episode1_2
——ガタゴトッ
また、振動音と共に人形が揺れているような気がして目が離せない。ぐらっと空気が変な圧力の波を立て、目眩にも似た感覚が押し寄せてくる。すると、耳から聞こえると言うよりは、直接脳内に届いてくるような声でもう一度、自分で設定したセリフが頭の中に流れ込んできた。信じられないけれど、実際に聞こえてくるのだ。【公衆電話の太郎くん呼び出し方法】その⑧『男の子の人形に入り込んだ太郎くんが自分の名前を呼び、遊びましょとお誘いしてくれます』が、まさに、今——。
『美咲ちゃん、遊びましょ』と。
——妄想だ。聞こえるはずのないものが聞こえるなんて妄想だ。これは夢だ、夢に違いない。こんなこと実際に起こるはずもない。だいたい人形が揺れたのだって、きっとアパートの外をトラックか何かが走ったんだ。その振動で、人形が少し揺れただけ。そうだ、そうに違いない。ここ最近仕事も年末に向けて忙しくって頭がおかしくなっていたんだ。そこにきて趣味で書いている小説だ。十二月頭から始まったコンテスト。周りはどんどん新作を投稿してくるのに、自分はなんにも良いアイデアが浮かばない。そういう心の焦りもきっとストレスだったんだ。何もかもうまくいかないような気がして、それで、自分の願望を都市伝説のお話に盛り込んで——
『美咲ちゃん、遊びましょ』
また頭の中で声がする。でもきっとこれも自分で作り出した妄想の声。わたし自身、自分が納得するまで、わたしの名前が呼ばれる妄想をしているとすれば——。
だとしたら、この声は、わたしが自分で設定を書いた次のアクションを起こすまで繰り返されるのだろうか。次のアクション、【公衆電話の太郎くん呼び出し方法】その⑨、『男の子の人形に返事を返し、抱きしめる』をすれば、この脳内で再生される妄想の声は止まるのかもしれない。それに——
——現実なら現実でいい。
ふっとそんなことが脳裏をよぎった。
自分でも馬鹿げた発想だと思う。もしもこれが妄想ではなく、現実だとすれば、なんて思い始めるだなんて。でも——
もしもこれが現実ならば、その先のわたしはどうなるのか。
この先の設定を思い出すと、それはそれで現実であって欲しい気持ちも湧いてくる。わたしの自作した都市伝説『公衆電話の太郎くん』の設定通りであるならば、この後、太郎くんは『なんでも願い事を叶えてくれる存在』になるはずなのだ。
——本当に馬鹿げている。そんなこと起こるはずないのに。でも……。現にスマホは電源を切っていたけれど、公衆電話からの着信を受けた。いやそれも全部夢で、わたしの妄想……か。それでも……。
現実ならば、なんでも願い事がかなう人生が手に入るかもしれない。
口の中に纏わり付く粘着質の液体をゆっくりと飲み込んで、手に持っていたスマホを床に置く。スマホを手放した後の掌に汗がべっとりと滲んでいて、それでいて手は恐ろしいほど冷たかった。ぎゅうっと拳を握り、ゆっくり開いて両手を合わせ、その隙間にふう〜と息を吹きかけると、生温い感触が掌をすり抜けていき、現実味が一気に増した気がした。
なんでも願い事を叶えてくれる公衆電話の太郎くん。
なんでも知ってる公衆電話の太郎くん。
それがわたしが自作した都市伝説の設定。
これがもしも現実ならば、公衆電話の太郎くんはわたしを素晴らしい未来へと連れて行ってくれるかもしれない。三十三歳、独身。中小企業の事務員で取引先の営業マンと現在泥沼不倫中。どこかで自分の人生を変えたいと思いつつもダラダラと日常を過ごす毎日。唯一趣味で物語を書く時だけが現実逃避できる時間。物語の世界ではわたしは誰よりも強い存在、創造主なのだから。
だからわたしは物語を書くのが好きだ。
それに趣味で小説を書くようになったのは、ここ最近のことではない。昔から空想するのが好きだった。いや、好きというよりも、変にこだわりの強い母親の影響でテレビもゲームも漫画もないような家庭で育ち、ある時期まで空想の世界で遊ぶことを余儀なくされてきた。
駄菓子なんてとんでもない。無添加な食品しか食べさせてもらえない。子供会の集まりでも、周りの友達がカラフルなお菓子を食べているのを横目で見ながら過ごしてきた。
中学生の時、友達の家で出されたカップ麺を食べた時は、こんな美味しいものがこの世界にあるのかと驚いたほどだ。
ケミカルな味。
自然じゃない味。
もっと、もっとと、脳がその味を求め、わたしはこっそり母親の財布からお金を持ち出してカップ麺を食べた。あれは中学三年生になった頃のことだ。お父さんが家を出て行ってしまって、母親が仕事を始め、一人家にいる時間が増えたわたしは、事前にこっそり抜き取った小銭でカップ麺を買い、ひとり隠れて食べていた。
変なこだわりが強すぎて家庭を壊した母。
それが原因で仕事に行き始めた母。
笑うことが少なくなった、母。
そんな母親をさらに否定する、カップ麺。
