episode5_3
白い洋服ダンスの上、丸い金魚鉢の中には赤い物体がゆらゆらと動いている。
——いつも通りの金ちゃんだ。
ほっと胸を撫で下ろし、「なわけないよね。ははは……」と気の抜けた声を出した。自分で書いた物語に入り込みすぎている。
敬太の家で飼っていた犬、マルチーズのロンが死んだことを思い出し、咄嗟に金ちゃんを心配するなんて。物語に書いたからロンは死んだのではない。たまたま、老衰で亡くなった日が重なっただけ。それなのに——。
金魚鉢から何故か目が離せない。
自分の意識とは違う力で目が釘付けになっている。
ぞわぞわと全身が粟立ち始め、嫌な予感がした。
もしかして、書いた展開になったら。
もしかして、一瞬で水が沸騰したら。
もしかして、もしかして、もしかして。
そんな妄想に脳が支配されていく。
奥歯を強く噛みしめ「やだなぁ……」と絞り出すように声に出すと硬直していた身体からふっと力が抜けた。でもまだ金魚鉢の中、赤い物体から目が離せない——。
確かめたい。
そんなことは妄想だと。
そっと椅子から立ち上がる。馬鹿馬鹿しいと思いつつも確認したいと思った。
金魚鉢の中を。
赤い尾鰭を揺らす、オランダ獅子頭。
金ちゃんが元気な姿を。
赤い色を視界に入れながら金魚鉢に近づき中を窺うと、金ちゃんはいつものようにゆらゆらと水中に漂っていた。ぽこぽことした頭上の水泡が尾鰭を振るたび揺れている。
「だよね、そんなこと起こるわけないって……。ごめん、金ちゃん変な妄想しちゃって……」
話しかけると、タイミングよく水面にぽこっとひとつ泡が浮かんだ。それを見て日常を取り戻す。金魚鉢が沸騰するなんて現実的にありえない。
——立ったついでだし、トイレに行ってこようかな。
部屋のドアを開け、廊下に出る。狭い廊下は恐ろしいほど冷えていた。外は雪、壁の薄い木造アパート。暖房のない廊下は外気温に近い。その凍えるような冷気で、妄想に支配された脳が冷静さを取り戻した気がした。
「さむっ」と声に出し、用を足してから部屋に戻る。
ふと壁時計に目をやると、いつの間にか午後二時を過ぎていた。正午のサイレンを聞いてからもう二時間も経っていたとは。物語の中に入り込みすぎて、時間の感覚が無くなっていたのかもしれない。
——この調子じゃ、すぐに夕方。すぐに夜だって。
明日からはまた平日。
深夜まで起きていることはできない。
貴重な日曜日の時間は残り少ない。
椅子に座り直し、続きの『episode6』を読む為にパソコン画面を切り替える。『episode5』の編集画面を左上のバツ印を押して終了し、『小説▷公衆電話の太郎くん』と左上に表示される編集ページに移動する。と、右上の小さなベルマークが視界に入った。
ベルマークに小さな赤い丸。
小説サイトに新しい通知が届いた印。
マウスを移動しクリックすると、近況ノートに書き込みが入ったという通知だった。数少ない執筆仲間、マヤ魔界さんからだ。すでに公開した物語の感想を書きに来てくれたのかもしれない。
わたしの書いているWEB小説サイトは、作者と読者が交流できるようにコメント欄がある。でも、心ない書き込みをされた事があるわたしは、コメント欄を閉鎖している。コメント拒否を選択しているということだ。悪意を含んだコメントは、ナイフよりも鋭く心を引き裂く。
《ento2222:20XX年12月17日 23:58 よくこんな下手くそな文章で公開できますね。それに話がキモい》
初めてみるアカウント名『ento2222』。そのコメントを読んだ時、もう二度と物語は書けないと思った。空想し、時間をかけて真面目に書いた物語。それを批判する言葉。震える指でコメントをした人のアカウントをクリックすると、読む専門の人だと知った。
