episode5_4
『episode6』は、サキが生贄の重さを考察する様子から始まっていた。
恋人——安いラブホテルに置き去りにしてきた男——と、いつかの夏祭りで掬って、名前を与え飼っていた金魚。その金魚を生贄にして手に入れた美容的変化。今一度、鏡の中、自分の姿に視線を向けるサキ。くっきりとした二重瞼の端には微かに皺がある。それに、と腰に手をやれば弛んだ肉を感じる。
「まだ、足りない」とサキは思う。
「こんなんじゃ、まだ足りない」と。
サキは公衆電話の太郎くんに訊く。
「金魚をもっと差し出せば、もっと綺麗になれるのかしら?」と。
太郎くんは答える。
「その命の重要性が高ければ」と。
サキは考える。
今は夜更。
熱帯魚店に行き、金魚を買うことはできない。
で、あれば——。
——明日、熱帯魚店に行って買うしかない。
——翌日。
開店時間と同時に近所のホームセンターに入るサキ。人はまばらで寒々しい店内。コツコツとブーツを鳴らし、熱帯魚店へと向かう。耳朶に流れ込むクリスマスソング。期待に胸を膨らませ、サキは赤い金魚を購入する。十匹で九八〇円。一匹で効果があったのだ。十匹も用意すれば格段に美しくなれるだろう、と。
だがしかし、ホームセンターで購入した十匹の金魚を生贄に差し出しても、美しさは変わらなかった。
サキは訊く。
「九八〇円も出して十匹も飼ってきたのに、なぜなんにも変化がないの?」と。
太郎くんは答える。
「その命の重要性が高ければ」と。
サキは訊く。
「命の重要性って何で重みが違うわけ?」
太郎くんは答える。
「試してみればいい」と。
ふんっと鼻を鳴らし、サキは考える。
命の重要性、それは値段かもしれないと。
千円札一枚でお釣りがくるくらいじゃ、効果がないのだと。
それに——。
金魚のマリンには名前があった。
何年も金魚鉢で飼っていた。
それなりに名前を呼び、餌も与えていた。
「なるほど。なんとなく分かったわ」
再度ホームセンターに行き、ペットショップに向かうサキ。
時刻は昼を過ぎている。
クリスマス当日、年末の日曜日。
ホームセンターは混雑し、正月飾りが売られている。
幸せそうな家族連れの姿も目に映る。
だがサキは思う。
そんなもの、興味はないと。
人混みをすり抜け、ペットコーナへ向かったサキは、今度はウサギを購入する。店員に「餌やゲージなどは大丈夫でございますか?」と聞かれ、「ええ、大丈夫よ」と答える。
どうせすぐに死ぬのだ。
ゲージなんて余計なものは必要ない。
九八〇円の金魚では効果がなかった。
今度は十倍の九八〇〇円も出すのだ。
と、そこでふと思い出す。
「そうね、ゲージ、一番安いものを頂戴。それに、このウサギ用の餌も」
——名前を付け、可愛がらなくては。金魚のマリンの時よりも、もっと美しくなりたい。
荷物をトランクにいれ、バタンとドアを閉めると我知らず笑みが溢れるサキ。「はやく、試してみたい」と独り言ち、車に乗り込みアパートへと戻る。部屋に入り、飼育ゲージを箱から取り出すと、灰色の小さなウサギを中に入れる。
——焦ってはいけない。
名前をつけるのだ。
可愛いがるために。
灰色をした雄のウサギ。
小さな雄のウサギ。
名前はそうだな、ウサ吉で。
「ウサ吉。可愛いわね、ウサ吉。いい名前。ふふふ。ウサ吉。ウサ吉。ウサ吉。あはは、可愛い名前ねぇ、ウサ吉。ねえ、そう思うでしょ?」
焦ってはいけない。
九八〇〇円も出したのだ。
それに余計なものまで買ってしまった。
一週間待ってみようとサキは思った。
一週間待てば年も明ける。
この正月休みは出かける用事もない。
タカユキにも、もう興味はない。
できるだけこのウサ吉に餌を与え、可愛がる。
そうすればきっと——。
「名前って不思議よね。つけた途端に存在感が増すもの。それに可愛いと思えば思うほど、きっと効果はあるはずよね。あ〜、そう思うと愛しくて堪らないわ。ウサ吉。ふふふっ、可愛い可愛い、わたしのウサ吉ちゃん」
サキはウサ吉に何度もそう呼びかけ、できるだけ愛情を注ごうと思った。
タカユキからの電話にも出ず、サキはウサ吉を可愛がり続けた。
可愛がれば可愛がるほどに、効果があると確信していた。
名前を呼び、餌を与える。
最低限の可愛がり方では足りない。
ゲージから外に出し、抱き上げて頬擦りまでして見せた。ウサ吉の体温を感じ、柔らかい毛を撫でまわし、何度も名前を呼ぶうちに胸の辺りが暖かくなる感触を覚えた。
