第138話 貴方の隣が
side石竹琥珀
重たい瞼を持ち上げると、目の前にぼんやりと春川さんが見えた気がした。
「かわいいなぁ」
「先輩?」
幻覚だけじゃなくて幻聴まで聞こえる。恋愛をこじらせた結果がこれとか、全くダメダメだ。普通に付き合って結婚して。そういう未来を未だに思い描いているなんて、馬鹿みたいだ。
なんとなく泣きそうになったけど、ふと顔の横にふわふわした温かいものがあることに気が付いた。白いからサクラのしっぽかなとも思ったけど、サクラの匂いじゃない。どちらかと言うと、ネコたちの匂いに近いかな。
でもネコで白いとなれば餅雪だ。餅雪は俺のことを毛嫌いしているし、触れるどころか半径三十センチ以内に入ることすら警戒されているんだからあり得ない。
春川さんと餅雪に囲まれる夢。夢でしかないけれど、幸せなことに違いはない。
「春川さん、餅雪……」
手を伸ばして、春川さんの幻影と餅雪の幻影を撫でる。サラサラの髪、ふわふわの毛並み。やけにリアルな感触だけど、実際にこんな感じなのかはいつか触らせてもらいたいな。
「ちょ、先輩……」
春川さん、恥ずかしそう。赤らんだ頬も愛らしい。やっぱり俺は、この人のことが。
「好き、だな」
「うっ、も、もう! 起きているなら起きてください! 寝言ならたちが悪いです!」
その言葉と同時に春川さんの手が俺の顔に伸びてくる。叩かれるかも。でもどうせ夢なら痛くない。あ、餅雪のしっぽ。もう触れさせてくれるなら何でもいいや。
バチーンッ、ぽふっ。
「いったぁ……あ、ふわふわ。え、現実?」
慌てて身体を起こすと、白い影が机の向こうにピョンッと走り去ってしまった。だけど机の脚の影から俺の方をチラチラと覗いてくる。夢でもなんでもなく、餅雪だ。つまりあれが餅雪の手触り。いや、どこからが現実だろう。
餅雪が現実ということは。俺の隣に座っている人。それは紛れもなく、珍しくあわあわと慌てている春川さんだ。
「春、川さん」
「す、すみません。おでこ、痛くないですか?」
「うーん、音の割には平気だな」
少しだけヒリヒリするおでこに触れることなく笑いかける。勢いは良いのに気にしいだから。ちょっとでも気にする素振りを見せたら困らせてしまう。そんなことは望んでいない。
「傍にいてくれたんだ」
「先輩のピンチですから。できる限りのことはしたくて」
春川さんはそう言って幸せそうに笑った。春川さんが幸せだと思うならそれで問題ない。
「ありがとな」
「いえ。先輩、寝不足の自覚はありましたよね?」
「うーん、あったね。でもこれは毎年のことだし」
春川さんの真剣な声に、思わずのらりくらりとした返事をしてしまった。村の風習の嫌なところに言及するのは昔から苦手だ。
「毎年体調を崩しているんですか?」
「うーん、まあ、そうだね。でも期間中に倒れたのは久しぶり。高校生とか大学生のとき以来だな」
昔は眠気と戦うことに苦労した。だけど本格的に世話係の仕事を父さんたちから引き継いだあとは、緊張感が後押しして期間中には眠くなることも倒れることもなくなった。その期間が過ぎれば倒れてしまうけど。
「無理をしないで、と言っても先輩は無理するんですよね」
「んー、無理をしてるって自覚がないからな」
だけど今この瞬間は力が抜けている。なんて言えないな。困らせるだけだ。でも、力が抜ける。そのワードでふと気が付いた。
「そういえば、今年はサクラが俺の仕事を手伝ってくれてたからな。寝られないけど休めるって時間ができると身体がふらつくことが多かった」
「少しは気が抜けたんでしょうね。その時間に仮眠でもしていれば少し違うんでしょうけど、それができるほど緊張が解けてはいなかったんですかね」
「かもな」
春川さんは俺以上に俺のことを分析してくれる。村の人の前で弱いところは見せられないけど、春川さんには全てを曝け出せる。全てを知って欲しいと思う。
「琥珀さんが落ち着ける瞬間ってどんなときですか?」
「どんなとき、か」
昔は部屋で一人になったときだった。だけどそれでもやるべき事に追われていれば休まらなかった。俺の安息の地なんて、どこにもないと不安に思っていた。
「春川さんの隣。あ、なんてな。冗談だ、冗談」
つい漏れた言葉を慌てて否定した。傍にいられれば良いなんて思えなくなった愚かな男だと知られたくない。
「部屋で一人でいると落ち着けるよ。あとはサクラと話しているときとか」
慌てて口を動かす。そうだ、俺はサクラと一緒にいても落ち着ける。ほんの少し気を張ってしまうけど。だって俺はサクラを守らないといけないから。俺と一緒にいるときにサクラの身に何かあれば、俺は自分が許せない。
「あの」
春川さんの澄んだ瞳が迷いながらも俺を見つめる。俺は話すことを止めて春川さんに向き直る。
「私は先輩と一緒にいると落ち着きます。先輩は一人のときとかサクラさんと一緒にいるときの方が落ち着くかもしれないですけど」
春川さんは少し拗ねように頬を膨らませる。その仕草すら愛おしい。
「なので私が落ち着けないときは、先輩の傍にいても良いですか?」
「もちろん、良いよ」
春川さんは素直だ。俺が迷っていて言葉を飲み込むときも、春川さんは迷いを言葉にして解決に持って行ける人。そういう強さには憧れる。
「その代わり、今、俺が寝るまで傍にいてよ」
「起きるまで傍にいます」
春川さんはそう言って微笑むと、横になる俺を支えてその隣に足を崩して座った。
「ありがと」
「いえいえ」
春川さんの笑顔を見ると安心する。その笑顔を瞼に焼き付けるように目を閉じた。
「ニィ」
餅雪の鳴き声と立ち去る足音。おでこに触れる春川さんの手のひらの温度。それを最後に意識が薄れた。
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