第21話 サクラの特技


 お風呂上がりに助さんが貸してくれたブラシで毛並みを整えた。ブタさんの毛からできているらしいブラシで梳かされた毛並みは今までにないくらい艶々になった。


 いつもよりいい気分で助さんが盛ったご飯をダイニングテーブルに運んでいると、階段を下りる足音が聞こえてきた。



「千歳さん起きましたね」


「え?」



 キョトンとした助さんがリビングの入口に視線を向けてすぐ、引き戸が開いてキリッとした面持ちの千歳さんが顔を出した。着替えも終わっているらしく、白の皺がないワイシャツに黒のカーディガンを軽く羽織っているのがかっこいい。



「千歳さん、おはようございます」


「おはよう」



 ボクの頭をさわさわと撫でて満足げに笑った千歳さんがキッチンに入って手を洗っている間に、助さんがボクの方にそろっと寄ってきた。



「サクちゃん、どうして千歳が下りてきたのが分かったの? この家、古い割にはミシミシ音が鳴ったりもしないのに」


「え、家の音はそんなにしないですけど、足音は聞こえませんか?」


「ええ、僕全然聞こえないよ。あ、御空なら分かるかな。僕より耳が良いから」



 助さんがキッチンに戻って御空さんに聞きに行くと、今度は千歳さんがボクの方に来た。さっきよりは緩んだ顔の端にかかる髪が濡れている。



「サクラ、体調は問題ないか?」



 大丈夫、と反射的に口から出かけたところで思いとどまる。少し体にだるさが残っていることを言うべきか悩む。昨日の不思議な状態とは関係がないかもしれないけれど、その前には山の中を走り通している。何が影響しているか分からなくても万全の状態ではないことに変わりはない。ふとキッチンに目をやると御空さんと助さんが見える。今言わなかったとしてもあの二人にはバレてしまいそうだな。



「えっと、少しだけ身体がだるいですけど、他は元気です」


「そうか」



 千歳さんはそれだけ言って黙ってしまった。腕を組んで右上を睨んでいるから視線を追ってみたけれど、特に何かがあるわけではない。キッチンに戻っていいのか悩んでいると、千歳さんは腕を解いた。



「サクラ、今日は家で休んでおきましょうか」


「いえ、社に行きます。最初からいなかったら、なんというか、その」



 必要ないと思われてしまうんじゃないか、という不安を上手く言葉にして伝えられなくて口籠もってしまう。あの、その、と繰り返していると、千歳さんはまた腕を組んで、今度はボクの顔をじっと見た。その視線に射貫かれたように動けないでいると、千歳さんは腕を解いて微笑みながら右手をボクの頭に乗せた。



「よし、サクラが行くときに私も行こう。そのときに社に布団を運んでおく」


「え?」



 思ってもみなかった言葉を聞いて、すぐには意味が理解できなかった。止められるかもしれないと思ったけど、ボクのやりたいことを優先してくれるのだろうか。頭の上から離れていった手を目で追いながら考える。千歳さんの顔に視線を戻すと、そこには自信と慈愛に満ちた力強い目があった。



「いいのですか?」


「やりたいならやるべきだ。昨日、サクラが私に手を差し伸べて、背中を押してくれたことだろう? だから私も、サクラがやりたいことができるように最大限手助けをしていくつもりだ。貸しを作りっぱなしにするのは性に合わないからな」



 ニヤリと右の口角だけを上げた千歳さんはまたボクの頭の上に右手を置いて、今度はぽふぽふ叩いた。



「さてと、そろそろご飯の用意も終わりそうだし琥珀を起こしてくる」



 千歳さんがキッチンに向かって声をかけると、ちょうど味噌汁を盛り付けていた御空さんと焼鮭をグリルから引き揚げていた助さんが顔を上げた。


「お願いします。サクラは運ぶのを手伝ってください」


「はい」



 御空さんの言葉に頷いた千歳さんがリビングを出て行った背中を見送ってキッチンに向かう。カウンター越しに味噌汁を受け取って一つずつ慎重に運ぶ。鮭も三人で運びきると先に座って待つことにした。