——可愛い、愛しいって気持ちが湧いてきている。
サキはそう思った。
これはそういう感情の暖かさだと。
名前を呼べば呼ぶほどに、抱きしめれば抱きしめるほどに、サキのなかのウサ吉は存在を形作る。愛しい感情とともに。
「ウサ吉。可愛い、可愛い、わたしのウサ吉」
そうして年が明けた。
サキには迷いなどなかった。
この選択肢以外に。
いよいよ、ウサ吉の効果を試す時。
サキは人形を抱き抱え、公衆電話の太郎くんを召喚し、云う。
「わたしをもっと綺麗にして。生贄の名前はウサ吉よ」
床に座り、ゲージの中、ウサ吉に目を向けるサキ。
この一週間、名前を呼び続け、可愛がってきたウサギ。
一万円以上経費のかかったウサギ。
今、その効果が如何程のものか分かる。
サキが見つめるなか、ウサ吉はキュゥっと声を出し苦しみ始める。期待に胸を膨らませるサキ。その目の前でウサ吉は、狂ったように暴れ始める。
ガシャンガシャンと金属音が部屋に響く。
それを薄ら笑いで眺めるサキ。
だが——。
はっと思い出し、手を握り締め「ウサ吉、ウサ吉、ウサ吉」と心配そうな声を捻り出す。愛情の深さが効果に影響するのであれば、最後まで愛していなくては——。
「ウサ吉、ウサ吉、ウサ吉……」と声を漏らしながら、その時を待つサキ。
苦しみながら転げ廻るウサ吉。
そして、その時は訪れる。
ピタッと動きを止めるウサ吉。
刹那。
パンっと乾いた音が部屋に響くと同時にウサ吉の肉体が弾け飛ぶ。
白い壁紙に。
木目調のリノリウムの床に。
サキの頬にもその鮮血が跳ねている。
「ふっ……は……、ハハハハハ……」
目の前の光景に一瞬怖気ずくも、サキには感触があった。
ウサ吉は金魚のマリンよりも一緒にいた時間は短い。
それなのに感触があった。
金魚のマリンの時よりもどこか心の片隅に空洞ができている。
魚類ではなく、自分と同じ哺乳類だからだろうか——。
「か、鏡……」
血で滑る床から立ち上がり、洗面所へと向かうサキ。
白い頬に飛んだ血を掌でぬぐい笑みが溢れる。
「ああ〜、やっぱり。哺乳類だからだわ。以前にも増して、美しくなっている」
寒々しい洗面所の蛍光灯の下で、サキは洋服を脱ぐ。そして、露わになる自分の裸体に目を見張る。
白く弾力のある肌。
くびれが深まった腰。
上を向く乳首と乳房。
でも——。
——まだ足がちょっと太い気がする。
「もっと、もっとね、もっとだわ。こんなんじゃ足りない。もっと綺麗にならなくちゃ」
さらなる美貌を手に入れたことで、サキの欲はさらに増幅する。
ウサギで変化した自分。
こんなくらいじゃ満足できない。
でも——。
ペットショップへ行き、犬や猫を買うとなるとお金がかかる。
一万円札が何十枚も飛んでいく。
そうだ。
お金も必要。
金、金、金。
生贄を捧げるほどに美しくなれる。
それにお金があれば欲しいものも手に入る。
ブランドのバッグに洋服、靴。
欲しいと思っていたものが手に入る。
それに——。
仕事をする必要もない。
「ふっ、はははははっ! なんでもお望み通りの人生だわ!」
サキは太郎くんに訊く。
「大金を手に入れる為には何を差し出せばいいのかしら?」と。
太郎くんは答える。
「その命の重要性が高ければ」と。
「重要性……」サキはそこで閃く。
「人間ってことかしら?」
魚類よりも哺乳類。
名もなき存在よりも愛情をかけた存在。
そんな人間を差し出せば、効果は高い。
きっと、これ以上ないほど願いが叶う。
思い当たる人間ならいる。
自分を裏切り浮気をした男。
今やなんの未練もない男。
未だ別れてはいない、男——。
恋人、タカユキ。
「そうか、あの男を差し出せば何もかもうまくいく」
クリスマスイブ、お互いの肉体を貪りあったあの男。
タカユキは、あの夜から執拗にわたしに連絡を寄越してくる。
タカユキはきっと、わたしの熱が冷めたことを感じとっているのだ。
「勝手な、あいつを差し出せば——」
そこでサキはまた気づく。
「ダメだ。この状態で捧げても意味がない」
生贄の金額。
存在を形づける名前。
愛情の深さ。
そのどれもを最高点に高めてこその、効果なのだと——。
『episode6』は、そこで終わっていた。
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