自分で物語を書いたこともないくせに、誰かの物語を非難する。最低だ。そう思いつつも、心は深く傷ついた。心に刻まれた傷は深い。だから『ento2222』というアカウント名は今でも忘れていない。
あの時、『もう二度と書けないかもしれない』と愚痴を吐いたわたしに、『そんなの無視して書けばいい。作品のコメント拒否を設定すればいいよ。いつも応援しています』と励ましてくれたのが、マヤ魔界さんだった。わたしの書く物語の数少ない読者、マヤ魔界さんの『応援しています』という言葉に救われて、今がある。
——とはいえ、いまだに読者は少ないけども。
早速、マヤ魔界さんからのメッセージを読む。いま開催中のコンテスト、その要項が出た時に、『書こうかどうしようか迷っている』と書いた近況ノートにコメントしてくれたみたいだった。
《新作書いたんですね! いまお昼の休憩でこちらにお邪魔しました。都市伝説『公衆電話の太郎くん』なんて、面白そうなタイトルで早速読みに行きました。緑の公衆電話を探すところ、リアルな感じがして怖かったです。また続きも読みに伺います。こちらは今日は雪が積もっています。ゆららさんのところも雪でしょうか。とても寒い日が続くので、お体ご自愛くださいませ》
コメントを読み進め、「めっちゃいい人やぁ〜」と感謝の声が出た。マヤ魔界さんに向けてすぐさまコメント返信する。
《マヤ様。いつもありがとうございます! やっと書き始めました(笑)。でも、完結できるか不安でしかない(笑)。実は緑の公衆電話、深夜に探して、実際にやってみたんですよ。だからリアルと言ってもらえてすごく嬉しいです! こちらも雪です〜。ものすごく寒いですよね。またマヤさんのところにも伺います! エッセイも楽しみに更新お待ちしています。コメントありがとうございました!》
文字を打ちながら会ったこともない、喋ったこともないマヤ魔界さんを想像する。マヤ魔界さんは葬儀会社にお勤めで、不定期更新でお葬式エッセイを書いている。わたしとは比べものにならないほど読者数が多い作者さんだ。
何万人も登録者がいる小説WEBサイト。自分の書いた物語を披露する場所ということもあり、そこで出会った仲間との心の距離は近い気がする。
「リア友よりも身近に感じる存在って、すごいよね」
続きを楽しみにしていますと言ってもらった以上、頑張らねばならない。
早速ページを『公衆電話の太郎くん』編集画面に移動し、『episode6』を開こうと思ったところで、自然とPV数に目がいく。どれくらい読んでもらえてるかは、いつも気になるところだ。と、視線を移動し固まった。
「うそ……。え? ちょっと待って、本当に?!」
ぱちくりと何度も瞬きしてその数字を見る。
——PV729?!
フォロー数や応援ハートに視線を移すと、そこは以前と変わらず、『フォロー3』『応援9』のままだった。
——と、いうことは?
各エピソードのPV数。画面に顔を近づけ小さな数字を読むと、いま公開している三話にそれぞれ243PVずつ付いている。
「信じられない……」
首を傾げ、一体誰が読んでくれているのだろうと考える。新作通知で読んでくれる人が増えたとは考えにくい。今はコンテスト期間中。新作を出している人が多いはずだ。ということは——。
「誰かがSNSで宣伝してくれてる、とか……?」
「いやぁ〜ないない」と椅子に背中を預けた。そんな知り合いはいないし、自分のSNSに小説サイトのアカウントを紐付けしていない。
「まあいっか……考えてもわかんないし」
兎にも角にも、読んでくれる人が多いということ。
それだけは事実。
そこに意識を向けて考え込むよりも、いまは物語を書き進めなくては。
「冷静に、冷静に」と自分に言い聞かせ、『episode6』をクリックした。
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