episode2_1

 耳元の振動音。繰り返し流れる鬱陶しい音楽。なにも見えない暗闇の中からぼんやりと脳内に光が差し込み、「ん……」と声が漏れた。手で頭の周辺を弄りスマホを探す。ブルブル震える硬い物体。こいつがわたしを起こしたんだと怒りを込めスマホの画面を何度も指で叩くと音が止んだ。額に皺を寄せ無理やりに重たい瞼をこじ開ける。ぼやける視界に現在時刻を知らせる数字が入り込んだ。


 ——7:10……?


「うそっ!」と跳ね起き、数字の下に出ている日付と曜日を見て、今日が土曜日だったと気づく。「はぁ〜、今日休みじゃん」と、大きな独り言を言ってからばたりと床に寝転んだ。


 ——あれ……? 


 なんでわたしはベッドではなく、カーペットの上で寝ているのだろうか。それに妙に身体が重い。昨日の夜は確か、と思い出しかけて、はっと身体を起こした。


 ——そういえば昨日、公衆電話の太郎くんを試してみようって思って、それで、えっと、それで、なんだっけ……?


 小説サイトのコンテスト用に自作した都市伝説『公衆電話の太郎くん』を書くにあたり、触ったこともない公衆電話の感触を知りたくて、深夜に公衆電話を探したところまでは覚えている。でも——


 ——緑色の公衆電話を見つけて、それで、自分のスマホに電話して、で、家に帰ってきてから……


 なんだかその辺で記憶がプッツリと切れている。仕事から帰り、『公衆電話の太郎くん』の設定を書き上げるために夜更まで起きていた。それからふと思いついての深夜の公衆電話探し。結構長い時間、車であちこち徘徊して、緑の公衆電話を見つけたのが二時半くらいだっただろうか。それから自分のアパートに帰ってきて疲れてそのまま床で寝てしまった、ということなのだろうか。


 ——そういうこと、なんだろうな。だって現に床で寝てたわけだし。


「はぁ〜あ〜」こんなところで寝ていたらそりゃ身体も凝り固まるわけだと腕を伸ばし、気の抜けるような声を出した。肩を上下に動かし身体を捻ると自然に視線が動き、自分が寝ていたであろう場所に黒っぽいものが見える。


 最近ネットで見つけて購入した男の子の人形が床に転がっている。位置的に見て、わたしが寝ていた横にあるということは、人形を抱いたまま寝てしまった、ということなんだろうかと思い至って、それはないだろうと思い直した。


 ——人形を抱いて寝るなんて、そんな歳じゃないって。


 それにしてもと、人形を手に取る。


 この人形をネットで見つけたことで都市伝説、『公衆電話の太郎くん』のお話を思いついた。あんなに何にもアイデアが浮かばなかったのに、この人形が自宅に届いて、手に取った瞬間に閃いたのだ。


 可愛い男の子の人形。誰かが作ったこの人形は布製の柔らかい手触りで、どことなくリアルにできている。どことなくリアル、と思うのは、その表情のせいかもしれない。肌色の布でできた顔には目鼻立ちがしっかりとわかるように凹凸があるし、唇は何か話しかけてきそうに少し開いている。それに、手書きで書かれた大きな瞳がじっとこちらを見つめているような気がする。そんな黒髪の、黒いタキシードを着た幼い男の子の人形。


 この人形を見つけたのは、予定がポッカリ開いた週末に缶ビール片手にネットサーフィンしていた時だった。先週の金曜日のことだ。


 現在泥沼不倫中の彼氏、敬太けいたが急に家に来れなくなり、むしゃくしゃしたわたしはコンビニで買ってきた缶ビールを飲みながらパソコンを開いた。「嫁とはもう完全に冷え切ってる。別れて美咲と一緒になりたい」なんて言葉を信じてもう五年。「子供がいるから簡単には別れられない」と聞いて、もう、三年。


 二十代後半からのこの五年間、不倫という危険な関係を楽しみつつも、そろそろ本当に結婚してもらわなくては困ると焦る自分がいる。今年で三十三歳。いい加減、家庭に入りたい。専業主婦になりたいと思うのはおかしなことだろうか。


 地元中小企業に勤める商業高校卒の正社員。

 製造業の事務職はさほど面白い仕事でもない。

 そんな会社で出会った敬太。

 敬太は取引先の営業マンだった。


 敬太の会社から発注される仕事は自動車関係の金属部品で、わたしはその受付業務をしていて彼に出会った。背の高い見た目のいい男。県内では有名なバスケの強豪高校出身で、色白な上に顔立ちがドストライクだった。好きな俳優さんに顔が似ていたのだ。何度か事務的な話だけを交わしているうちに食事に誘われ、ちらりと左手を見ると指輪が光っていた。