「そういえば、サクラは耳もいいんですね」



 心地いい静寂の中、御空さんが思い出したように言った。ボクは一瞬何の話か分からなかったけれど、うんうん、と大きく頷く助さんの顔を見て思い出した。



「そう、なんですかね」


「そうだと思いますよ。俺も足音は聞こえますけど、本当に微かにしか聞こえませんから」



 今までは特に気にすることがなかったけど、御空さんが言うならそうなのかな、と実感もなく思う。研究所では大体みんな同じものが聞こえているみたいだったから気にする必要がなかったんだろうな。でも今考えると、ボクや他のキツネたちには聞こえているものが父さんと彩葉さんには聞こえていなかったことも度々あったような気もしてくる。



「ねえねえ、今は何か聞こえる?」



 助さんが興味深々な様子で目を輝かせて聞いてくるから少しだけ耳を澄ましてみる。いつもはたくさん聞こえてくる音の中から無意識に気になった音を拾うことが多いから、こうして意識を集中させれば聞きたい音が聞けることは新しい発見だ。



「何か、ガサガサいっているのは聞こえますね。布団、ですかね」


「ああ、多分千歳が剥いだ布団を琥珀が取り返そうとしている音だと思うよ」


「体起こしたのにまた布団に潜り込んで寝ようとする精神力は尊敬しますよね」



 遠くを見る目をしながら深く頷くところを見ると、二人ともその攻防戦を何度も繰り返しているのだろうと察することができる。そんなことを思いながら聞こえる限りの音を拾っていると、千歳さんの声らしき怒声が聞こえた。



「千歳さんって、あんなに怒鳴ることあるんですね」


「え、怒鳴ったの?」



 助さんも千歳さんのそんな姿は見たことがないようで、目を見開いて口までぽかんと開いている。御空さんは助さんのその顔を見て笑いながらコクコクと頷いた。



「俺は何度か聞いたことがありますよ。あれは琥珀限定で、本気で怒っているというよりは琥珀と戯れているだけのようですから顔は笑っていますよ。ちなみに千歳が本気で怒ると無口になりますから」



 御空さんが笑いが堪えきれずに肩を震わせているのを見てほのぼのした気分になっていると、意識を逸らした隙に上から明らかに誰でも聞こえているだろう大きな音が聞こえて、驚いて椅子から飛び上がった。



「びっくりした」


「ふふ、一センチくらい浮いてましたね」


「この音は大体毎日のことだから、サクちゃんも慣れていってね」



 なんでもない様子で微笑んだ二人。そういえば昨日もこんな音がしていたな。


 こんなに大きな音が鳴るなんて上で一体何が起きているのかと思ったけれど、聞く勇気はない。いずれ分かるだろうからと心の中で言い訳をした。



「下りてきますよ」


 二人分の足音に途中から小さく落下音が混じって、階段を下りていることが分かった。


「今日は割と長かったね」


「千歳でここまで手こずるなら、俺たちが行っていたらご飯が冷めていたかもしれませんね」



 二人が冷静に分析する中、顔に若干の疲れと笑いを浮かべた千歳さんとパジャマのまま髪の毛を全体的に跳ねさせたままハツラツとした様子の琥珀さんが下りてきた。



「おはよ。うん、サクラも思っていたよりは元気そうかな」


「おはようございます。少しだるさがあるくらいで、あとは元気です」


「そうか。今日は社に行くんだろ? 休み休みやるんだぞ?」



 ボクが頷いたのを見てから琥珀さんはキッチンに手を洗いに行った。その背中を見ながら、あんなに起きないのに一度起きると普段と変わらない様子なのは、寝起きが良いと言えばいいのか悪いと言えばいいのかよく分からないところだと思った。


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