第26話 お稲荷様、降臨


 気が付いたらボクは真っ白な部屋にいた。研究室よりもっと白くて、どこに終わりがあるのかも分からない。寒くも暑くもなくて、何の匂いもしない異様な空間。体勢を低くして、どこから敵が来ても対応できるように神経を研ぎ澄ます。


 不意に後ろからカサッと服が擦れるような音がして、パッと飛びのいた。見えない敵に唸り声を上げて威嚇すると、辺りにちょっと金木犀の香りが漂って目の前に知らない白いワンピースのお姉さんが立っていた。



「サクラ」


「は、はい?」



 どうしてボクの名前を知っているんだろう。不思議に思いながら返事をすると、お姉さんはよく感情の読み取れない微笑みを浮かべて、黒髪を靡かせながらボクの方に寄ってきた。ボクが後ずさりして逃げようとすると、逆にお姉さんとの距離が縮まってしまって、お姉さんの手がボクの頬に触れた。お姉さんはその手を動かしてボクの耳を撫でたり、しっぽを撫でたり。ボクはただされるがままだった。急にお姉さんの顔が近づいてきて、本能的にキュッと目を閉じた。鼻先に何かが触れた感覚とリップ音が鳴ると、お姉さんのオーラが離れていったのを感じてそっと瞼を開けた。



「ふふ、可愛いですね」



 お姉さんの表情は変わらないけれど、どこか楽しそう。戸惑うボクの耳に改めて触れると、もふもふした毛をそっと撫でられてこそばゆい。



「あの、お姉さんはどちら様ですか?」


「はあ、可愛いです」



 お姉さんはボクの言葉なんて聞こえていないかのようにただただ楽しそうに笑ってボクの目を覗き込む。ボクもお姉さんの目を見つめ返すと、お姉さんの黄金色の目の中にボクが映っていた。



「ふふ、そうですね。サクラは自己紹介をしてくれましたわけですし、私もしましょう!」



 いたずらっぽく微笑んだお姉さんはスイッとボクから離れると、ワンピースの裾を摘まんで、膝から上をぴょこんと上下させながら首を横に傾けた。



「はじめまして。お稲荷様です」


「お、お稲荷様、ですか?」


「はい! お稲荷様です!」



 戸惑うボクをよそに、お稲荷様はきらきらした目でボクを見てくる。



「眷属になってくれる子なんて本当に久しぶりなのですよ。なってくれてもすぐに嫌になっていなくなってしまったりね? 長くて三日ですよ、三日。三日で何ができるっていうのですか。美味しいものも食べたいですし、いろんなお話も聞きたいのですわ!」


「楽しんでますね」


「ええ。私はこの世のものに眷属を通してしか触れられませんからね。いい機会ですし楽しみたいのですよ」



 お稲荷様は思ったよりも子どもっぽいらしい。だけど、オーラから感じるものがボクでは到底かなわない力を持っている人だってことは本能的に分かる。



「さっき鼻先にキスをしたでしょう? あれは仮契約なのです」


「かりけいやく?」


「うーん、試用期間とでも言えば通じますかしら?」


「しお?」


「ええ……これもだめなんですの?」



 項垂れてしまったお稲荷様に申し訳なくなって耳もしっぽも垂れさせると、お稲荷様はあわあわし始めた。



「いいの! いいのですよ! そうね、えっと、そう! お試し期間!」


「お試し……はい!」


「やりましたわ、通じましたわ」



 なんだかお疲れな様子のお稲荷様。なんか、ごめんなさい。


 ふうっと一つため息を吐いたお稲荷様は、膝に手をついて少ししゃがむとボクと目線の高さを合わせた。



「サクラにはこれから一週間、私の力を貸してあげます。もちろん無償で!」


「力?」



 聞き返すと、お稲荷様は待ってましたとばかりに胸を張る。


「ええ。神様と言っても、その力は様々なのです。それはもう、私も全部知っているわけではないくらいなのです。そんな中で、私の力は感情を読み取ったり可視化する力です。力については一度貸してあげましたから、分かりますよね?」


「昨日の夕方のあれですか?」


「そうそう、あれあれ!」



 昨日の夕方に色守荘でみんなと話しているとき、今までよりもみんなの気持ちが読み取りやすかった。それに、御空さんの中に見えた勇気の芽。あれもお稲荷様の力だったのならば、納得がいく。



「もしもあなたがこれから一週間の間に、一生ここで生きていく覚悟を決めたのならば、そのときは私を呼びなさい。本契約に進みます」


「ほんけいやく?」


「あー、えっと、貸していた力をそのままサクラにあげます」


「いいんですか?」



 一生この村にいる覚悟、とは違うかもしれないけれど、この村のために生きたいという気持ちはもう確かに持っている。もしもあのときの力があれば、もっとこの村の人たちの助けになれるかもしれない。


 すぐにでも返事をしようと口を開きかけたとき、お稲荷様がボクの唇に人差し指を当てた。たったそれだけのことなのに、声が出なくなってしまった。



「ただし、それには条件があるのです」



 条件、と言ったときお稲荷様の目の奥に青い炎が宿って、ボクは息を飲んだ。



「サクラの左目をいただきます。そして空いた左目に私の目の奥に宿る炎から作った義眼を埋め込みます。それ自体は痛いことは何も無いのですけれど、サクラがこの色守稲荷が影響力を持つことができる範囲、つまりこの村から出た瞬間にこの炎は火力を増してサクラを焼き払います」



 キツネの丸焼きが棒に刺さって人間にかぶりつかれる様子がありありと想像できる。ボクの背中にはゾクリと悪寒が走って冷や汗まで出てきた。



「まあ、この村から出ない限りには普通に寿命を全うできますから安心してください。それと、炎から作った目が見ている景色は私にも共有されます。というか、それが目的なのですよ。さっきも言った通り、私は眷属を通してしかこの世のものに触れることができません。それは視覚であっても同じこと」



 ゆっくり噛み砕いて考えるボクの周りをお稲荷様は舞うようにくるくる回りながら歩く。



「ゆっくり考えなさい。心から信用できるとサクラが判断した相手になら相談しても構いません。できれば色守の子がいいのですけれど、娘は最近見かけませんしね、四家の男たちでもいいでしょう。彼らならきっと話を聞いてくれますよ」



 そう言いながらボクを抱きしめたお稲荷様の金木犀の香りがスウッと薄らいでいく。



「では、時間ですわね。また1週間後には会いに来ます。それまでに気持ちが決まったら呼び出してくれても構いませんわ。バイバイ!」



 ボクの頬にキスをして、お稲荷様は消えてしまった。


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