第38話 目覚め
side京藤千歳
眠るサクラが浮かべる表情が緩む瞬間はほんの一瞬だけだった。すぐに歪められるその顔を見ていられなくて顔を背けたくなるが、サクラに二度とこんな顔をさせないことを自分に戒めるためにも見つめているほかなかった。
サクラの頭に触れていたお稲荷様の呼吸が次第に荒くなると、その身体がフラリと傾く。咄嗟に動いた琥珀がお稲荷様を支えようと腕を伸ばすと、お稲荷様の身体は琥珀の腕をすり抜けて畳の上にふわりと倒れ込んだ。
お稲荷様がすり抜けていった腕を呆然と見つめる琥珀。その姿を見ていると、神はこの世ならざる者、その意味が分かった気がした。
「お稲荷様、大丈夫ですか?」
「ええ。いつもならこんなことにはならないのですけれど、サクラの記憶は感情の揺れが激しくて私の感情がサクラのものに飲み込まれてしまいましたわ」
助六が聞くとお稲荷様は荒い呼吸のまま起き上がって、額の汗をワンピースと同じ真っ白な手ぬぐいで拭った。
コホン、と咳払いをしたお稲荷様は長く息を吐くと私たちに向かって困ったように眉を下げた。そして今読み取ったばかりのサクラの記憶を話して聞かせてくれた。
想像の何倍も何十倍も苦しい内容に、御空は静かに涙を零した。御空は今日まで一番サクラの傍にいて、その間に過去の話も聞いたと言っていたこともあった。そんな御空にも一番苦しかったときのことは話していなかったのだろう。サクラはそういう優しさのある子だ。それと同時に、御空とそっくりな我慢強くてしっかりしすぎな子でもある。
「サクラの家族は研究を行っていた父親と倒れていたあの人なのでしょう。サクラは彼女に対しては母親と認識していなかったようですから、助手といったところでしょうか」
「それと、たくさんキツネ様の兄弟がいたとも聞いています。きっとそのシロくんというのもサクラにとって兄弟なのではないでしょうか」
「そう。血のつながりは分かりませんけど、たくさんの子があそこに捕らわれて実験台にされているのかもしれませんわね」
助六の言葉を聞いたお稲荷様の顔が苦虫を潰したように歪んだ。
お稲荷様の眷属にあたるキツネ様を傷つけることは神への冒涜であると私は両親から厳しく言われてきた。けれどお稲荷様にとっては、私が感じている以上に悔しいことなのだろう。それは想像に難くない。
「それから、一つ気になることがあるのです」
「ん、んんっ」
お稲荷様の言葉を遮るように呻き声がした。声の方を見ると、寝返りを打って私たちの方に身体を向けたサクラの瞼がゆっくりと持ち上がって行った。
「サクラ!」
お稲荷様、そして御空が駆け寄ると、サクラの手は御空の手に触れた。開かれた黄金色の瞳が零した雫を御空が拭ってやると、泣いたまま笑ったサクラが身体を起こして御空の首に腕を回した。
『ごめんなさい』
サクラの口がそう動いたように見えたが、お稲荷様からサクラの記憶を聞かされた直後にその言葉の意味を聞く勇気はない。
「サクラ、あなたは悪くありません。よく、帰って来てくださいました」
お稲荷様がサクラの毛並みを梳くように撫でる。サクラはその手に自分の手を重ねると微笑みを浮かべた。
「契約、したのですね」
悟ったような、神々しさと威厳を持った微笑み。けれど御空に抱きついたまま離れようとしないから子どもらしくて可愛らしい。
「ええ、勝手なことをしたとは思いますけどサクラの意思は聞いていましたし、身体の不調を取り除くには一番手っ取り早い方法でしたから」
「あの、サクラの不調の原因とは何だったのでしょうか?」
そういえば、まだそのことについては聞いていなかった。代表して琥珀が聞くと、お稲荷様は確かなことではありませんが、と前置きをした。
「人間の遺伝子には一週間の仮契約が堪えたようですわ。意識を失うほど苦しい思いをさせてしまってごめんなさいね。ですがもしかすると、サクラには二日前くらいから身体に異変があったのではありませんか?」
「そうです、ね。少し身体の動きが鈍い気がして不思議には思っていたのですけど、連日はしゃぎ過ぎたからかと思っていました」
この一週間、私と御空が軽い筋肉痛に見舞われている間に体力超人の琥珀と助六が噓偽りなく元気だということは言い切れた。けれど、私ではサクラの動きが鈍っていたのが筋肉痛ではないと言い切ることはできなかった。考え込みながら話しているサクラ自身もそれは同じだったらしい。
「回復力が高いのに長い間痛みがあったことは不思議に思っていたのですけど、そういうことだったのですね」
サクラが他人事のような顔をしているのを見ながら、それに気が付くことができなかった私のふがいなさに落胆する。
けれどサクラがこの村のために一生を掛ける覚悟を決めたというのに、私が迷っている場合ではない。これから頑張るしかない。
「本契約をしてしまえば私の力が暴走することはありません。何かあっても私の方でコントロールしますわ。でも、この村からは出てはいけませんよ? 私のコントロールが及ばないところでは私でも力を制御できませんから。それと、五感の全てが私に共有されていますけど、気になさらずにサクラの思うままに生きてくださいね。ですが、少しだけ、配慮した生活を送ってください」
お稲荷様が頬を赤らめると、サクラと助六が同じ角度に首を傾げた。うちのピュアっ子たちには言葉の意味すら伝わっていない様子だ。
「気にしなくていいけど配慮する、ですね?」
とりあえず頷いたサクラが助けを求めるように私を見つめてくる。あとでゆっくり話そうか。
「お稲荷様、これからどうぞ、よろしくお願いします」
「はい。よろしくお願いしますわ」
サクラがおでこを畳につけて挨拶すると、お稲荷様は愉快そうに笑ってそのまま消えていった。
あまりにも跡形もない消え去り方。あとに残った金木犀の香りがなければ、きっと私たちは今目の前にお稲荷様がいたことを現実として認識することができなかっただろう。
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