episode2_3
敬太の家は川の向こう。わたしの家までは車で三十分もかからない。となると、今からお風呂に入って髪を乾かせばちょうどいい時間になると思った。
——あ、でももう少し時間に余裕があるか。美味しいもの買ってくるって言ってたし。てことは、お昼はそれを食べればいいってことだよね。
「ふふふっ」と笑みが漏れる。ひとりの週末。寂しい時間は小説を書くことに没頭して過ごせばいいと思っていたのに、敬太と昼から一緒にいれるだなんて。昼下がりの情事、と脳裏に浮かび、それもなかなか刺激的な気がした。明るい時間からこの部屋の中、二人きりで——。
——ダメだって、そんな想像したら。それに愛犬が死んじゃったなんて、奥さんもお気の毒。でも……。
愛犬を亡くし、夫を寝取られ、奥さんには申し訳ないけれど、これが現実。
そう思うと、「ふふふっ」とまた柔らかい吐息が漏れる。小さくガッツポーズをして「勝った」と呟くと同時に、チクリと少しだけ、胸が痛んだ。良心の呵責。きっとそういうのが心に針を刺した痛みだ。
長年一緒に暮らしていた愛犬を亡くしたことはきっとお辛いはずだ。それを喜ぶなんて。心がチクリとした分だけ、不謹慎だと思った。
それに——。
偶然とはいえ、あまりにもタイミングが絶妙で。わたしが無意識に書き進めたお話の設定通り、恋敵である奥さんの愛犬が死に、敬太がわたしのもとにやってくる。確かにわたしは望んでいた。週末に敬太がうちに帰ってきて欲しいと。だからといって、そんなことってあるだろうか。
——わたしが愛犬の名前をお話に書いたせいで死んでしまった、とか?
「いやぁ、ないない」と、独り言を言いながら掌をひらひら動かし、妄想を振り払う。
そんなこと、ありえない。それに、結婚する前から飼っていたということは十年近く生きていたはず。ただ単純に老衰で亡くなった日が、たまたま今日だったってことに決まっている。でも——。
自然と男の子の人形に目が行く。
布製の人形は座卓の上でちょこんと座っている。
可愛らしい男の子の、人形。
漆黒のタキシードを着た、人形。
その漆黒に視線が吸い込まれていくような感覚を覚え、ふらっと椅子から立ちあがった。人形を抱き上げ、顔を見つめる。手書きで書かれた大きな瞳が真っ直ぐにわたしを見つめているような気がして、「太郎くんがそうしてくれたの?」と、思わず声をかけた。
人形は何も喋らない。
でも——。
瞬間。
ずしっと両手に重力がかかった気がした。
「えっ」と声に出し、眉根を寄せると、頭の中で『そうだよ』と声が聞こえる。反射的に首を動かして部屋の中を見るけれど、部屋の中には誰もいるはずがない。
——でも、確かに今聞こえた気がした。『そうだよ』って。
「太郎……くん……?」
もう一度語りかけてみるけれど、やはり人形が喋るはずもない。
妄想が激しすぎて、聞こえた気がしたんだと思いつつも、じっとそのまま人形の瞳を見つめ続けていると、自分で書いた都市伝説の太郎くんが本当に人形の中に入り込んでいるような錯覚を覚えた。きぃんと耳鳴りがしはじめ、ぐらりと視界が揺れる。自分の意思が消え失せ、意識が身体から抜け出していくような、そんな感覚がした——。
・
肉体から離れ浮遊する魂となったわたしは別の次元に来たと、もうすでに知っている。
辺りは漆黒の闇。自分の身体の周りだけがほのかに光を発している。そのわたしの手の中に太郎くんがいる。公衆電話の太郎くんは、この人形の中にいるとわたしはもう知っている。だから太郎くんはわたしの願い事をなんでも聞いてくれる。
あはは。
うふふ。
聞こえる。
聞こえるよ、太郎くん。
ここにいるんだね。
そしてわたしの望みを叶えてくれるんだね。
あはは。
うふふ。
生贄の重さで違うんだね。
もっと、もっと、大きな存在を差し出せば、それだけ大きな望みも叶う。
そう言ってるんだね。
わかるよわかるよ。
太郎くん。
わたしにはその理由がわかるよ。
大事なものには重さがあるからね。
あはは。
うふふ。
わかったよ。
そうするよ。
もっと、もっと、もっと大きな存在を生贄に。
そうすればなんでも願い事が叶う。
あはは。
うふふ。
太郎くんは、ここにいる。
わたしはそれを知っている。
わたしはそれを知っている。
・
がくんっと膝が動き、ふっと我に返る。手には人形の柔らかい感触。耳にはエアコンの機械音が、ごぉぉっと聞こえる。人形を持ったまま、部屋に突っ立ってわたしは何をしていたんだろうか。
——太郎くんと話をしていた……?
