僕と悪魔と父親と。

かげのひと

僕と悪魔と父親の話。


 また殴られた。

 誰にって? 父親にだよ。

 僕の目が気にくわないのだと、父親はすぐに僕を殴る。

 しかも最悪なことに、母親の名前を呼びながら僕を殴るんだ。

 母親はどうしたって? 知らないよ。

 こんな父親の元に僕を置いて出て行った母親のことなんて知るもんか。


 仕事から帰ってきた父親の雨のような暴力に、僕は亀のように身体を丸めてただただ耐えた。

 攻撃のほとんどは平手打ち。顔は大体殴られない。

 けれど、この日は父親の機嫌が悪かったみたいだ。僕の腹に重たいローキックが炸裂した。肋骨の下につま先がめりこんだ感触に、思わず息が出来なくなる。

 自然と涙が込み上げてきて、「おぇ」と嘔吐えずく。

 けれど、それ以上声は出さなかった。

 歯を食いしばって、辛抱強く耐えた僕を誰か褒めてくれ。


 そのうちに、いい加減飽きたのか、それとも疲れたのか、父親は台所へと消えていった。

 乱暴にシンクの扉を開ける音がする。

 どうせいつもの4リットルの焼酎を飲みはじめるのだろう。さっさと飲んで寝てしまえばいい。

 そうだとも、なにせ大好きな酒を飲めるのは今日で最後なのだから!


 僕は重たい体を引きずって、押し入れの中に隠れた。

 懐中電灯のスイッチを入れて、光源を確保する。

 ランドセルの中に隠しておいた表紙も背表紙も真っ黒な本を取り出すと、あらかじめ付箋を付けていたページを開く。

 友達に借りた悪魔を召喚する方法が書かれた本だ。

 僕はまたランドセルの中から、用意しておいたイケニエ取り出す。学校で捕まえたカナヘビとカナブンだ。本物の蛇も、飛んでる鳥も捕まえる事が出来なかったから、似たような物を捕まえたんだ。

 ガチャガチャのカプセルに入ったままイケニエを並べる。

 あとは、と、僕は筆箱からカッターを取り出した。

 自分の血で、この本に書かれている魔方陣を書かねばならない。

 父親に殴られた時に鼻血でも出ていれば、それを使うことも出来たが、アイツは僕の顔を絶対に殴ったりしないから、仕方なく指にカッターを滑らせた。

 プツリ、と赤い玉のような血が指先に乗っかる。

 さて、間違えないように慎重に、けれど血が乾かないように素早く、これを足元に書かないと。

 広げた足の間に円を描く。

 幸いな事に見たままを書くことはけっこう得意だ。

 見たこともない文字が円の周りに並ぶ。

 少しがたつきはあるが、出来映えは、まぁまぁだろう。

 僕は満足して、頷いた。


 さぁ、あとは呪文だ。

 アニメの技名を叫ぶのと大差ない。僕は隣の部屋で飲んだくれている父親に聞こえないように細心の注意を払いながら、親切にもカタカナでルビが振られている呪文を読み上げた。

 途中、キーンと突然耳の奥が鳴る。まるでエレベーターに乗った時みたいだ。

 あまりの不快さに、ギュッと目を強く閉じ、唾を飲み込んだ。

 不快感がぬぐい去ったところで、目を開くと僕の足の間には小さな人間のようなものが立っていた。

 僕は驚いて、立てかけていた懐中電灯を手に取り、照らし出した。

 ソイツは眩しそうに目を瞑ることもなく、ニコニコと笑っていた。

 父さんが会社に着ていく時のようなスーツに身を包み、音楽の先生のような優しそうな笑みを浮かべている。黒髪は頭に撫でつけ、一部の乱れもない。

 途端に僕は自分のボロボロの恰好が恥ずかしくなった。


「やぁ」


 低くけれど耳に残る声で、それは言った。


「はじめまして召喚主。私は悪魔です。あなたの幸福を代償に願いを一つ叶えましょう」


 明瞭簡潔。それが自分のモットーだと悪魔は笑う。

 だから、僕もたった一つの願いを口にした。


「父親を殺して」


 この先この父親がいる限り、僕の幸福なんてあるはずもない。

 僕の熱のこもった真摯なお願いに、悪魔はニヤリと笑って、指をパチンと鳴らした。

 するとどうだろう。

 ガタンと押し入れの外で大きな音がした。僕は思わず台所の方向に振り返り、はやる気持ちを抑え襖に手をかける。

 転がるように部屋に飛び出すと、大の字になって床で倒れている父親がそこにいた。

 これで僕を殴る奴が消えて無くなった。ああ。嬉しい。嬉しい。最高の日だ。

 僕は父親に駆け寄る。無論、息の根が止まっていることを確認するためだ。

 よれよれのTシャツ。酒臭い息。だらしない口元からは工事音のようなイビキ。


「え?」


 生きてる。

 生きてる。なんで?

 僕は後ろの悪魔を見た。悪魔は笑う。


「ええ。貴方の父親はちゃんと死にましたよ」


 と。

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