第37話 半人半孤

side紺野サクラ



 ぼうっとした頭の中に研究所にあるボクの檻の様子が浮かぶ。一瞬帰ってきたのかと思って身構えたけれど、鉄格子に触れたかと思った手は簡単に擦り抜けて身体も檻から出ることができた。普段は自由には歩くことができなかった部屋を歩きながら何の気なしに首に触れると首輪が着いていないことに気が付いた。もしかしてと思って手足も見てみると、最近ないことに慣れてきた手枷と足枷も着いていなかった。


 この場所にいるのにあって当たり前だったものがない状態はかなり奇妙で、だけど不思議な高揚感を感じた。山の中を駆け回っているときのようなワクワクを感じてそっと冷たいドアに触れてみると、冷たさも感じない。それどころか身体がドアをすり抜けて廊下に出てしまった。


 玄関の方に行こうか研究室の方に行こうか悩んで、パソコンを打つ音が響く研究室の方にそろそろと足を動かした。父さんにバレてしまったらどんなお仕置きをされるか分からない恐怖はあるけれど、ボクに実験や検査をしているとき以外の父さんの姿を久しぶりに見てみたかった。


 研究室に繋がる金属製のドアに触れてすり抜けると、ちょうど四六番目の兄弟、シロくんが実験台の上にいた。何年も会うことができなかったシロくんが目の前にいることに驚いて思わず声が出てしまいそうになった口を塞いで父さんの方を見ると、目はボクの方を向いているのにボクには気が付ていないようで淡々と実験を進めていく。


 ヘトヘトになって荒い息をしているシロくんから電流パットが外されて、父さんは太い注射器片手にシロくんに近づいていく。シロくんが無謀にも逃げようと首輪から白い実験台に繋がる鎖を噛み切ろうと牙を立てると、父さんは舌打ちをして机の上に置いてあった赤いボタンを押す。あれを押されると首輪に電流が走って動けなくなってしまうのはボクも何度も経験したから知っている。思わず目を閉じると悲痛な悲鳴が聞こえて、次に目を開けたときには動けなくなったシロくんに注射を突き刺した父さんが口元にうっすらと笑みを浮かべていた。その表情を見ると背筋が凍り付いて吐き気がしてくる。これ以上は見ていられなくて、ドアをすり抜けて廊下に出た。


 廊下に出るとそこはいつもの静かな空間で、ボクは壁に手をつきながらゆっくりと、もつれそうになる足を動かした。部屋の横を通りすぎて玄関から外に出ると、物干し竿にたくさんのタオルが干されていた。


 どこかに彩葉さんがいる、そう思って駆け出そうとした瞬間、研修所の陰に横たわる人の足が見えた。慌てて近づくと、倒れていた。顔は見えないけど、見間違えるはずがない。



「い、ろは、さん?」



 その背中を見た途端に激しい頭痛に襲われて吐き気がまたこみ上げてくる。口元を抑えて嗚咽した瞬間何か生暖かいものが手に広がった。恐る恐る手のひらを見ると手のひらは真っ赤に染まっていて、それを見た瞬間に視界が真っ暗になった。


 真っ暗な闇の中で立ち尽くすボクの頭を撫でる誰かの手。温かいその手を探そうとするけれど、周りには人影も何も見えなくて、ただ真っ暗な闇が広がっているだけだった。


 急に心細さを思い出してギュッと目を瞑ると瞼の裏に浮かんできたのは彩葉さんの優しい笑顔。そして琥珀さん、千歳さん、御空さん、助さんの頼もしい笑顔。



「ボクの、帰る場所……」



 みんなの元に帰りたい、そう思って瞼を開けると目の前に黄金色に輝く炎が浮かんでいて、遊んでいるようにふわふわとボクの周りを飛んでいたそれが急にまっすぐ向こうに飛んで行った。



「待って!」



 声を掛けると止まってくれた炎に追いつこうと一生懸命走るけど、ボクが走り始めると炎はボクをからかうように先にどんどん逃げて行ってしまう。息が切れて足を止めると、誰かに肩を掴まれて振り返った。



「サクラ、帰って来い」


「ひっ……」



 息を荒くして髪を振り乱している父さんは、笑顔を張り付けながら猫なで声で話すけど、ボクの肩を爪が食い込むほど強く掴む。大好きな父さんなのに、怖い。



「い、嫌だっ」



 父さんの腕を振り払って走り出すと、また向こうの方で黄金色の炎がちらちらと舞う。


 必死に追いかけるけど捕まえられそうになくて足を止めて休みたくなる。だけど止まればまた父さんに捕まってしまうと思うと足が止まらなかった。


 もう一度会いたかったはずなのに。


 矛盾する身体と心の間に挟まれて涙が溢れた。父さん、ごめんね。


 彩葉さんのことも兄弟たちのことも助けてあげられない、無力なボク。父さんから逃げた親不孝なボク。そんなボクに価値があるかは分からない。


 だけど今は、こんなボクのことを受け入れてくれた人たちのために生きたい。恩返しがしたい。


 あの炎を掴み取ることができればみんなの役に立つことができる、何故か分からないけどそんな気がして必死に足を動かした。


 二本の足で、前に。前に、前に。いつの間にか四本の足で走るボクは中途半端じゃない、本物のキツネになれた気がしたけど、手で地面を押してまた二本の足で走る。


 キツネでも人間でもなくて、キツネでも人間でもある。そんなボクだからできること。



「キャンッ」



 シロくん直伝のジャンプで炎に飛びついて両手で掴んだ瞬間、熱くない光の炎が強く光り始めて闇を呑み込んだ。



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