2.新・給仕長候補
秀星が亡くなって一年半。
葉子は変わらずに大沼の湖畔で、毎朝唄っている。
結氷が溶ける湖から白鳥が飛び去っていく春先。雪解けの散策道に若草色の
例外もある。冬季だ。氷点下の朝は、かなり冷え込むため、冷気の中で唄うと喉を痛めてしまうのだ。
そんな時期は、早朝の湖と駒ヶ岳の風景を秀星の撮影ポイントから撮影し、葉子がその日その日のコメント音声を入れるライブ配信をする。レストランの休憩時に、ギターを片手に歌唱だけをライブ配信。朝の録画と唄の録画の二つの編集をして後日動画としてアップするようにしていた。
いま、そんな季節だった。もうすぐ白鳥が大沼に飛来する。大沼の湖面も結氷し、駒ヶ岳も冠雪、レストランの周辺も真っ白に雪に囲まれていた。
レストランはギリギリの状態で運営をしている。
厨房は変わらず父を司令塔に回っているが、ホールは葉子と新しく来たアルバイトの青年ふたりで回している。おこがましいが、ホールサービスの経験者が葉子しかいないので、いまは葉子がホールを指揮している。危なげな状態での接客、サーブ。なにかあれば、オーナーである父が厨房から出てきてフォローしてくれていた。
秀星から教わったことを最大限に生かそうと、葉子は給仕に没頭する日々を送っている。
オーディションに興味がなくなったので、実家家業の手伝いと、秀星の写真を紹介する動画活動に精を注いでいた。
前夜、しんしんと雪が降り積もり、また新雪に世界が包まれた十二月初旬。ホールでテーブルのセッティングをしていた葉子は、厨房から出てきた父に告げられる。
「来週、矢嶋社長の紹介で、給仕長の経験がある男性が面接を希望してやってくるってさ」
「え、矢嶋さんからの紹介!?」
「おお。なんでも、その男性が大沼で働きたいと言っているそうなんだ。合う合わないもあるだろうから、オーナーシェフである俺と面接して決めてくれってっさ」
この一年半、最初の弔問に来てくれてから、矢嶋社長は二ヶ月おきに、ほんとうに大沼に訪ねてくるようになった。
『今年は大沼の四季を堪能して、十和田シェフの四季の料理を楽しみますからね』――と、なにか狙いがあるのかと思えばそうでもないようで、ただ『フレンチ十和田』の食事を楽しみ、葉子の案内で大沼の散策にチャレンジしたりと、骨休めのようにしてやってくる。
その矢嶋社長が、給仕長がいない状態で一年以上営業していることを気にしてくれていたのも本当で、ついに『いいギャルソンがいます。メートル・ドテルの経験もあり、北海道への移住も了承しています。面接をお願いします。気に入らなければ、遠慮なくこちらへ返してくださって結構です』という連絡が入ったというのだ。
秀星さん以外のメートル・ドテル?
葉子にはしっくりこない。いや……彼以外の給仕長なんて考えられない。もちろん、プロの給仕長に来てもらわねば、父にも葉子にも負担がかかり『フレンチ十和田』の質もあがらない。
わかっているが、それでも秀星以外の給仕長が、まったく同じような給仕長になどなるはずもなく、店の雰囲気が変わったり、葉子自身も合わせずらい上司になったらどうしようという不安が渦巻いた。
もっと自分が出来る『セルヴーズ、サービスマン』だったら、自信を持って『お父さん、娘の私にホールを任せて』と言えるのに。秀星がどれだけ一流の仕事人だったかわかっているだけに、葉子などまだまだ素人レベルだと身に染みている。このままではいけないのだ。
「どんな男がくるんだろうな~。矢嶋さんは『まあ、会ってみてください』としか言ってくれなかったんだよ。そのギャルソンがさ、採用不採用にかかわらず、大沼のレストランを見に行きたいと言い張っているらしくてさ」
「二ヶ月に一度は食事に来てくれるようになった矢嶋さんから、なにか聞いて、影響を受けた人なのかな」
「かもなあ~。秀星のような一流の男を知ってしまうとなあ、ちょっとなあ、それ以外のメートル・ドテルで満足できるものなのかってさ。まあ、そんなこと言ってられないんだがよ」
白いコックコート姿の父が、顎を片手でなぞりながら『ううむ』と唸っていた。
