episode8_2

 スマホ画面の文字を読み、もう一度最初から同じ記事を読む。何度見てもそこに書かれている名前は敬太の家族のもので、これは間違いなく敬太の家族が巻き込まれた事件。何度も、何度も読むうちに、頭の中でさささぁっと血の気が引く音が聞こえた。


「どう? 酷い事件よねぇ〜」と、吉永さんの声がくぐもって聞こえる。その声はどこか別次元で——。


 ——吉永さんの声だけじゃない。


 自分の身体の枠が無くなり、わたしだけ別の世界に飛ばされたような感覚。耳朶に流れ込む話し声。それはまるで異国の言葉で。わたしの脳内で理解不能な、異国の言葉達——。


「切り刻まれた状態って、一体どんな状態——」

「想像したくないけど、酷い状態ってこと——」

「それに儀式って意味が——」

「生贄的な——」

「黒魔術——」

「まさかそんな馬鹿げ——」

「でも頭のイカれたサイコパ——」

「それにしても子供——」

「惨殺——」

「死——」

「お通夜——」

「会社として葬式に——」

「でもそれ普通の状態で——」

「ねぇ、中嶋さんはどう思う?」


「中嶋さん? 大丈夫? ねぇ、中嶋さん? ちょっと、大丈夫? ねぇ、中嶋さん? ショックなのは分かるけど、ねぇ、聞こえてる? 中嶋さん!」


 強く腕が振動し、吉永さんが掴んでいるのだと気づく。スマホから視線をあげ、心ここにあらずで「はい」と、短い返事を返した。


「大丈夫なの? 顔が真っ青よ?」

「あの、ちょっと気分が悪くてトイレへ……。あの、これ、ありがとうございました……」


 スマホを林田さんに返し、ふらりと椅子から立ち上がった。始業時間のチャイムが聞こえる。それでも事務所の中は騒然としていて、朝礼は始まらない。誰もが何かを話し、トイレに向かうわたしのことなど気にする様子もない。


 ——トイレ、誰もいない場所で、敬太……殺され、死んだ、敬太、敬太が、死……


 頭の中で短く浮かぶ言葉達。敬太が死んだ。殺された。処理不能な言葉達。不思議と涙は出てこない。恋人が死んだのに、涙は出てこない。なぜ——。


 事務所を出て意識なく歩く。油の匂いが漂う工場内。金属を絞る機械音。紫色の人々を避けながら突き当たりまで進む。階段を昇り、二階の倉庫横にあるトイレのドアを開けた。


 ここなら誰も来ることはない。


 工場はすでに稼働している。一度動き始めたら昼まで機械は止まらない。連続して薄い金属の板を打ち抜き続けるプレス音。重低音が床から聞こえるトイレの個室に入り、腰を下ろした。


 ——敬太、が死。嘘。そんな、嘘。嘘だ、嘘だよね、敬太……。


 所々ペンキが剥げ落ちた白いドア。剥き出しになった木の繊維を呆然と見ながら頭の中で反芻する、敬太の死。


 ——敬太、が殺され……た。敬太は死んだ? 嘘だ、嘘、そんなの嘘だよね?


 不思議と涙は出てこない。

 大事な人が死んだのに。

 涙が出てこない。

 でも——。


 足裏で感じる重低音がじわりじわりと心を侵食していく。敬太は死んだ。現実を受け入れろと言ってるように、ごぉん、ごぉんと振動が心を蝕んでくる。


 ——死んだ。


「敬太が、死んだ……」


 我知らず口から漏れ、刹那。肺の奥でうっと音が鳴る。続けて、うっうっうっと筋肉が収縮し、呼吸がうまくできない。恐ろしいほど冷え切った両手で口を押さえ息を止めると、行き場を無くした吐息が涙となって溢れた。ほろりと、小さな水分が頬を伝い手に触れる。


「嘘でしょ……?」


 またほろり。

 小さな滴が頬を伝う。


「嘘だって言って……」


 ほろっほろり——。

 小さな粒が意図せずぽろぽろと溢れる。

 その瞬間、急激に顔が熱くなり嗚咽が漏れた。


「嘘だよね、嘘だって言ってよ、ねぇ、嘘だって言って……嘘だよね……?」


 敬太が死んだ。そんなこと、あるはずない。先週の日曜日の朝、敬太はいつも通りわたしの頭をぐしゃぐしゃっと撫でて帰っていった。敬太の嫁の妊娠、裏切られたと知って憎悪も湧いた。でも、まさか死んでしまうだなんて……。


「敬太」と何度も名前を呼び、涙を拭ってジャンバーのポケットからスマホを取り出す。敬太とのLINE。日曜日以降、既読が付かなかったLINE。既読がつかず、返信がなかったのはもしかして——。


 涙に濡れ震える指。

 LINEを開き敬太の名前をタップする。

 白い吹き出しがずらりと並ぶスマホ画面。

 そこに生きている頃の敬太がいる。


《はやく美咲とやりたい〜》

《もう直ぐ着くよ〜》

《金曜日の夜なら行けそうかも》

《俺も好きだよ〜》


 白い吹き出し。

 敬太のメッセージ。

 あちこち視線を動かす。

 恋人メッセージばかりに目が行く。

 そして溢れる涙——。


「敬太が死んじゃったなんて、嘘だよね、ねぇ、敬太、嘘だよね?」


「敬太、敬太」と何度も小さく名前を呼ぶ度に、胸が圧迫され嗚咽が漏れる。苦しい、息ができない。どうしたらいいのか分からない。脳が萎縮し、考えることができない。


 指先で涙を拭いスマホを触る。

 濡れる指先が画面を滑る。

 敬太のLINE、既読が付かなかった自分のメッセージ。


《金ちゃんが死んじゃたの。わたしのせいで、飛び出して。悲しいよ》

《これから選別作業に広末行きます。敬太に会えるかな?》


 その下——。

 既読がついていないのに、新しいメッセージが届いている。


「え……、なんで、敬太……?」


 送信時刻は今日の深夜三時。

 そこに、短いメッセージ。


《契約成立》






 


 

 


 

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