episode6_1

 会社の昼休憩。

 白い会議用長机とパイプ椅子が並ぶ食堂は、制服の紫色で溢れかえっている。ズボンに紫のジャンバー。一体どんなセンスでこれを選んだのかと思うけれど、わたしも同じものを着ている。外国人労働者も、もちろん同じジャンバーだ。列に並び、食堂の端に置かれた、傷だらけの発泡スチロールからお弁当を取り出すと、宮下さんに手招きされ、隣に座った。


 ——ほんの少し前に、時間を巻き戻したい。


 食堂に来る途中、「なんか元気がないんじゃない?」と宮下さんに声をかけられ、金ちゃんのことを話してしまった。その流れで一緒にお昼を食べることになるなんて、分かり切っていたのに大失敗だ。


「それで死んじゃったの? 金魚鉢から飛び出しちゃって。そのまま干からびて? やだもう〜。中嶋さんたら、またそんなに下を向いちゃって。もうほら、金魚でしょ、たかが金魚。犬や猫じゃないんだから〜。それに中嶋さんのせいじゃないわよ。金魚が水槽から飛び出しちゃうなんてこと、良くある話よ〜。うちの息子が中学生の時飼ってた古代魚もね、あ、古代魚っていうのはなんて言ったかな、ちょっとカタカナの名前のやつだけどね。二匹飼ってたのよ。二匹もよ、二匹も。で、その子たちってば熱帯魚だからね、金魚と違って、温度管理とか難しいわけよ〜。電気代もかかるし、設備だって金魚鉢ってわけにはいかないしね〜。その古代魚もある日突然水槽から飛び出して死んじゃったのよ〜。だから落ち込まないで、良くあることなのよ〜。ほらほら、お弁当冷めちゃうじゃない。食べましょ食べましょ」


 勤続二十年のベテランパート宮下さんは一方的にそう言うと、お弁当箱を開け、「まぁ今日はサバの塩焼き」と、嬉しそうにお弁当を食べ始めた。


 ——話すんじゃなかった。大後悔。


 宮下さんは決して悪い人じゃない。明るい五十代半ばのおばちゃんだ。いつもと違うわたしの雰囲気を察して、元気付けようとしてくれている。と、そんなところだと思う。でも——。


 ——犬や猫と違うんだからって、その言い方はな……。


 昨日、金ちゃんは死んでしまった。同じ部屋に居たのに、金ちゃんが水槽から飛び跳ねる気配を全く気づけなかった自分を責めている。きっと、ぴちゃんと水の音がしたはずなのに。WEB小説に集中しすぎていて、その微かな音に気づけなかった。その音に気づいていたら、すぐに金魚鉢に戻してあげれたはずなのに——。


 赤いオランダ獅子頭の金ちゃんは、金魚鉢から飛び出して、白いカーペットの上で干からびていた。暖房の効いた乾燥する部屋。息もできず窒息死。思い出すだけで後悔が押し寄せてくる。


 ——水の音くらい気づけたんじゃない? わたしが殺したようなものだよ。金ちゃん、本当に、本当に、ごめんなさい……。


「ほらほら、冷めちゃうわよ〜。また新しい金魚を買えばいいのよ〜。ね、中嶋さん」


 宮下さんは決して悪い人じゃない。落ち込んでるわたしを励まそうとしてくれている。と、もう一度自分に言い訊かせるけれど、金ちゃんは金ちゃん。他の金魚とは違う。新しく金魚を買えば、心の中にポッカリ開いた部分を埋めれるわけじゃない。


「いただきます」と呟いて、お弁当箱の蓋を開けた。

 

 ——サバの塩焼き。


 今日は魚じゃないメニューが良かった。


「それにしてもあれよねぇ〜。さっきの内職さん、名前なんてったっけ? あの人本当に気をつけないとダメね。ねぇ、中嶋さんもそう思うでしょ? 見落としが二十個も出てきたらやってないも同然でしょ? それにあの子、わたしにこう言ったのよ。ちゃんと百個抜き取って検査しましたって。あんたそれは抜き取り検査でしょって話よね〜。そうじゃなくて、箱の中に入ってる三千個全部を検査する為に内職に出してるのに。説明聞いてなかったのかしら。本当にもう、厳しく言ってやったわ〜」