「なわけないか」と独り言ちる。
こだわりの強い母親のせいで、空想癖が激しいのは今に始まったことじゃない。子供の頃は妖精や小人の存在を信じ切っていたし、母親が作った人形で一人遊びだってしていた。きっと、そういう類の妄想で、声が聞こえたような気がしただけのこと。そう思ったら、そういうことかと妙に納得した。
三十三歳にもなって馬鹿馬鹿しいと、人形を机に戻しながら時計を見ると、思っていた以上に時間が過ぎている。おかしい。さっきの敬太の電話から、そんなに経ってないはずなのに。三十分も過ぎている。
それに——。
なんだか頭の中で、さっき読んだ『公衆電話の太郎くん』の続きが浮かび始めている。今頭の中で浮かんだアイデアは、【公衆電話の太郎くん呼び出し方法】、その設定に『生贄についての説明』を追加するというアイデアだ。
——生贄として名前を言う生き物。その命の重さで願い事の大きさも変わる。その方がもっとホラーな感じになることない?
「わたし、天才かもしれない……」
思わず目を見開き、「わたしは、なんていいアイデアを思いついてしまったのか」と、自分を褒めながら急いで椅子に座る。ノートパソコンを開き、起動ボタンを押して、小説サイトにログインすると、『episode2』の下書きをクリックした。【公衆電話の太郎くん呼び出し方法】が箇条書きされているところまで急いでスクロールする。
「はやく、はやく、もうっ!」
趣味で小説を書いていることは、リアルな知り合いは誰も知らない。だから敬太がインターフォンを鳴らす前に、書き終えなくてはいけない。はやくしないと、敬太が来てしまう。それに、思いついたアイデアが消えてしまいそうだと、気持ちばかりが焦り、指が
「えっと、えっと、ここに、注意書きとして書けばいいのか、あ、いや、それだとおかしい? あああ、いい。今は下書きだから、メモでいい。メモメモ。えっと——」
メモを打ち込む音が、聞いたことのないようなスピード感でパシャパシャと手元で鳴る。句読点なんて気にしない。とりあえず、後から読んで分かりさえすれば——。
『生贄にするものの、命の重さ、で、願い事の大きさが変化する。大事なものを差し出すほど、大きな願いが叶う』
「とりあえず、こうやって書いとけばいいや」と、声に出したところで、文字を打ち込んでいる間中、全く息をしていなかったことに気づいた。肺にたっぷりと空気を吸い込み、「はぁ〜」と大きく息を吐くと、体内に酸素が充満して、やっと落ち着きを取り戻す。この先は、敬太が帰ってから書けばいい。夜には自宅に帰っていくはずだ。
——帰ってから。
家庭に帰らないでずっと一緒にいて欲しいと願うくせに、敬太が帰ってからしかできない、やりたいことがあるだなんて。わたしも矛盾している。そう思ったところで部屋のインターフォンが鳴った。
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