episode3_2
関係が冷え切っている嫁に対してつける名前じゃない気がするのは、わたしだけだろうか。寒気を覚え、トーク画面を見つめる。『ゆいたん』のところに、未読の数字はついていない。悴む指で『ゆいたん』をタップすると、敬太と『ゆいたん』の会話がずらっと現れた。水色の背景に、白い吹き出しが短い言葉でいくつか続いている。一番新しい吹き出しからゆっくり指で辿る二人の会話。昨日の朝から時間が遡っていく。
《いつものことだし》
《おー、言っとくわ。盛り上がったら電話出れないかも》
《うん。田中っちによろしくね》
田中。
敬太の高校時代からの親友で、いまだに独身の一人暮らしの男性。
わたしと一緒にいる時に言い訳に使う人の名前だ。
時を遡るメッセージの文字。
《今に始まったことじゃないから大丈夫。田中の家に行くから心配しないで》
《うん。ごめんね一緒にいれなくて》
——一緒にいれなくて……?
奥さんの実家は代々医者の家系で、中小企業勤めの敬太のことを、奥さんの実家がよく思ってないことは、聞いている。医者でもない男と蔑んでみられるのに耐えられないと、敬太が愚痴を溢していた。向こうの実家が嫌い。もう嫁は好きじゃない。だから、はやく別れたいとも。
——奥さんのこの《一緒にいれなくて》なんて書き方。なんか仲良さげでムカつく。
指を下に動かし、その前のメッセージを読む。
《寒くなるからあったかくしとけよ》
敬太の気遣うような言葉。関係が冷え切っていると言っているくせに、こういう優しい文章を打つのかと、ぎりっと歯を噛み締めた。頬にまた熱が戻ってくる。ぎゅっとスマホを握りしめた。
——ムカつく。ムカつく。ムカつく。ムカつく。ムカつく。ムカつく。
見えている範囲が読み終わり、怒りを堪え、指を下にスクロールする。遡るトーク画面。白い小型犬が小さな箱に入り、小学生くらいの女の子や老夫婦に囲まれている写真が出てきた。昨日の早朝、奥さんの愛犬ロンの亡骸。文面からして、奥さんの実家で撮った写真だろうか。
《実家まで送ってくれてありがとね。実家のお母さんもロンに会えて泣いてるよ》
やはり、今日の朝、わたしの家に来る前の写真とメッセージだ。そして、その前は金曜日の夜の会話。
《分かった。気をつけて帰ってきて》
《いま会社でた》
《もうダメだと思う》
《今から帰る。ロン、大丈夫?》
《ロン、もうダメだ。凛ちゃんも泣いてる》
金曜日の夜、うちに来る予定だったのに来れなくなったと言っていた。その理由がこれだ。わたしの頭の中でも時間が巻き戻されていく。
——ごめん、急用ができて、今日はそっちに行けなくなった。美咲に会いたかったなぁ〜。
敬太はそうやってわたしに電話をかけて、それから家に帰った。そう言う理由なら、仕方がなかったんだと思う自分と、やはり家庭が一番なんだね、と思う自分が交差する。指をまた、下にスクロールする。
《今日遅い?》《今から帰る》のような同じ内容の会話がいくつか続き、そこで肩に入っていた力が少し抜けた気がした。
ほっとした自分がいる。
わたしとのLINEは、《はやく会いたい》《大好きだよ》《美咲を抱きたい》といった類の、恋人メッセージばかりだ。
——ふっ、やっぱり敬太はわたしの方が好きなんだ。
優越感。
でも——。
何回か指でスクロールした先の画面で、わたしの鼓動が動きを止めた。
《わかった。仕事頑張ってね!》
《今日は遅い》
《きっと喜ぶよ! 今日はやく帰れる?》
《おお、それは良かった! 凛もお姉ちゃんか》
《やっぱりできてるって。二人目》
ぐらりと視界が歪む。最後の漢字三文字が網膜に焼き付く。
二人目、二人目、二人目。
——二人目、とは?