父も葉子とおなじ気持ちでいると知って、幾分かほっとしたのだった。
---☆
雪がしんしんと降る日々、葉子も父の政則も、悶々とした一週間を過ごした。
面接当日がやってきた。
ふんわりとした牡丹雪が静かに降っている午後だった。
矢嶋社長から聞いていた予定の時刻が近づいてくる。
昼下がり、ディナータイム準備時間、従業員用玄関のチャイムが鳴った。
父は厨房でディナーの下準備中だったため、ホールの準備をしていた葉子が出迎える。
『篠田という男が行きますから』
矢嶋社長からそう伝えられていた。
インターホンに出てみると。
『篠田と申します。面接を申し込んでいた者です』という男の声。
葉子は玄関を開けて迎え入れる。
「いらっしゃいませ。オーナーがお待ちです」
矢嶋社長から聞いていた『篠田』という男が、ついに到着。
葉子はギャルソン制服で、約束の時間にやってきたその男を迎え入れる。
自信に満ち足りた眼を持った、キリッとした佇まいの大人の男だった。
北国特有の『風除室』がある玄関から、室内へ招き入れようとしたときだった。その男は葉子をひと目みて、きらっとした笑顔を浮かべると、大胆に大きな一歩を踏み出して近づいてきた。葉子の鼻先に、彼の鼻先が間近に迫ってきたので後ずさったほどだ。
「ハコちゃんでしょ」
秀星以外に『ハコちゃん』と男性に呼ばれ、葉子は硬直する。どこでその呼び方を知った??
だがこの頃になると、唄う動画配信と、秀星の写真を日々アップしているので『ハコ』という名はかなり広まっていた。雑誌取材も増えた。受けるのはただ秀星の写真をたくさんの人に見て欲しいからだった。
そのせいで、そう呼ばれることには驚かない。だが、秀星が優秀なメートル・ドテルであったこともインタビューで伝えてきたが、上司と共に『ハコ』が働いていた店はどこにあるのかは極力知られないようにしてきた。だから、仕事をしているここで名を呼ばれ、何故と警戒した。
男はさらに、にかっとした屈託のない笑みを見せる。
スマートフォンを取り出して、SNSのアプリを開いた彼が、とあるアカウントを見せてくれる。
「俺、ダラシーノです」
ダラシーノ。その名を聞いて、葉子はさらに驚愕する!
見覚えあるアイコンのアカウント、ポルシェのアイコン。
そして彼がフォローしているのはふたつだけ。
秀星の写真アカウントと、ハコの動画配信と秀星の写真をアップをするためのアカウントだった。
「蟹を送ってくれなくて、怒っていた……あの……、神戸の……、秀星さんがいつも、連絡していた?」
秀星が常にスマートフォンで会話を楽しんでいた、あの後輩!? 葉子は吃驚する。
「そう。俺だけが秀星さんの写真に『いいね』をしている唯一のファンだったのに。すごいね。毎日何千、時に何万の『いいね』になっちゃって」
「え、え……どうして……」
秀星からは『後輩の彼は、僕のあとメートル・ドテルを引き継いでくれたんだ』と聞いている。え、矢嶋社長のレストランで勤めていた給仕長の地位を、秀星のように捨てて来たってこと!? 葉子はそこまで気がつき、言葉を失い、彼に言葉をかけることができなくなった。
そんなときになって、篠田が哀しそうに眼差しを伏せた。
「忘れられなくてね。あの人のことが。ここで生きていたあの人を知りたくて。あの人が話していた『ハコちゃん』にも会いたくて、先輩が夢中になった『フレンチ十和田』さんのことも、知りたくなってしまったんだ」
「秀星さん……と、私のこと……を? 秀星さんが私のことを話していたのですか?」
「大事に育てたいと言っていた。途中だろ。俺が仕上げてやるよ」
「え……」
「大丈夫! 俺ってば、秀星先輩の後輩よ。間違いなし! 徹底的にやりますとも!」
なにこの人。なにこの自信満々で、図々しそうなの。
葉子の第一印象はそれで、穏やかでクールな上司だった秀星が史上最高の師匠だったので、酷い拒絶反応が起きた。
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