episode2_4

 ピンポぉーんという、どことなく歪んだその音で、はっと気づく。お風呂にも入らず、髪の毛も整えてない。


 ——やってしまった。お風呂に入って綺麗に身なりを整えてから、啓太を出迎えるつもりだったのに。ノーメイクなんて、初めてかもしれない。大丈夫、かな……。


 家庭のある彼と会う時は、いつでも武装した綺麗な自分でいたい。それに、敬太もそれを望んでいるような気がしている。わたしよりも五歳年上の敬太。その奥さんは高校時代から付き合っていたという同級生で、「もう女って感じがしないんだ」と、彼はよく口にした。それに、「化粧っ気もないし、本当、美咲と違っておばさんだよ」と聞くたびに嬉しかった。だから髪も、敬太が好きな感じにコテで巻いて、できるだけ手間をかけていたけれど——。


 ——もう遅い……よね?!


 もう、敬太はドアの前に来ている。

 今更髪を巻く時間も、フルメイクする時間もない。


「美咲〜」と名前を呼ばれたのが聞こえ、「はーい」とドアの向こうに声をかけながら、ノートパソコンをパタンと閉じる。椅子から立ち上がり、玄関手前の洗面所まで廊下を進んだところで、ちらっと鏡を見た。


 ——ん? 鏡に写る自分の顔。どことなく、いつもよりも肌艶がいい気がする? 寝不足で、ファンデーションもつけていないのに不思議だ。なんだろうか、ナチュラルメイクをしているように、自然な感じで、目元もぱっちりして見える? 


 自分の顔を見ながら言うのもおかしいが、これならギリセーフかもしれないと思った。


「ちょっと待って、すぐ開けるね」と、ドアの向こうにもう一度声をかけ、後ろでひとつに結んでいた髪をほどき、ゆるふわっと顔にかかるように手櫛で整える。


「よし」と小さく呟いて、鍵を開け、玄関のドアを開けた瞬間、びゅぅ〜と冷たい風が家の中に入り込んで来た。敬太がドアに手をかけて中に入ってくる。


「もう美咲、寒いって。呼んでるのに。インターフォン、聞こえなかった?」

「あ、うん、ごめん」

「おおお、さむっ。はやく、ドア閉めてよ」

「あ、うん……」


 敬太が靴を脱ぎ狭い玄関から一歩足を踏み入れたところで、ドアを閉めた。いつの間にか雪が降り始めていたようで、閉まるドアの向こうにちらりと見えた駐車場は、白くぼやけていた。思わず身震いして敬太に続く。


 背の高い敬太。ダウンコートを着て横幅も膨らんでるせいか、アパートの狭い廊下に敬太の黒い後ろ姿がすっぽりとはまっている。その身体に纏わり付いた冷気が狭い廊下の気温をもう一段下げた気がした。


 敬太が廊下から部屋に入り、手を擦り合わせて「寒い寒い」を連発しているのを見て、申し訳ないことをしたなと思った。廊下のドアを閉め敬太に近づくと、「美咲」と抱きしめられ、はふっと、冷たいダウンコートに顔が埋もれる。外は雪。アパートのドアの前は相当寒かっただろうと思うと、自然に「ごめんね」と声に出ていた。


「本当だよ。電話もしたんだけどな」


「え?」と、腕の中から顔をあげる。


「駐車場に着いた時、俺、電話したよ。だって、いつもそうするじゃん」


 おかしい。スマホの着信は音が出る設定にしてあるはずなのに。全く気づかなかった。そんなこと、今まで一度もなかったのに。


 ——それだけ集中してパソコンを打ち込んでいたということ?


