episode6_4

 広末工業から会社に戻り自宅に帰ってきた。

 その間の記憶がない。

 林田さんから聞いた敬太の嫁の妊娠。

 あの瞬間、わたしの中の何かが切れてしまった。


 ——信じていた。


 でも、どこかで嘘だと思っていた。

「嫁と別れて美咲と一緒になりたい」と、聞くたびに。


 都合の良い時に連絡を寄越し、肌を重ねる都合の良い女。

 もしかしたらそうかもしれないと、思っていた。

 でも——。


 敬太のあの笑顔を。

 趣味が合うねって言ってくれた言葉を。

 髪の毛を撫でる大きな掌を。

 わたしを抱きしめる腕を。

 信じたかった。


 ——分かっていたはずだったでしょ? そんなこと。どっかで分かっていたはずだよ。そうでしょ?


 何度も何度も心の中で自分に問いかけながら、声にならない声が漏れる。顔を枕に押し付け、「あぁあ〜」と情けない声を出すと、自分の吐いた吐息で顔が熱くなった。


 分かってた。

 不倫とは、そういうものだと。

 知っていた。

 不倫とは、そういうものだと。


 ——わかってたけど。


 馬鹿みたいに信じ切って三十三歳まできてしまった。最初は危険な遊びのつもりだったのに、深みに嵌り、抜け出せなくなっていた。敬太は、敬太はどうなんだろうか。わたしを抱きながら、「大好き」と言いながら、それでも嫁を抱いていた敬太は、わたしのことをどれくらい真剣に考えていたのだろうか。


 ——結果が全てだよ。そういうことだよ。妊娠してるって、それが答えなんだよ……。


 枕がどんどん濡れていく。

 人の道に反したことをしたのだ。

 当たり前の結果だと思えば、そうなのだ。

 人に言えない関係。

 倫理に反するから、不倫なのだ。

 だから、当たり前の結果。


 ——そう思うよ、思うけど、けど、けど……


 脳裏に『もう潮時』と言葉が浮かぶ。

『もう潮時』『もう潮時』『もう潮時』


 何度も同じ言葉が浮かんでは消えていく。


 ——信じたいと思って信じていたけれど、やっぱりダメだった。そういうことだと、思うしかないよ……。


 もう潮時。

 

 ——別れるなら、いましかないよ。


 いままでだって、何度も思ってきた。ただ、その決定打がなかっただけ。なんとなくずるずると一緒に時間を過ごすうちに、『離婚』の二文字に、『結婚』の二文字に、期待してしまった。ここで自分が降りなければ、ずっと宙ぶらりんなまま、曖昧にされて関係が終わることはない。


「だよね……、でも、悔しいし、悲しいよ……」


「うっ」と喉の奥で音が鳴る。続けて、「うっうっうっ」と痙攣しながら音が続く。わたしから連絡を断ち、この部屋も引き払ってしまえば、敬太は必死にわたしを探してくれるだろうか。会社まで来て、わたしを呼び出し、「なんで連絡くれないの」と、引き止めてくれるだろうか。


 ——でも、引き止められたとして、わたしはその時どうするの? 奥さんのお腹の中には二人目の子供がいるんだよ? それなのに、まだこの関係を続けるの? 結婚したいなんて、嘘なんだよ? ねぇ、


「ねぇ、嘘なんだよ? それでも、良いの? 本当にわたし、それで良いと思ってるの?」


 一人暮らしのアパート。

 エアコンの音。

 時計の秒針の音も聞こえる。

 カチカチと小さな音を聴きながら自分の存在が霞んでいく。

 堪らず、また自分に話しかける。

 

「ねぇ。もう、終わりにしよ、ねぇ、終わりにしたいって思ってよ。ねぇ、わたしってば。ねぇ、そうしよって、そうしよって、そう……、思いたい……んだよ……」


 本当はもうとっくに答えは出ていたはずだ。

 それに何度も思ったはずだ。

 敬太はわたしとの時間を楽しんでいる。

 それは、家庭から抜け出した非日常だから楽しいのだと。

 敬太にとって、不倫とは、そういうものだと——。


「もう、本当に終わりにしなきゃダメなんだよ……」


 枕から顔をあげ、ぐしゃぐしゃになった顔をゴシゴシっと腕で擦る。

 ずるずると身体を引きずり、ベッドに座り直した。

 

 目に映る自分の部屋。

 白い壁紙。

 小さなキッチン。

 一人暮らしサイズの薄型テレビ。

 ホラー映画を見ながらビールを飲んだローテーブル。

 戯れあった白いカーペット。

 いま腰を掛けているシングルベッド。


 ——敬太と過ごした、わたしの部屋。


 でも、ここは敬太の家じゃない。

 わたしの部屋で、敬太の家はここじゃない。

 ここは、敬太の家じゃない。

 非日常を楽しむ、家庭じゃない場所なんだ。


「家庭じゃないもんね……。わかってたよ。もう良いよ、敬太。もう良いよ、もう、もう、もう……」


「ううっ」と、腹の底から萎縮した声が漏れてくる。もう、この部屋を引き払って、実家に一旦戻れば良い。母はきっと拒否しない。


「もう、そうしよっかな……。だって、敬太はきっとわたしのものにならないよ……」


 騙され続けて悔しい気持ちはある。恨みたい気持ち、二十八歳からこの五年間を返してほしい気持ちもある。でも、それは自分で選択したこと。誰のせいでもない、危険な香りに誘われて火遊びに興じた自分もいる。それを自分自身で知っている。


