第16話 カメラもたまには


 千歳さんに言われるがままにリビングの端の白い壁を背に立つと、千歳さんはカメラを構えた。御空さんはキッチンでこちらの様子を見ながら火を止めて紅茶のおかわりの準備をしている。助さんもボクたちの方を見ながらクッキーの追加分を出すためにキッチンに入っていく。



「サクラ、レンズを真っ直ぐ見て、普通に立って」



 カメラを覗いた千歳さんは真剣そのもの。ボクは千歳さんに言われた通り普通に、いつも父さんがボクの写真を撮っていたときのように目を開けて腕も広げる。毎日のように撮られていたから慣れてはいるけれど、父さん以外に撮られるのは初めてだからちょっとだけ緊張する。思い返せば、彩葉さんにも撮ってもらったことがない。



「うーん、サクラ、腕は閉じて手を前で揃えて」


「こう、ですか?」


「そうそう」



 千歳さんのジェスチャーを真似て形を作ると、真っ直ぐピシッと立ちながらも手は前に組んでいる、不思議な形になった。これでは経過記録としては良くないんじゃないだろうか。幼いころ、経過記録がしずらい姿勢になってしまったとき、撮り直しになってしまったせいで父さんが怒り狂っていた記憶が蘇ってくる。


 これ以上は思い出さないように重ねた手をグッと握りしめた。今また言われた通りにできなければ、千歳さんもあの時の父さんのように変わってしまうのではないか。そんな恐怖に、今は口の中にないはずの唾を吞み込んだ。



「緊張してるか? 肩の力抜いて顎引いて」



 話し方は変わらないのに、普通に話すよりも柔らかい口調に感じる声がボクの思考を今に引き戻した。


 肩を上げてからストンと降ろして、ほっぺを引っ張る。いつの間にかキッチンから出てきていた助さんがカメラの向こうでやっている通りに動いてから、また言われた通りの姿勢をとった。



「いいね。そのままキープで」



 千歳さんはテンションが上がったのか、ファインダーから視線を外さずにいいね、以外何も言わなくなって、ひたすらにシャッターを切り始めた。ボクは視線をカメラのレンズから逸らさないように、姿勢を崩さないように。


 軽く数十枚撮ったところで、りんごと紅茶の香りを纏った御空さんがキッチンから出てきて千歳さんの肩に手を置いた。



「千歳、ストップです」



 ようやく手の動きを止めた千歳さんは、目を閉じて糸が切れたように地面に向かって崩れ落ちた。それを御空さんが片腕で受け止めてその場に座り込んだ。ボクが呆気に取られて二人を見ていると、千歳さんはハッと目を開けた。



「千歳、気分はどうですか?」


「御空?」


「はい、御空です」



 何かを考えるように少しの間目を閉じた千歳さんは、目を開けると同時に大きく長い息を吐いた。



「そうか。サクラの写真を撮っていて」


「はい。完全にゾーンに入っていましたね」



 ため息を吐いた千歳さんは、御空さんに支えられながら立ち上がると、ボクに向けて弱々しく笑った。常に凛としていて、ここにいる誰よりも大人びた振る舞いをしているイメージしかなかったから、急なことにボクの思考は追いつかなかった。



「ひとまず千歳は休憩が必要ですね。サクラも、こっちに来て一緒に紅茶を飲んで休みましょう。写真を撮られる方も疲れるでしょう?」



 御空さんに促されて椅子に座るまでの間も、ボクは千歳さんから目が離せなかった。本人は紅茶を一口飲んだら生き返ったようで、倒れる前と変わらない顔。なんなら今、かぼちゃクッキーに手を伸ばしている。


 視界の端に、ボクの視線を辿った助さんが面白そうな様子で御空さんに目配せしたのが見えた。御空さんは苦笑いを浮かべると、隣に座る千歳さんの脇腹を肘で軽く突いた。千歳さんは薄っすら眉間にしわを寄せてため息を吐くと、ティーカップを置いてボクに向き直った。



「サクラ」


「は、はい!」



 口封じでもされるのではないかと肩をびくつかせると、助さんが盛大に笑いだした。御空さんも助さんを宥めようとしてはいるけれど、肩が笑ってしまっている。



「いや、うん。ごめんごめん」



 笑いすぎて流れた涙を拭った助さんが手で口を押えて声を抑えると、千歳さんは顔を歪めた。何が起きているのか分からないし、千歳さんは怒っていそう。ボクが戸惑っていることに気が付いた御空さんは、コホンと一つ咳ばらいをして穏やかに笑った。



「すみません、驚かせましたね。とりあえず、千歳は全く怒っていないのでそこは安心してくださいね」



 御空さんの言葉で、知らず知らずのうちに入っていた肩の力がふっと抜けた。ついでに美味しそうな香りにつられて出てこようとしていたのに緊張で出られなくなっていたよだれが垂れそうになって、慌てて飲み込んだ。



「すまないな。自覚はないのだが、私は恥ずかしくなると顔が怖くなるらしい。怖い思いをさせたのであれば本当に申し訳ない」


「怖いなんてものじゃないよね。まさに鬼! 鬼の形相だよ!」


「助六」


「わ、ごめんって、冗談! めちゃくちゃ冗談だから!」



 両手を前に出して千歳さんの怒りを宥めようとする助さんに、千歳さんは身を乗り出して助さんの頭を両手をグーにしてこめかみをグリグリと押した。



「痛い痛い! めっちゃ痛い! ごめんなさいでした!」


「まったく」



 ため息を吐いた千歳さんが助さんを解放してあげると、助さんはひぃひぃ言いながらまだ悶えていた。



「見ての通り、千歳が軽く切れるとこうなりますから気を付けてくださいね」



 何事もなかったかのように平然と紅茶を啜る御空さんの言葉にボクは思い切りブンブン首を縦に振った。あんなの、電流実験と同じくらい痛そうだ。


 痛みに鈍感になるきっかけになったあの実験は、いくら痛みに鈍くても長い時間感じなければいけないからかなり辛い。今はもうすっかり感じないけれど、さっきまで感じていた足の裏の痛みと同じだ。



「怒るのも疲れるからな、そんなに怒ることはないから安心してくれ」


「そうですね。やられるのは琥珀と助くらいですかね」


「こいつらといるとつい精神年齢が下がる」



 千歳さんが深くため息を吐くと、タイミングを見計らったかのように玄関が開いた。琥珀さんはリビングに入ってすぐにキッチンで手を洗った。



「ただいま」


「おかえり」



 死屍累々、といった雰囲気の助さんを見た琥珀さんは、全てを察したように苦笑いを浮かべた。


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