家から出ることもなく、家の中で怯えているなんて。このまま人生を終わらせるわけにはいかない。でも、母のように救済を求め宗教に嵌ることはできない。母の人生はそれで良い。母が決めてそれで救われるならば、それで良い。
でもそれはわたしの中の解決方法にはならない——。
「カイリ君」と自然に名前を呼びスマホを手に取る。カイリ君は美琴ちゃんのご葬儀に一緒に出た後、一旦東京に戻ると云っていた。まだ東京かも知れない。もうこの地に戻ってこないかも知れない。でも——。
「一人で部屋に篭るよりはきっと何倍も良いはず」
この状況を変えなくては。今のままでは社会に復帰できないどころか、視えないものに心が蝕まれ、精神が崩壊していく。美琴ちゃんがわたしに助けを求めていたのに助けれなかったこと。何もできなかったこと。その無念。そしてこの恐怖。
——それを乗り越えなくては、わたしはきっと前に進めない。
『カイリ君』をアドレス帳から探し出し、わたしは通話ボタンを押した。
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