第115話 小さな失敗
どうにか全ての卵を割り終わって、今度ははんぺんと卵を混ぜ始めた。大きな泡立て器で卵の黄身を一つずつ潰して、それからグルグル混ぜる。
あんなにふわふわなはんぺんと、片手で持てるくらいの卵しか入っていないはずなのに凄く重たい。命の重さを感じながら力いっぱい、だけどボールから零れないようにゆっくり慎重に混ぜていく。
卵の白身がなかなか混ざらなくて大変だけど、とろとろにしないといけないから手は止めない。
「美味しくなぁれ、美味しくなぁれ」
彩葉さんが教えてくれたご飯が美味しくなる愛情の呪文を唱えながらたくさん混ぜる。するとそのうちにはんぺんと卵が混ざってきて、泡立て器も少しだけ軽くなった。別に命の重さが軽くなったんじゃなくて、美味しくなる準備ができたってこと。食材にも心の準備は大事なんだと思う。本当の食材の気持ちは分からないけど。
命の重さは実際の重さじゃなくて、想いの強さで決まるもの。大切に想われるものほど命の重さは重たくなる。だからみんな、種族に関係なく命は尊い。
ボクが小さい頃にいなくなってしまったゴゴさんがそう言っていた。ゴゴさんは昔山の中で暮らしていて、たくさんの子どもがいたらしい。研究所の中でもいつでも子どもたちの身を案じるような優しい子で、ボクのことも可愛がってくれた。
言っていたことは難しくて今でも分からないことも多いけれど、ゴゴさんの優しい眼差しだけはずっと覚えている。
「サクラ、どんな調子ですか?」
昔のことを思い出しているときに声を掛けられたものだから、驚いて肩が跳ねてしまった。だけど様子を見に来てくれた御空さんはそれに気が付く様子はない。ボクがホッとしていると、御空さんはボクの手元を覗き込んだ。
「凄いですね。混ぜていて重たくはないですか?」
「さっきより軽くなりました」
「そうですか。もう少し混ぜたら……」
「はちみつとみりんと出汁ですよね?」
「ふふっ、はい。よろしくお願いします」
御空さんは驚いたように目を見開いた。けれどボクがちゃんと覚えていたことを伝えると、嬉しそうに目を細めて微笑んでくれた。
「サクラ……」
「ちょ、御空! 助けて! 焦げる!」
御空さんが何か言いかけた瞬間、キッチンから助さんの悲鳴が聞こえた。何やら香ばしい香りがこっちまで漂ってくる。
「すぐ行きます! サクラ、ちょっと行ってきます」
御空さんはバタバタとキッチンに戻って行った。何を言いかけたのかは分からなかったけれど、大切な話なら後で教えてくれるはず。ボクはまたぐるぐるとはんぺんと卵を混ぜ始めた。
「助、一旦火を止めてください!」
「と、止めた!」
「ふぅ、間に合いましたね。さて、フライパンをふきんの上に上げて、少し冷ましてください」
「分かった!」
御空さんは最初こそ慌てていたけれど、火を止めたら安心したみたいで次の指示からはいつもの冷静さを取り戻して穏やかな声になった。そのおかげか、慌てていた助さんもすぐに落ち着きを取り戻していつもの元気な声で返事をした。
キッチンの方に聞き耳を立てながら手を動かしていると、かなりとろとろになってきて、もうはんぺんと卵の違いが分からないくらいになった。落ち着いているとはいえ、今キッチンに声を掛けるのは邪魔をしてしまうだろうか。
ボクはすっかり液体になったそれを泡立て器で掬い上げてみる。ねっとりしてはいるけれど、とろとろと泡立て器から離れてポタポタと落ちていく。
「大丈夫、だよね?」
ボクは次に言われていた通りにはちみつとみりん、出汁を順番に入れていく。入れたら焼くってことだったけれど、混ぜた方が良いのだろうか。
少し悩んだけれど、ボクはまた泡立て器を動かし始めた。みんなで一緒に同じ味を楽しめた方が嬉しいと思ったから。
ぐるぐる混ぜて、たくさん混ぜて。すっかりはちみつたちも混ざった頃、キッチンの方が落ち着いたからか御空さんがキッチンから出てきた。
「サクラ、遅くなってすみません。どんな調子ですか?」
「はい、全部混ぜ終わりました!」
「そ、そうですか」
御空さんはまた褒めてくれるかと思ったけれど、少し困ったように眉を下げた。ボクは何か間違えてしまったのだろうか。やっぱりもっと混ぜた方が良かったかな。はちみつたちは混ぜ込んじゃいけなかったかな。
「あ、ごめんなさい、サクラ。大丈夫です。ここまでありがとうございました」
御空さんはいつもの顔みたいな顔で笑う。だけどどこか無理をしていることはお稲荷様の力を使わなくても分かる。ボクが何かしてしまったんだ。
「あの、ボクは何をしてしまったんですか?」
考えても分からなくて、正直に聞いてみる。すると御空さんはゆっくりと首を振った。
「本当に、サクラは何も悪くないんですよ。俺が伝え損ねただけです」
「それは、えっと……」
「甘い物が苦手な方もいるので、いつもは甘いものと甘さ控えめのものを作るんです。なのでそのために卵液を分けて、調味料を変えなければいけなかったんです。でも、俺がそれをすっかり忘れてしまっていて。さっき伝えようと思ったのですが、バタバタしていて伝え損ねてしまって」
やっぱり、忙しそうだからって遠慮しないで聞けば良かった。ボクがちゃんと聞いていたら、御空さんはこんなに困った顔をしなくて済んだのに。
「サクラ。サクラは悪くないんですよ。だから、そんな顔をしないでください。伝え忘れた俺が悪いんです。それにここからでも甘さ控えめのものを作ることはできますから。だから大丈夫です」
御空さんは必死に伝えてくれるけれど、やっぱりボクが悪いという気持ちは消えない。だけどこれ以上ボクが落ち込んでいたら、今度は御空さんが自分を責めてしまう気がする。御空さんは、そういう人だ。
「分かりました。えっと、ここからどうしますか?」
「そうですね。少し取り分けるので、そこにお醤油などを入れて甘さを抑えていきます。しょっぱくなってもいけないので、味を見ながらいろいろ試しましょう。ここからは俺に任せてください」
「分かりました」
ボクの仕事はこれ以上ないらしい。それじゃあ次の仕事を、と思うけれど、また間違えてしまったらと思うと怖い。
「サクちゃん! 次は僕のお手伝いをしてくれる?」
キッチンで話を聞いていたらしい助さんが野菜が山のように積まれた作業台の前でニッと笑っている。ちょっと足が竦んで動かなかったけれど、御空さんが優しい顔で背中を押してくれた。ボクはその勢いのまま、対面キッチンを外から覗き込んだ。
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