あの麻薬のようなケミカルな味は思春期のわたしの心を支えてくれた。
それだけじゃない。
子供の世界は結構残酷で、みんなが見ているテレビ番組を見ていないだけでどこか邪魔者扱いされてきた。「美咲ちゃんには話してもわかんないか」なんて言われた時の疎外感。何気ない言葉は子供心に傷ついた。それを母親に訴えても聴いてくれることはなく、「そんな子と友達にならない方がいい」なんていう始末。ゲームだって高校生になるまでまともに触ったこともなかった。友達の家に遊びに行っても、みんなわたしにはゲームを貸してくれなかった。学校に噂が流れていたからだ。
——美咲ちゃんは気をつけた方がいいよ。あそこのお母さんすぐに怒鳴り込んでくるから。
同じクラスの中心的存在の女子、山口エリカちゃんがそうやってみんなに言いふらしたからだ。小学校四年生、生まれて初めてエリカちゃんの家でゲームをした日。その日の夜、うちの母親がエリカちゃんのお母さんに抗議の電話をした。
——うちの子はゲームもテレビもそんな低俗なもの、一切させていません。お宅もそういった子供の想像力を奪うような低俗な娯楽をお子さんに与えない方がいいですよ。
語気を強めエリカちゃんのお母さんに抗議する母親の声を聞きながら、私はリビングで漢字ドリルをやっていた。どんどん涙で滲んでいく漢字を書き取ったノート。ぼたぼたっとノートに涙の染みが滲んで、急いで拭き取ると紙がめくれて使い物にならなくなった。
悔しかった。
せっかくみんなと一緒に遊べたのに。
悲しかった。
みんなの話題についていけると思ったのに。
許せなかった。
自分の価値観が正しくてそれ以外は悪だと決めつける母親が。
許せなかった。
あまりにもこだわりが強すぎて、夫に捨てられてしまった、哀れな母親。
今でもテレビもパソコンもない、娯楽のない家で一人で住んでいるかわいそうな人。
思い返せば母親の、そんな変なこだわりがいつの間にか染み付いているような気がしている。潔癖症気味なところがあるのはきっとその染みのせいなのだ。
——あんな人の考えが染み込んでいるなんて、絶対に嫌だ。
自分の価値観を選択肢のない幼いわたしに押し付けて、窮屈な世界にずっとずっと閉じ込めてきた母親。
小人や妖精が住んでいる世界。
その中で育つ心優しい子供。
厳選された絵本と童話。
手作りの人形に、手作りのおやつ。
無添加の石鹸に、無添加のご飯。
刺激物は一切ない世界。
母は知らない。
わたしが友達の体操服から漂うフローラルな香りに憧れたことを。
わたしの体操服はどことなく曇った匂いがしていた。
母にはきっと理解できない。
本当のわたしは、駄菓子もカップ麺も、ゲームも漫画もテレビも、映画も、みんなと同じように求めていたことを。
だから自由を勝ち取った高校時代からわたしはずっとあの人を軽蔑して見ている。自分の信じる世界が正しいとわたしを抑圧してきたあの人は、娯楽を知らないつまらない人だと。
「ふっ」と呼吸が漏れる。なんで今母親のことを思い出したのか。
——ああ、そうか。空想が好きなのはお母さんのおかげだったってことか。馬鹿みたい。そんなこと、今更——
刺激のあるものを一切子供に与えない立派な母親。
わたしはあんな人になりたくない。
あんな凝り固まった価値観の人にだけは。
その反動からなのか、わたしはホラーやパニックなものが好きだ。そして、少し危険な恋も好きだ。ハラハラドキドキと心に刺激があるものが好き。それに、趣味でホラー小説を書いているのは、現実社会で気に入らない奴を不幸のどん底に陥れるためだ。物語の中ではわたしはいつでも創造主。どんな設定も、どんな理不尽な出来事もわたしの物語の中では成立する。気に入らない奴をモデルにした登場人物たちが自分の創造する世界で面白おかしく悲劇的な死を遂げていくのが面白くてたまらない。SNSで悪口を呟くよりも、もっともっと心がすっきりと晴れるのだ。
だから書いてみたのだ。自分の思うがままの都市伝説を。
なんでも願いが叶う公衆電話の太郎くんの都市伝説を。
——馬鹿げてる。でも、馬鹿げててもいい。
目の前の男の子の人形に向かってわたしは手を伸ばした。そっと抱き上げるとなぜなのか、少し温かい気がした。羊毛が詰まっているせいだろうか。それに、不思議とさっきまでの恐ろしいという感情が消えている。
もしもこれが現実ならば。と、もう一度自分に問い質す。
——わたしはこの先へ進む? それとも進まない?
答えはもう出ている。
本当じゃなくてもやってみるべきだ。
夢なら夢で、妄想なら妄想でいい。
試してみたい。
この先を。
男の子の人形を見つめ、わたしは【公衆電話の太郎くん呼び出し方法】その⑨、『男の子の人形に返事を返し、抱きしめる』を実行した。
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