第88話 手当てを


 眠ってしまったサクラと気を失った千歳、そして疲れ果てている星影。俺自身も左手を怪我してしまっているから無理を押して色守荘まで全員を運ぶことはできない。



「お稲荷様、サクラを社へ運んでくださいますか?」


「ええ。もちろん構いませんわ」



 世話係がお稲荷様のお手を煩わせるなんて普通はあってはいけない。だけど、サクラも千歳も星影も、全員の身の安全を確保しなければならない。それならすぐにでも全員社に運ぶ必要がある。


 俺は千歳を背負って、星影を抱きかかえた。重たくて、足元がふらつく。自分の力不足を痛感せざるを得ない。


 社に入るとサクラを布団に、星影を座布団に寝かせた。寝息を確認したら、すぐに千歳の処置に入る。



「まずは傷口を拭いて、次に消毒をして、それから軟膏を塗ってガーゼで処置しよう」



 気持ちを落ち着けるためにも口にだして次の手順を確認する。急がないと、何か悪い細菌でも入ってしまったら大変だ。


 自分の傷口を洗いながら桶に水を汲んで綺麗なタオルを何枚か棚から引っ張り出す。血が止まらない左手にタオルをきつく巻いて簡単な止血をしてから千歳たちがいる部屋に戻ろうとしたとき、ガラガラと玄関の引き戸が開く音がした。驚いて桶の水を零しそうになった。



「こんにちは」



 顔を出したのはホナミだった。突然のことにテンパっていると、ホナミは申し訳なさそうに社に入ってきた。



「ごめんなさい。今日は色守荘にいるように言われていたのに」


「いいえ。どうかしましたか?」


「サクラさんの様子がおかしかったから気になって」



 隠そうとしたけれど、逆に心配を掛けさせてしまったらしい。どう答えるか迷っていると、部屋の方から千歳の呻き声が聞えた。そうだ、こんなところで悩んでいる場合じゃなかった。



「すみません、ホナミ。千歳が怪我をしてしまって。これから応急処置をするので、ちょっと手伝ってください」


「千歳くんが? 分かった!」



 焦った表情で俺について来たホナミは、苦し気に呼吸をする千歳を見て目を見開いた。



「事情は後で説明をします。俺は必要なものを集めてきます。申し訳ないのですが、千歳の傷口を濡れたタオルで拭いてやってください。痛がっても、きちんと拭いてくださいね。千歳の命に関わることになりかねませんから」


「うん」



 しっかり頷いてくれたホナミに千歳を任せて俺は応急処置用の医療セットを探しに奥に向かった。医療セットはすぐに見つかったけれど、何故か軟膏が入っていない。誰かが使った後に元に戻さなかったらしい。



「どこだよ」



 焦りからため息を吐いてしまった。すぐにこれではいけないと思って深呼吸をして気持ちを落ち着ける。俺が焦って手順を誤ってはいけない。



「前に医療セットを使ったのは、琥珀だな」



 琥珀ならその場に放置、なんてことをやりかねない。医療セットの大事さは誰よりも理解しているくせに、片付けたりするのは本当に下手くそ。それに他のことに意識が向いているときは大事なものを見落としがちになる。



「縁側の方を探すか」



 医療セットが置いてある部屋の縁側の方、確かこの辺りで処置をしていたはず。



「ぐっ……」


「千歳くん、もう少しだからね」


「ぐぁっ」



 千歳の呻き声と、泣きそうなホナミの声が聞える。軟膏を探す前に先に消毒液を届けないと。焦って立ち上がった瞬間、畳の縁に足を引っかけて転んでしまった。投げ出された医療セットはしっかり留め具がついていたおかげで中身が散らばることはなかった。



「いたた……あれ?」



 膝が傷む。けれど、それよりも棚の下で反射した何かを特定する方に意識が向いた。隙間に腕を差し込んでそれに触れる。そのギザギザした手触りには覚えがあった。



「あった!」



 ギザギザしていたのは探していた軟膏の蓋。やっと見つけたそれと医療セットを持って千歳たちのいる部屋に戻った。



「遅くなってごめんなさい。ホナミ、ありがとう。代わりますね」


「はい……」



 俺の後ろに下がったホナミは、すれ違いざまにそっと目元を拭った。



「千歳、意識ははっきりしていますね」


「ああ。痛みで起きた。運んでくれてありがとうな」


「いえ。痛むところ申し訳ありませんが、消毒しますね。染みて今までよりも痛いとは思いますが、耐えてください」


「真顔でキツイこと言うな。まあ、頼む。これが悪化したらサクラが悲しむ。そんな顔はさせたくない」


「分かりました」



 千歳ならそう言うと思った。俺はガーゼに消毒液を垂らして、そっと千歳の傷口に当てた。千歳は声を殺して耐える。握り締められた拳から辛さが伝わってきて、俺も苦しい。だけど俺は逃げてはいけない。ホナミに押し付けるようなことはできないし、千歳やサクラが悲しむ顔を見たくはない。



「もう少しですからね」


「ああ……」



 トントンと傷口を叩きながら消毒していると、ホナミのおかげで血が綺麗に拭われた傷口が目につく。サクラの歯型がしっかりついたその傷口から流れる血は完全には止まっていない。けれどはっきり見える歯型は痛々しい。


 実際痛いだろう。俺もさっきから左手がかなり痛む。タオルに止血しきれていない血が滲んできて、力はとっくに入らなくなっている。



「おい、お前の手当ても急がないと」


「大丈夫です。千歳の処置が終わったらやりますから」



 消毒が終わって少し余裕が出てきたらしい千歳は俺の心配をしてくれる。その気持ちだけで少し痛みが和らぐ気がするから不思議だ。



「御空くん、私が千歳くんのガーゼを貼るから、その間に御空くんも傷の手当てをして?」



 俺たちの隣にサッと座りこんだホナミは、俺が手を伸ばしたガーゼを奪い取る。真剣な目にはもう涙は浮かんでいなくて、本気で俺を心配してくれていることが伝わってくる。



「分かりました。ホナミ、千歳をお願いします」



 ここはホナミの言葉に甘えることにして、新しいガーゼを取り出す。そこに消毒液を垂らしてからタオルを外すと、さっき洗ったばかりとは思えないほどベッタリと血がついていた。つい力を入れてしまうこともあったし、そのせいもあるだろう。



「もう一度洗ってきます」



 一応声を掛けてから台所に向かおうと立ち上がると、フラッと足元がグラついて視界が歪んだ気がした。二人に気が付かれないようになんとか踏ん張ったけれど、これは急いだほうが良いかもしれない。



「よし」



 気合を入れなおして台所に向かう。俺がしっかりしないと。それだけ考えていないと、意識が飛んでしまいそうだった。



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