 不倫。

 いけない蜜の味。

 誰かの大事な人を寝取る行為。


 なんだかそういうものに心惹かれた、二十八歳のわたし。母親と住んでいた実家を出て、ちょうど一人暮らしになったタイミングのわたしは、その危険な香りに誘われた。母親に束縛された子供時代を経て、高校時代から自由になったと思っていても、それはささやかな自由で、母親に言いたいことが言えるようになったわけでもない。このままでは良くない。これ以上は限界だと家を出たのがちょうどその頃で、心に羽が生えていたのだと思う。


 つきあい始めたのは、食事に誘われたその日からだろうか。曖昧な関係はいつからが他人で、いつからが恋人なのか、区別がつかない。


 何度目かの夜を過ごし、共通の趣味がホラー映画鑑賞だと分かってからは、わたしの家でよくホラー映画を見た。怖い怖いとキャーキャー言いながらわたしの家でホラー映画を鑑賞し、その流れで激しくお互いを求めあう。何度か温泉旅行にも行った。不倫で温泉旅行。いかにもという感じだ。そんな危険な、不倫という背徳感のある蜜の味を楽しむだけで良かったはずなのに——。


 いつからか、自分の居場所を求めている。

 自分の、安心できる居場所。

 それを敬太との家庭に夢見ている自分がいる。


 でも——。


 結局彼は口先だけでわたしと結婚の約束を交わし、一向に奥さんと別れる気配がない。不倫とは、きっとそういうものなんだろうと思いつつも、心の奥底で煮えたぎるどす黒い塊を自分自身で感じている。


 あの先週の金曜日の夜も、本当はわたしの家に泊まるはずだったのに、彼は急用ができたからと電話をよこし、あっちの家に帰って行った。そんなむしゃくしゃした夜の、ネットで見つけたこの可愛い人形に、わたしは心が惹かれた。


 オークションサイトに出ていたこの人形。作者は誰なのか知る由もないけれど、きっとその人は心を込めてこの人形を作ったんだと、わたしは思う。


 布製なのに、縫い目がどこにあるか分からないほど綺麗な手作業。抱き抱えると程よい弾力なのも、愛しい。それに、この人形が届いた日、わたしは『公衆電話の太郎くん』を思いついた。なんでも願い事を叶えてくれる『公衆電話の太郎くん』という都市伝説。もしもそんな都市伝説があったら絶対に人生を大逆転してやると空想して書き始めたお話は、まだネット上には公開していない。実際に公衆電話を触り、よりリアリティある作品にしたいと思ったから——。


 ——それで家から車で出かけて、公衆電話を見つけてからの記憶がやっぱりないんだよなぁ。


 人形の顔を見つめ、「太郎くん太郎くん、ようこそわたしの家へ」と、自作した都市伝説のセリフを呟くと、ふっと何か、思い出しそうな気配がした。


 なんだろうか。

 自作した都市伝説を試してみた、その先——。


「ダメだ、思い出せない。結局家に帰って寝ちゃったってことじゃん」


 独り言を呟き、人形を机の上に置いて「んん〜」と背伸びをしてから立ち上がる。まだ身体が睡眠を求めている気がする。トイレに向かい、用を足すと、硬い床ではなく、今度はベッドに潜り込んでもう一眠りすることにした。


 起きたら『公衆電話の太郎くん』のお話を書き進め、できたところまでネット上で公開し、コンテストに参加するボタンを押す。この週末は、どうせ一人きりなのだ。思いっきり空想の世界の住人になって、物語を書き進めよう。そう思った。


 むしゃくしゃとする気持ち、嫌な感情は物語を書いているときは忘れ去ることができる。それに物語の世界に入り込めば、時間はあっという間に過ぎる。


「と、その前に——」


 爪先の方向をパソコンが置いてあるデスクに向けて、パソコンの前に立つ。ノートパソコンを開き、どこまで書けたのかをもう一度確認しようと思った。眠りにつくまで、お話の続きを空想の世界で楽しもうと思ったからだ。


 ノートパソコンが起動し、小説投稿ページが画面上に現れると、マウスをスクロールして、書き進めた『episode1』の部分をクリックした。


 今書き進めたのは、『公衆電話の太郎くん』の冒頭部分と、【公衆電話の太郎くん呼び出し方法】についてのくだりだ。さも自分が体験したかのように書いた『episode1』。そうそう、こんな感じで公衆電話を探していたなと読み進め、おかしなことに気づいた。


「この内容って、わたしが書いたんだっけ?」






 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る