第100話 散りかけの花
どうしてこんなピリついた雰囲気になっているのか理解できなくて立ち尽くしていると、ボクに気がついた御空さんがボクの方に来てくれた。
「御空さん、あの、この状況は?」
「えっとですね、俺と千歳と助でキッチンで作業をしている間に琥珀と、お手伝いをして下さるということで春川さんにもお酌や皆さんのお相手をお願いしていたんです。ですが、その間に琥珀が料理ができないという話になったらしくて。春川さんに努力の問題ではといわれてしまったようです」
「春川さんらしくないですね」
「やっぱりサクラもそう思いますか」
普段の春川さんなら、琥珀さんを弄るだけ弄ってケラケラと笑うくらいだ。琥珀さんだって拗ねる振りをして春川さんが笑っているのを見て微笑んでいる。
二人の関係をたったの二ヶ月くらいしか知らないボクが首を捻るならまだしも、御空さんまで違和感を感じているのならやっぱり異常なことなんだと思う。
「最近二人が喧嘩していたとかですかね?」
「そんな話は聞いていませんでしたが」
御空さんが首を振って心配そうに二人の方を見る。静かに睨み合っている二人を他の人たちは微笑ましそうに見ているだけだ。流石に年長者ばかりだからなのだろうか。
今ボクに出来ることと言えば。ボクは左目に意識を集中させる。これが正解かは分からないけれど、やってみて損は無いはずだ。
琥珀さんの中には赤く燃えるものとそこに打ち付ける激しい雨が見える。怒りと悲しみ。悔しさとか情けない気持ちもあるのかもしれない。
春川さんの中には紫と黒が混ざったような混沌としたモヤがかかっている。これは、嫉妬だろうか。モヤの向こうから小さな人形がチラチラと琥珀さんの方を覗いている。
二人の心の中に咲くピンクの花は満開だ。だけど春川さんの花は散りかけにも見える。花は散るから美しいけれど、散ってしまってから花を愛でたいと思ってももう遅い。花見も恋も、タイミングということらしい。
ボクに恋する気持ちは分からないけれど、彩葉さんに季節の移り変わりに例えて教えてもらったことがある。時期を待つことも大切だけど、今しかないものは今しかないのだと話して聞かされた。
「琥珀さんは甘えているだけですよ。自分ができないことを理解しているなんて、ただの言い訳です」
「努力ならした。小さい頃から失敗ばかりでずっと料理は嫌いだった。だけど高校生になってこの色守荘に来て、そのままじゃダメだと思って必死に努力した。だけどダメだった」
春川さんに言い返す琥珀さんの声がどんどん震えてくる。目に籠る力もどんどん強くなって目つきが悪くなっていく。泣きそうなのを堪えているんだと分かって、春川さんは驚いたように目を見開いた。
春川さんも申し訳なさそうな顔になって、だけど引くに引けないのかグッと押し黙ってしまった。ボクも御空さんもどうしたら良いのか分からなくて困ってしまう。キッチンでは助さんがアワアワしているし、千歳さんはジッと黙って二人を見つめている。微笑ましく見守っていた年長者たちも呆れ顔になっている。
「はいはい、その辺にしておきなさいな」
微妙な空気を破るように少ししゃがれた声が響いた。琥珀さんは俯いてしまったけれど、他の人たちの視線はその声の方に向く。
青島敏子さん。【青魚と魚心】の店主、青島三郎さんのお母さんのお母さんに当たる方で、吉津音村の最年長。今年で百十一歳になった。
「どんなに喧嘩をしたって構わないがね、一度言った言葉は取り消せないんだよ。それだけは覚えておきんさい」
春川さんは琥珀さんの方を申し訳なさそうな目でチラッと見る。けれど琥珀さんはピクリとも動かずに地面を見つめていた。琥珀さんはいつも目の前のことに真っ直ぐ向き合って自分なりの答えを出してそれを言葉にしてくれる。いつもとは違いすぎる姿にボクの中で不安が膨らむ。
「琥珀。ちょっと来い」
キッチンから出て来た千歳さんが琥珀さんの肩に手を置くと、親指で階段の方を指さした。ようやく顔を上げた琥珀さんは小さく頷くと先に出て行った千歳さんの後を追ってリビングを出て行った。
その背中を不安げに見つめる春川さんの肩にトシコさんが手を置いた。春川さんが泣きそうな顔で振り返ると、皺だらけの手で春川さんの頭をわしゃわしゃと撫で回した。琥珀さんの撫で方にどこか似ている気がする。
「琥珀はああ見えて臆病な奴なんだ」
それだけ言うと、トシコさんはいたずらっぽく笑ってまた席に着いてしまった。立ちすくむ春川さんに声を掛けようと思って一歩踏み出そうとしたとき、御空さんがボクの肩を叩いて止めた。
「ここは俺が行ってきます。サクラは助の方に行ってください」
「わ、分かりました」
少し驚いたけれど、御空さんがそう言うということは何か意味があるに違いない。そう思えるくらいには御空さんを信用しているし、御空さんなら春川さんの気持ちに寄り添うことができると確信してもいる。
それはもちろん御空さんがお稲荷様に加護を与えられているからではない。ボクがいつも御空さんに助けられているからだ。
「助さん」
「サクちゃん。ごめんね、なんだか変な空気になってて。髪型可愛いね。かんざしも似合ってる」
「ありがとうございます! トオルさんがやってくれたので、これを見せたかったんです。だけど、あの、少し心配です。春川さんの気持ちが変わり始めていることもありますし、今回のことで琥珀さんの気持ちも変わってしまうかもしれません」
「そっか。それは心配かもね」
そうは言いながらも助さんはどこか淡泊な様子だ。人の感情の移り変わりを受け入れているのか諦めているのか、そんな雰囲気を纏っている。
「だけど僕はそれより、繊細な琥珀が傷ついてしまわないかの方が心配だよ」
助さんはそう言うと琥珀さんと千歳さんが出て行ったドアの方を見つめた。助さんは琥珀さんのことを繊細だと言う。トシコさんも臆病だと言った。ボクの知らない琥珀さんの顔をボクは知りたい。
助さんを見つめると、助さんはボクの言いたいことを読み取ったのか小さく微笑んでくれた。
「ごぼう茶でも飲みながら話そうか」
助さんがいれてくれたごぼう茶が入った温かいコップを両手で受け取った。リビングのガヤガヤした空気とは分離された静かなキッチンに少し緊張してしまう。
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