子供が、二人目の子供ができたんだと理解するのに時間はかからなかった。
「はははっ……」思わず声が漏れた。その後で、「はははっ……はははっ……」と、何にも面白くもないのに、乾いた笑い声がわたしの口から寒々しい廊下に流れていく。
騙されていた。
敬太に。
やっぱり敬太に騙されていたんだ。
嫁と冷え切っているとわたしに言いながら、わたしに「大好き」だと言いながら、嫁に挿れた肉片をわたしにも中にも挿入し、貪るようにわたしの身体を求めていた。「愛してるよ」と囁きながら、何度も何度もわたしを求めていた。「美咲」と名前を呼びながら、わたしを激しく抱いたのに——。
許せないと、心の声が聞こえる。
不倫とはそう言うものだと知っていた。
どこかで分かっていたはずだ。
でも、やっぱり許せない。
許せない。
許せない。
許せない。
「許せないっー!!!」
声を押し殺して叫ぶと、身体の奥底に押し込めていた汚いものがぐつぐつと湧いてくるのが分かった。胸に迫りあがってくる感情が一旦口に出したことで、行き先を見失っている。
やり場のない怒りを込めて「許せない」ともう一度吐き出すと、ぐるぐると体内を駆け廻っていた感情が行き先を見つけた。
——刹那。
どす黒い塊が大きな渦となって下腹部へと向かう。汚い。誰かに挿れたものをわたしにも挿れていただなんて。今すぐにでも敬太の肉片が入った場所を切り落として捨ててしまいたい衝動に駆られ、自分の腹を抑えた。
——絶対に、絶対に、許せない……。
すぐにでも敬太を叩き起こし、この事実を突きつけ、殴り飛ばしたい。いや、殴るだけじゃ足りない。今すぐにでも、今すぐにでも、殺してやりたいほど、敬太が、何食わぬ顔をしてわたしを騙し続けた敬太が、憎い——。
「あ゛ああああああああああああああ〜」重低音を震わせ、呼吸と共に怒りを吐き出す。吐いても吐いても湧き上がる黒い感情。聞こえないように何度も何度も吐き出した。
「あああああああああああああああ〜」
「あああああああああああああああ〜」
「あああああああああああああああ〜」
信じていたのに。
結婚すると言う言葉を。
いつからか、信じていたのに。
疑い、信じて、また疑い、それでも信じて三十歳を過ぎてしまった。
——この五年間を返せ!
敬太が、敬太の嫁が、いますぐにでも殺したいほど憎い。
幸せそうな四人家族になる敬太たちが憎い。
全員皆殺しにしてやりたいほどに、憎い。
憎い。
——けれど。
殺すなんて、できない。
そんなことしたらわたしの人生が全て台無しになってしまう。
いや、もうすでに台無しにされてきたんだ。
あの食事に行った日から。
あの、危険な香りに誘われた時から。
あの時から、すでに、わたしの人生は敬太に貪り食われて捨てられる運命にあったのだ。
わたしを好きだと言いながら、俺の女だと言いながら、わたしだけだと言いながら、家に帰ると敬太は嫁を抱いていた。
それも、子供ができるように——。
「許せない」
ドアの向こう、部屋の中で、わたしの小さなシングルベッドを占領して寝ている敬太を想像し、増幅する憎悪。
どうしてくれようかと思う。
現実的には殺せない。
殺したいほど憎いのに。
現実的には殺せない。
殺したいほど憎いのに。
——だとすれば。
「あああ〜、いい方法があった……」自然と口から流れ落ちるひとつのアイデア。
ふっと鼻で笑い、驚くほど冷静さを取り戻したわたしは、部屋に入るとダウンコートの中に元どおりにスマホをしまう。その足で、パソコンの置いてあるデスクに向かい、そっとパンドラの蓋を開けた。起動ボタンを押し、明るくなった視界の中で、わたしは小説サイトにログインする。真っ白な光り輝く画面に文字が並ぶ。指を走らせると、カチカチと音楽を奏でるようにキーボードが歌う。
カチカチと、カチカチと。
物語を紡いでゆくキーボード。
カチカチと、カチカチと。
文字の中に吸い込まれていくわたしの意識。
死ね。
みんな死ね。
お前らみんな皆殺しだ。
どんな残虐な殺し方をしてやろうか。
あはっ。
あはは。
うふふ。
殺すなら、物語の中で。
どんな酷いことでもできるのだ。
わたしはこの世界の創造主。
なんでもできる存在なのだ。
どんなことも可能なのだ。
わたしは創造主。
わたしは全知全能の神なのだ。
さて、どんな残虐行為をしてやろうか。
どんな死に方を与えてやろうか。
あはは。
うふふ。
どんな死に方を与えてやろうか。
家族四人まとめて葬ってやる。
あはは。
うふふ。
四人共地獄に落ちろ。
あはは。
うふふ。
この世界ではわたしが創造主。
どんなことでもできるのだ。
そうだよね。
太郎くん——。
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