episode3_1
薄暗い部屋の中、腕に威圧感を感じ、はっと目が覚める。ゆっくり首を動かすと、隣で大きな身体の敬太が寝ていた。壁際から狭いベッドを完全に敬太が占領している。一人暮らしのシングルベッド。身長185センチの男性と一緒に寝るには無理があるよな、なんて今更なことを考える。ベッドを大きいものに買い換えようかな、と思ったところで、「うんしょ」と、声を漏らしながら腕で軽く敬太の身体を押した。
ベッドを買い換える。
そんなことは簡単なことだ。
でも——。
ベッドをダブルにしたところで、もしも別れてしまったら。
——それこそ、惨め。
危険な香りに誘われて妻子持ちの敬太と付き合い始めたけれど、いつか終わりが来るような気もしている。でも、身体の相性がバッチリ合うのが離し難い。それに、「嫁と別れて美咲と一緒になりたい」と言う言葉をいつからか信じている自分がいる。きっと、この言葉は不倫業界では
——まさに泥沼不倫中。
「やっぱし、買い替えよっかな」と呟いたところで、何年か前に敬太とした会話を思い出す。
——美咲、ベッド小さすぎない?
——だよね。大きいのにした方が、いいかな……?
——冬のボーナスで買えばいいじゃん。
何気なくしたこの会話。ベッドを買うのはわたし。「半分出すわ」と次の言葉を待ったけど、出てくることはなかった。一緒に使うのだから、半分くらい出してくれてもいいのに。外の女と中の女。外の女はわたしで、中の女は奥さん。外の女と使うベッドに出すお金はないということなのだと思うと悔しくて、「買ってあげる」と言われるまでは絶対に買い替えないと、あの時思った。
「やっぱり買うのやめとこ」
ふんっと鼻を鳴らし、布団から抜け出す。わたしの動作で何か感じるものがあったのか、敬太が「ううん」と小さく唸り寝返りを打つ。その後で「ゆい?」と別の女性——敬太の嫁——の名前が自然に敬太の口から出るのを聞いて、薄暗い部屋中、ベッドで寝ている敬太を睨みつけた。
「信じられない」
わたしの部屋で、わたしと何度も愛し合った日の夜に、寝言とは言え奥さんの名前を出すなんて。家では家庭内別居中に近いくらい冷え切ってると聞いているのに。
——寝てる時に名前を言うってことは、今でも一緒に寝てるってことなのか?
そう疑念が湧いた瞬間、かーっと頭に血が昇る。五年も付き合っていたらこんなことは一度じゃない。敬太が部屋に来たときに不意に呼ばれる「ゆい」の名前。
——わりぃ、ゆい、ビールとって。
日常会話にふっと「ゆい」の存在が出てきて、わたしが硬直するとすぐに「ごめん」と言い訳を始める敬太。そんなことは過去に何度かあった。そして必ず言うのだ。
——嫁は家政婦みたいなもんだから、ついってことだよ。だからさぁ〜、美咲ぃ〜そんな顔するなよぉ〜。嫁は家政婦、美咲は俺の女、だろ?
『俺の女』と言うフレーズとその後の戯れあいで、ぐっと飲み込んできたけれど、寝ている敬太の口から「ゆい」が出てきたいま、わたしのこの煮えたぎる思いはどこにぶつければいいのだろうか。
「めちゃくちゃムカつく」と小さく声に出し、今日の昼のことを思い出そうとする。そうすることで、何とかこの苛立ちを押さえ込もうとした。
週末はいつも家族時間の敬太。
時々抜け出してわたしの部屋にはくるけれど、基本週末はパパの顔の敬太。
奥さんのSNSでもレジャー施設に子供と出かけていく写真が時々投稿されている。でも、今日はわたしのところに帰ってきた。週末にわたしのところに来ると、「勝った」と思う自分がいる。やはり敬太は家庭よりもわたしなんだと、そう思える。
だから敬太が今日うちに来るってなった時は嬉しかったのに。
——さっきの寝言。いまでも家では嫁と一緒の布団で寝ているの? だから寝言で名前を呼んだの?
無言で敬太に問いかけると、押さえ込もうとした感情がまた湧き上がってくる。疑念が膨らみ、黒い靄が心を侵食してくる。もしもそうだとするならば、許せないと、拳を握り締めた。「めちゃくちゃムカつくっ!」と、聞こえないように吐き捨てる。布団に包まる敬太を軽く殴ってやる。いますぐ叩き起こして問い詰めてやろうか。そう思ったところで、ふと考えが湧いた。
敬太は寝ている。
そしてきっと、朝まで起きない。
明るいうちからわたしと肌を淫らに交わらせ、ピザを食べ、夕飯には簡単な鍋を食べた。わたしの買い置きの缶ビールをこれでもかと飲んで寝ている敬太は、きっと朝まで起きることはない。
「チャンス……」と、口の中で囁いて、敬太のスマホをダウンコートのポケットから取り出すと、気づかれないように、そっと布団の中から敬太の手を見つけ出し、スマホの指紋認証を外す。
心臓が高鳴っている。
これだけは絶対やってはいけないと自分に言い聞かせていたけれど、ついに。
敬太が寝た後で小説を書き進めようと思って、缶ビールを飲み過ぎなくて良かった。
いつもはわたしも一緒に飲んで寝てしまう。
——大丈夫だと信じたい。夫婦関係は冷え切っていると。敬太の言葉を信じたい。でも……。
本当に夫婦の関係は冷え切っているのか。
本当に奥さんと別れてわたしと一緒になる気はあるのか。
わたしは敬太の子供を堕している。
あれは、付き合い出した年のこと。
あの時はわたしもまだ敬太のことを遊び相手くらいにしか考えてなくて、結婚なんてする気もなかった。だからそう言う選択をしたけれど、でも——。
三十三歳。
もうわたしもいい歳だ。
——本当に敬太が奥さんと別れて結婚する気がないのならば、考えなくてはいけない歳なんだよ、敬太。だから、そのためにも……。
信じてる。
信じてる。
信じてる。
敬太のスマホを握りしめ、そっとベッドから離れ、音を立てずにドアを開けて廊下に出た。凍えるような暗い廊下。でも、身体中の血が煮えたぎり頬はこれ以上ないほどに熱を帯びている。自分の鼓動が鼓膜に響く。
信じてる。
信じてる。
信じてる。
やけに明るいスマホの画面を隠すように胸に抱え、震える指先でLINEを開く。『嫁』、もしくは『ゆい』。どんな名前で登録しているのか。トーク画面を開き、リストの中からそれらしき名前を探そうとすると、一番上にその名前はあった。
『ゆいたん』
一瞬にして煮えたぎっていた血が全身を駆け降りていく。寒々しい廊下。冷え冷えと光るスマホの画面を凝視する。
——『ゆいたん』とは?
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