第89話 ラベリング

side京藤千歳



 御空がキッチンに傷口を洗いに向かうと、私の傷の手当をホナミが続けてくれた。サクラと星影は穏やかな寝息を立てて眠っている。怪我はしていなさそうだけど、色守荘に戻ったらお風呂に入れてあげないくては。


 ホナミは私の肩に高さを合わせようと正座をしているけれど、それでも少しやりづらそうにしているから私も少し屈んだ。



「ホナミ、ありがとう」


「ううん。私も千歳くんの役に立ちたいから」



 ホナミはそう言って微笑むと、真剣な表情で傷口にガーゼを当てる。ホナミは少し不器用なところがあるから、しばらくは黙っておこう。


 慎重にやったおかげか、ガーゼが綺麗に傷口の上にあてがわれる。ホナミは今度はテープを探し始めた。ガーゼを抑えるのを交代して、ホナミの一生懸命な表情を観察した。


 昔はいつも私の後ろをくっついているような子だった。三田の家はかなり厳しい家柄だと知っていたし、私の前でくらいは甘やかしてやりたいとすら思っていた。周りには迷惑じゃないかと心配されたけれど、私としては妹ができたようで嬉しかった。


 ホナミが村の外の高校を受験して進学したときも、興味のままに大学を受験して進学したときも、ホナミは村を出ていくことはしなかった。村から通えるところを探したと笑っていた。


 だからだろうか。心のどこかではホナミとずっと一緒にいられるものだと思っていた。ホナミはずっと吉津音村にいるのが当たり前だと思っていた。


 だけどそうではなかった。ホナミは私とは違う。村を出ていきたいと思えばいつでも外に羽ばたいていける。私のように羽をもがれてなどいない。



「千歳くん、手をちょっと上の方にずらして」



 ホナミは真剣な顔でガーゼの下の方にテープを貼る。こういうときは上から貼っていくものじゃないのかと思ったけれど、何も言わないでおく。



「よし、次は下を抑えて」



 もうテープで止まってるけど、なんて思っても言わない。私のために一生懸命になってくれているホナミをからかうなんて、そんなことはしたくない。



「ホナミ」


「ちょっと待って……はい、できた!」


「ありがとうな」


「ふふっ、千歳くんの役に立てて良かった」



 ホナミはどうしてそんなに幸せそうに笑うんだろう。私のために一生懸命になってくれるんだろう。どうしてそれがこんなにも嬉しくて、胸が締め付けられるほど痛むのだろう。



「それで? どうかしたの?」


「ああ……ホナミは村を出ていきたいとは思わないのか?」



 テープを医療セットに仕舞うホナミの手が止まった。ホナミは私の言葉の真意を探るように私の瞳をじっと見つめる。この真っ黒な瞳に私だけが映りこむのを見るのは昔から嫌いじゃなかった。



「今まで一度も思ったことがないかな。この村にこだわっているわけじゃないけど、ここにいればずっと千歳くんと一緒にいられるから」



 屈託のない笑顔に胸が苦しくなる。私なんかのために、そう思いながらも嬉しくて堪らない。どこか満たされたような気さえする。



「じゃあ、もし私が村を出ていくと言ったら、ホナミはどうする?」


「着いてく。千歳くんがどうしても嫌だって言わない限りは、ずっと一緒にいたいから」



 ホナミは私が今まで見てきた中で一番艶やかな微笑みを浮かべた。強い覚悟だけじゃなくて、不安も内包しているその表情を美しいと思った。


 だけどずっとこんな顔をさせていたいとは思わない。いつものように屈託のない笑顔で笑うホナミを見ていたい。その表情を引き出すのが自分でありたい。私は昔から変わらず、そう思い続けている。


 それが妹に対する感情なのか、ホナミが望むような関係を成立させる感情なのか。改めて考えてみると、よく分からない。


 私の初恋は彩葉さんだった。彩葉さんが私の前から消えてしまうまでの間、ずっとその背中を追いかけていた。その気持ちを恋だと定義したきっかけは何だったのか。それが思い出せない。



「ちょっとだけ、私の話をしても良い?」


「ああ」


「ありがとう。私ね、最初は千歳くんのことを憧れのお兄ちゃんだと思ってた。追いかけて、追いつきたいって。でもね、いつの間にか追いかけるだけじゃ足りなくなって、千歳くんを独り占めしたいって思ったの」



 恥ずかしそうに頬を掻いたホナミは耐えられなくなったのか体育座りに足を崩して、腕に顔を埋めた。耳まで真っ赤になっている。


 私はホナミの話で少し頭の中がすっきりした。はっきりしたわけではないけれど、恋の定義が何となく見えてきた。自分のホナミに対する気持ちがその定義に当てはまるのかはもう少し考えたいけれど、真っ暗闇に光が差したように感じる。


 丸くなっているホナミが無性に愛しく思えて、その真っ赤な耳にそっと触れてみた。擽ったそうに身を竦める姿につい笑みが零れた。穏やかな気持ちでゆっくりとホナミの頭を撫でる。


 ドサッ


 突然重たいものが倒れる音がした。キッチンの方から聞こえた音に嫌な予感を抱えながら立ち上がる。



「危ない!」



 ふらついた私をホナミが支えてくれた。思っているより体調は良くないらしい。


 ホナミに肩を貸してもらいながらキッチンに向かうと、流しの水が流れたままになっていた。そしてそのすぐ近く、棚の陰に荒い呼吸をする御空が倒れていた。


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