 とりあえず「ごめん」と顔を敬太の胸に埋めて言葉を返す。


 でも、いいアイデアを思いつき、敬太が来る前に下書きに書き加えることができた。敬太が帰ってから今日の夜、この先を書き進めれば、明日くらいにはコンテスト用に小説を何話か公開できそうな気がする。


 ——もうコンテストは始まっているし、はやく公開し始めないと、新作ラッシュの波に乗り遅れてしまって、誰にも読んで貰えないかもしれないし。


 そんなことを考えながら、腕の中でもう一度謝る。


「本当、気づかなくてごめんね」

「うん。でも俺も。美味しいもの買ってくわって言いながら雪降ってきて、ちょっと買い物めんどくさくなった」

「あ、それで……」


 ——それで、思ったよりもはやくやって来たのか。


 自分の体温でだいぶ暖かくなったダウンコートに埋まりながら、「ピザでもとる?」と聞いた後で、こんな日にピザの配達をお願いするなんてと思い直した。配達する人はきっとアルバイト。雪が降ってる寒い日に配達するなんて嫌だろう。でも、敬太はそうは思わなかったようで、「ピザか」と言いながら腕の力が弱まり、わたしの身体を開放した。


「ピザでいいじゃん」と、ダウンコートを脱ぎながら敬太は言う。


「俺ピザ好きだわ。そうしようぜ」

「あ、うん……。だね」

「夕飯は美咲、なんか作ってくれるでしょ?」

「ゆ、夕飯?」

「そう、俺、今日泊まってくからさ」


「え……」と、思わず変な音階の声が出る。泊まっていくのは嬉しいけれど、わたしはコンテスト用に小説を書き進めたい気持ちもある。敬太はわたしの変な声に気づいていないのか、ベッドにごろりと転がって、こっちを向き話を続けている。


「ああ〜、開放感! もうさぁ〜、辛気臭いの疲れる。犬が死んだくらいでみんなして泣いて。俺さぁ〜、実はあの犬、あんまり好きじゃなかったんだよね。美咲は犬好き?」

「あ、犬、犬ね……」


 あの犬と聞いて心臓がざわわっと脈動する。あの犬とは、わたしがお話のなかで『生贄に』と名前を書いてしまった犬、白いマルチーズの『ロン』のことだ。


「年取っていたからなのか、口臭えしさ。べろべろ舐められてよだれとか着くと、うわってなるし。でもそういうこと言うと、嫁が怒るしさ。もう本当、これでやっとスッキリしたわ」

「へ、へぇ〜」

「いやまじで、俺、猫派だし。もう本当、家にいたくなかったわ〜。てか、美咲、化粧変えた?」

「へ?」

「なんか今日ちょっと違う」

「じ、時間がなくて、ノーメイクで……」

「ノーメイクなの? なんか、いつもよりも肌が生々しくて色っぽく見える」


「そ、そうかな?」と言いながら自分の頬を思わず撫でる。いつもよりもしっとりとしていて、程よい弾力。触れている手の感触から、確かに肌の調子が良さそうだと思った。


 ——敬太的に、ギリセーフってことか……?


 そうだとすれば、お泊まりデートの時、敬太が起きる前に化粧をして、髪の毛を整えていたわたしが滑稽に思える。無理をして武装しなくてもそのままのわたしで良かったということだ。そう思うと、なんだか心が弾み、「うふふ」と声が漏れた。


「てか、美咲?」と呼ばれ、「ん?」と、笑顔で敬太を見る。


「なんでそこに突っ立ってんの?」


「こっちおいでよ」と、バフバフと布団を手ではたき、わたしを呼ぶ敬太は満面の笑みで、その顔を見て、ああそうか、と、思い出す。敬太は窮屈な家庭を抜け出して、わたしとの時間を楽しむために、ここに来たのだと。結婚している敬太にとって不倫とは、きっとそういうものなのだ。


 ——メイクの有無にかかわらず、できればいいってことなのか……?


 なんだか少しもやっとする気持ちは一旦横に置いて、敬太の横に寝転がる。午後からすることを昼下がりの情事と言うならば、まだ午前中の今は、昼上がりの情事というのだろうか。兎にも角にも、お風呂に入っていないのが気になりつつも、お楽しみの時間を刺激的に満喫した私たちは、午後二時をすぎた頃に、ようやくピザを食べた。





 








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