 自然と洋服ダンスの上、うつろと化した金魚鉢に目がいく。

 

 ——もう、金ちゃんもいない。


 敬太がいなくて寂しい時、話しかけていた金魚の金ちゃんも死んでしまった。わたしのせいで、金魚鉢から飛び出て干からびてしまった。その亡骸は実家の庭に埋めてある。母は、「かわいそうだったね」と言って、一緒に手を合わせてくれた。なんだかんだ言っても、わたしは母に頼っている。母は良くも悪くも一貫した正義を持ち、ぶれることがない。そんな母がいまは、羨ましくもある。わたしは、ブレすぎている。自分の中に正しさなんて持ち合わせていない。あるのは、自己満足な価値観だけだ。誰かの夫に手を出し、そのツケがいま、やってきた——。


「お母さん、お母さん、お母さん……、わたし……、家に帰っても良い?」


 返事のない部屋で呟くと、「良いよ」と、母の声が聞こえた気がした。と、同時に、『公衆電話の太郎くん』を書いたことを思い出す。


 敬太がいない時間を過ごす、唯一の気晴らし。

 小説を書くこと。

 空想し、夢中になって書いている時は、敬太の存在を忘れることができた。


 ——そうだよ……。


 もしも、敬太と付き合わなかったら、わたしは、小説サイトに『ゆらら』のアカウントを作らなかったかもしれない。ただ空想し、満足していたかもしれない。敬太がいない隙間を埋めたくて、登録した小説サイト。そのサイト上には執筆を通して知り合った仲間がいる。会ったり喋ったりしていなくても、心が繋がる人がいる。


 ——敬太と付き合っていたから、手に入れたこともあるよ。ダメなことばっかりじゃない……


「別れても、きっと、大丈夫だよ。そう、思えない……?」


 自分に話しかけ、自分で頷く。

 何度かそれを繰り返した。

 その度に、涙が頬を伝い、ポタポタっと膝に落ちる。

 薄いブルーのジーンズが濃い染みをいくつもいくつも作っていく。

 その様子をじっと見つめた。

 どんどん増えていく染み。

 いつか聞いた話を思い出す。

「人は自分が可哀想な時、涙がでるんだよ」と。

 自己憐憫。

 自己肯定感が低い人こそ陥りやすい、自己憐憫。

 そうならば、今わたしは、まさにその涙を流している。


 なんて、可哀想なわたし。

 悲劇のヒロインになりきって、自分が可哀想だと涙を流す。

 

 ——馬鹿みたい……じゃん……。


「もう、終わりにしよう、ね……?」


 自分を納得させるようにもう一度語りかけ、何度も反芻した。

 もう、終わりにした方が良いと、何度も、何度も。


 ——それに、わたしには、敬太以外にも心が繋がる人がいるはず……。


「マヤさんだって——」


 ——続き、楽しみにしていますって、言ってくれた……。


「マヤさん」と、無意識に名前を呼び、ふらりと立ち上がった。泣き腫らし頭もずうんと重たく耳鳴りもしている。でも、夢遊病者のように、自然に足がパソコンに向かう。


 小さな音を出し椅子に座ると、金ちゃんが死んだ日から閉じていたノートパソコンを開けた。エンターキーを押す。パソコンの起動音。白く光る画面。小説サイトの編集ページが立ち上がる。


 誰かに。

 心が繋がっている、誰かに。

 マヤさんに、会いたかった。

 会ったことも、喋ったこともないけれど。

 文字で繋がるだけの人だけれど。

 でも、いま、マヤさんに会いたいって強く思っている。


「マヤさん……」


 顳顬こめかみを押さえ、滲む視界でパソコン画面を見る。

 右上の小さなベルマーク。

 近況ノートへの書き込みの通知。

 そこをクリックすれば、マヤさんが書いてくれたメッセージが読める。


 ——マヤさんに、今、会いたいです……。マヤさんのコメント、もう一度読みたいです。繋がってるって、感じたいです……


 小さな赤い丸のついたベルマーク。

 きっとまた誰かが新作を投稿した。

 そう思って、ベルマークをクリックした。


「え……?」


 漏れ出る声。

 目を見開き画面に顔を近づける。


 ——見間違い……?


 ベルマークの通知画面。

 信じられない。

 でも、確かに通知が来ている。


[♡エピソードに応援 20時間前 マヤ魔界さん episode6-公衆電話の太郎くん]


[♡エピソードに応援 20時間前 マヤ魔界さん episode5-公衆電話の太郎くん]


[♡エピソードに応援 20時間前 マヤ魔界さん episode4-公衆電話の太郎くん]


「な……んで?」


 下書き保存している『episode6』までが公開されていた。

 


 


 

 

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