「そうですね」とだけ答え、卵焼きに箸を伸ばす。口に入れると生温く添加物の味がした。既製品の卵焼き、それを切って入れただけのお弁当。社食で注文するお弁当は、給食センターのものだ。寒い時期に温かいお弁当はありがたい。それに、コンビニ弁当よりも身体に良い気がする。とはいえ——。


 ——今日は全然美味しくない。


「はぁ」とため息を小さく吐き、残りの卵焼きを口に含んだ。隣に座る宮下さんはお構いなしに話を続けている。勤続二十年のベテランパートともなると、その辺の社員よりも立場が強い。特にわたしみたいな高卒事務員は完全に宮下さんの支配下だ。


「高橋さんだわ! 思い出した! そうそう、高橋って名前だったわ。赤ちゃんおんぶして内職取りに来るからつい、気を緩めちゃったけど。もうダメね。これからは厳しくしてあげないと。あの子の為にもならないわよ。検査数あげないとお金にもならないし。ねぇ、中嶋さんもそう思うでしょ?」


 どうでもいい話。

 無視してしまいたい。


 でもそういうわけにもいかず、「そうですね」と答える。


「もう、まだ落ち込んでるの? さっきから箸が進んでないじゃない? ほらほら〜元気出して!」


 宮下さん的には、きっとわたしを慰めてくれているつもり。元気出してと背中をバンバン叩かれ、手に持っていた箸がぽろっと弁当箱の中に落ちた。


「やだぁ〜。箸が落ちるほど落ち込まないでよ〜。金魚なんだし、ね。また買えばいいのよ。安いもんよ」


 ——話さなきゃ良かった。


 宮下さんはわたしを慰めても、励ましてもいないことに全く気づかない。でも、それをどうこう言うつもりはない。宮下さんにとって、金ちゃんの話は、とうに流れて行った話題のひとつ。今は新しく入った内職さんの話がメインなのだ。


 自動車に使う小さな部品。輪っか型の金属部品に、傷やクラックが入ってないかを目視検査する。その内職業務を払い出し、受入れするのが宮下さんの仕事だ。


 内職さんは年齢だけでなく、住居環境も様々で、管理できない部分も多い。猫の毛、犬の毛、髪の毛の混入。製品にチョコレートがついていたこともある。そんなものをお客様に納品したら最後、不具合対策書を作成して営業担当者が謝りに行くだけじゃなく、対象ロット全てを検査し直さなくてはいけない。だから宮下さんくらいの性格じゃ無いと、内職の采配はできない。


 ——宮下さん的に通常運転。悪気があるわけじゃないって。


「はぁ〜」とまた溜息が出そうになり、慌ててごくんと唾を飲んだ。溜息をついたらまた背中を叩かれそうだ。それに昼休憩は長いようで短い。ほうれん草のお浸しに箸を伸ばし、口に運んだ。はやくこの場から立ち去って、自分のデスクに戻りたい。


 それに——。


 敬太にも金ちゃんが死んでしまったことを連絡した。その返事がまだ来ていない。日曜日だったし、わたしにLINEの返信ができなくても仕方ない。敬太から返信が来ていたらと思うとすぐにでもスマホを触りたい。でも、いまここでスマホを出すと、宮下さんに「彼氏?」と聞かれ、めんどくさいことになる気がする。


 ——スマホを見るなら、宮下さんのいないところじゃないと。


「それでね〜」と宮下さんは内職さんの話を続けている。適当に相槌を打ち、美味しくもないお弁当を、とりあえず食べる。箸を動かし続け、弁当箱の蓋を閉じると、「わたし、やり残したことがあるので、お先に——」と席を立った。


 それを見て、「あら、落ち込んでる割には速いわね〜」と、宮下さんは驚き顔でわたしに言い、その後で反対隣のパート仲間に声をかけていた。席を立ったわたしの次はその人が犠牲者のようだ。「本当に〜?」と驚くような宮下さんの声を背に、食べ終わった弁当箱を返却ボックスに入れた。


 ——残しちゃって、ごめんなさい。


 今日のメインはサバの塩焼き。

 魚類はしばらく食べられない。



 


 


 

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