第117話 夏と冬
聞き出すようなことをしてしまっても良いのか悩む。だけど同時に、知りたいと思った。ツバキさんもこの村の住人だから。辛いと思うことをボクに吐き出して欲しい。それでもしもボクに力になれることがあるなら力になりたい。
「ツバキさん、ボクの前では無理はしなくて良いですよ」
ツバキさんをジッと見つめながら、ボクの気持ちが伝わるように願いを込めながら言葉にする。ツバキさんはボクの方を振り向くと、大きく目を見開いていた。その目がスッと弧を描くように細められる。
「ふふっ、どうしてそう思ったのかな?」
微笑んでいるように見えて、上からさらに固い殻を被ったようにも思える。ツバキさんの細められた目の奥では探るようにボクを見ている。少し緊張してきた。
「ツバキさんが、大丈夫じゃないように見えたから、です」
ツバキさんはボクの言葉の意味を考えているようだった。ボクも上手く説明することができないけど、他にも何か良い言い方がないか考えた。けれどボクが思いつくよりも先にツバキさんが長く息を吐いた。
「お稲荷様の眷属というのは本当に凄い力を持っているようだね」
今はお稲荷様の力を使ったわけじゃないけれど、お稲荷様の力を借りていることで普段から感情が読みやすくなっている可能性はある。よく分からないところだからボクには何とも言えない。
とにかくツバキさんが固い殻から少し顔を覗かせてくれていることが分かったから、今はそれだけで良い。
ツバキさんの目がボクから逸らされる。そしてまた火に視線を移す。ツバキさんの少し明るい瞳の中で炎がチリチリと燻った。
「僕はね、昔から医者になりたかったんだ」
「お医者さんですか?」
「うん。医者って人の人生を未来に繋ぐ仕事でしょう? 僕も昔怪我をした時に未来を開いてもらった経験があってね。自分もそんな仕事がしたいと思ったんだ。だけどそれが難しい事情があってね。その事情がどうしても克服できなくて、医者になる夢は諦めたんだ」
ツバキさんは寂しそうに笑うと、思い出したように立ち上がって鍋をグルグルとかき混ぜ始めた。背中から悔しさと悲しさが滲み出ていて、ボクは言葉に詰まった。
「医者を諦めて、他に誰かの人生を未来に繋ぐ仕事って何があるかなって思った時に選択肢の一つに教師の道があったんだ。昔から理科が好きだったことは本当だよ? だけど今の仕事に就いていることに心から満足しているかと言われれば、それは簡単には頷けない」
ツバキさんの事情も今の気持ちも、正確に分かってあげることはできない。だけどその背中を押したいと思う。ツバキさんにも心から笑って欲しい。
「あの、ツバキさんの授業は理科のことを勉強するための授業じゃなくて、理科のことを好きになってもっと知りたくなる授業だと聞きました」
ボクの言葉にツバキさんの手が止まった。振り返りはしないけれど、話を聞いてくれていることは分かる。
「トモアキさんはツバキさんの授業を受けて、理科が大好きになったそうです。だから今も理科の勉強をしていて、大学でももっと勉強するって言っていました。だから、少なくとも、ツバキさんは誰かを未来に導く仕事をしていると思います」
トモアキさんは就職には悩んでいるけれど、もっと学びたいことに対しては迷いがない。それはその分野のことを心の底から楽しそうに話す人が身近にいたからだ。
ボクにはトモアキさんが好きな分野の話が全然分からない。だけどその話をするトモアキさんがとても楽しそうで、羨ましいくらいうきうきしていることは伝わってくる。
「そうですか。ふふっ、トモアキくんがそんなことを」
ツバキさんの少し明るい瞳で燻っていた炎が揺らめいた。
「そうですか、そうですか」
ツバキさんはふふっと笑いながら何度も何度も頷いた。ボクの言葉を噛みしめているように見える。とても嬉しそうで、固い殻はもう破れているみたいだった。
「サクラくん、ありがとうございます」
ツバキさんは口元に手を添えてニヤつく顔を隠そうとしている。だけど目がいつもの探るようなものではなくて、ただただ喜びの色を浮かべている。こんな顔は初めて見た。
「サクラくんは本当にお稲荷様の眷属に適任だね」
「そう、ですか?」
「うん。僕はそう思うよ。だって……」
「わぁ!」
突然誰かがツバキさんの話を遮るように茂みからバァッと飛び出してきた。ボクは驚いてギュッと目を閉じた。
「ふふっ、びっくりしたなぁ」
ツバキさんの楽し気な笑い声を聞いて恐る恐る目を開けると、シヨウさんがニパニパと笑いながら立っていた。
「シ、シヨウさん……」
「わわっ! サクラくん、驚かせてごめんなさい」
「い、いえ! 大丈夫です」
「全く、冬木くんは元気ですね。それで、どうしたのかな?」
ツバキさんが問いかけると、シヨウさんは恥ずかしそうに頭を掻く。そして手のひらをジッとながらそこにある何かを擦った。
「実は、大根締めの飾り付けを手伝っていたんですけど、移動中にうっかり転んでしまって。その時に怪我をしてしまったのですが、社の救急箱に絆創膏がなくて。琥珀くんに色守荘で手当をして来いと言われたんです」
「ま、まさか……」
「そうなんですよ。血がべっとりで」
珍しく視線を彷徨わせるツバキさんに、シヨウさんはパッと手のひらを見せた。
「きゃぁぁぁぁっ!」
その瞬間、甲高い悲鳴を上げたツバキさんは、そのままふらりと倒れてしまった。
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