第十一話  女嬬として母として

「入りますよ、日佐留売ひさるめ。」

「どうぞ、母刀自ははとじ。」


 日佐留売ひさるめがこたえる。

 日佐留売ひさるめの部屋に姿をあらわしたのは、日佐留売と三虎の母刀自(母親の尊称)、鎌売かまめだ。


 鎌売は腰を痛めている。

 ゆっくり中に入ってきて、さっと部屋のなかを見回した。




     *   *   *




 鎌売は部屋のなかを見てとった。

 倚子に座る日佐留売。

 そばには、生後六ヶ月の緑兒みどりこ(赤ちゃん)、多知波奈売たちばなめが、緑兒みどりこ用の寝台で寝ている。

 寝床には古志加。

 寝床の側には三虎が立つ。

 奥の部屋には、難隠人ななひとさまと浄足きよたりが寝ているはずだ。

 戸で仕切られて、姿は見えない。


「日佐留売。自分の緑兒みどりこ(赤ちゃん)がいては、難隠人さまの世話はできません。

 なぜ多知波奈売を連れてきたのです?」


 厳しく鎌売は問う。


「オレが呼んだんだ、母刀自。どうしても姉上のお力が必要だ。」

「三虎はおだまり!」


 緑兒みどりこ(赤ちゃん)を起こさぬよう、小声で、だが鋭く鎌売は言った。


「自分の子を産むなとは言いません。緑兒みどりこ乳母ちおもをつけろ、と言ったでしょう。

 だけどおまえは乳母ちおもをつけなかった。」

「そうです。」


 凛とした声で日佐留売は言う。


「あたしの子です。乳がでるんです。あたしが育てます。」

「ここに来るなら、多知波奈売たちはなめ秋間郷あきまのさとに置いてくるべきと言ってるんです、日佐留売!」




     *   *   *





 母刀自は譲らない。知ってる。

 母刀自を見据え、日佐留売はすっと背筋をのばし、ぐっと全身に力をみなぎらせた。

 ジジ、と蝋燭ろうそくの火が揺れる。

 ここからの話しは、三虎には聴かせたくない。この優しい弟には。


「三虎。古志加はあたしがるわ。心配せず、もう行きなさい。味澤相あじさはふをや(良い夜を)。」


 三虎は気遣うようにこちらを見て、ちらっと古志加を見た。


「……母刀自、姉上。味澤相あじさはふをや。」

味澤相あじさはふをや。」


 母刀自がいつものピンと張った声で挨拶に答えた。

 三虎は部屋を出ていった。

 



「なぜ、あたしのようにできないのです、日佐留売。」


 母刀自は厳しい声をだした。





    *   *   *





 母刀自は、大川さまの乳母ちおもとして、大川さまと三虎を一緒に、手厚く、育てた。


 一方、長女の日佐留売と長男の布多未ふたみは、秋間郷あきまのさと石上部君いそのかみべのきみの本屋敷に住む、祖母のもとに預けられ、育てられた。


 群馬郷くるまのさと上毛野君かみつけののきみの屋敷のそばに、石上部君いそのかみべのきみの屋敷があり、父はそこに住んでいた。


 でも、日佐留売も、布多未も、祖母の手、秋間郷の本屋敷に預けられた。


「いくら群馬郷くるまのさとに屋敷があっても、おまえの母刀自は、加巴理かはりさま(大川の幼名)の乳母ちおも

 名誉ある立場さ。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷に住み込んで、夜中も緑兒みどりこにお乳をあげているんだよ。

 衛士団副長であるおまえの父も、朝早く、夜遅い。

 母父おもちちの顔が見れない屋敷に、行って、どうする気だい?

 ここにいなさい。」


 祖母にそう言われて、育った。

 加巴理さまの乳母ちおもは名誉な立場。

 それは、幼い日佐留売にも、誇らしい気持ちを呼び起こさせた。

 時々、父上も母刀自も会いに来てくれるし、母刀自は、


「十四歳になったら、おまえを上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官とします。

 いずれは女嬬にょじゅとして、女官を束ねられるようになりなさい。期待していますよ。」


 と言ってくれた。

 将来は、華々しく、女嬬にょじゅとして女官の上に立つのだ。

 今は秋間郷あきまのさと、祖母のもとで暮らすのは仕方のないこと、と日佐留売も思った。


 だが布多未ふたみは、武芸を父が仕込むから、と、七歳には、群馬郷の屋敷にうつされ、母父おもちちと暮らしはじめた。


 その頃には、母刀自も、上毛野君かみつけののきみの屋敷に住み込みではなく、群馬郷の屋敷に、夜は帰宅するようになっていた……。





 でも、おみなの日佐留売は、十四歳で上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官になるまで、ずっと秋間郷あきまのさとだった。






     *    *   *






「何不自由なく育ててもらいました。でもあたしは、ずっと、ずっと、秋間郷あきまのさとで、寂しかったのです、母刀自……!」


 日佐留売が力をこめて言うと、母刀自が息をのんだ。

 今まで、このような恨み言を言ったことはない。


「あたしの寂しさは、布多未にも、三虎にもわかりません。

 母刀自にもわかりません。味わった者にしか……。

 あたしは、多知波奈売たちばなめにそのような思いはさせません。

 必ず自分の手で育てます。」


 日佐留売に気圧されたように、


「おまえ……、でも……。」


 と母刀自がつぶやいた。


「必要とされるなら、難隠人ななひとさまの世話も、立派に務めてみせます。

 難隠人ななひとさまも、浄足きよたりも、多知波奈売たちばなめも、あたしの乳を飲んだ子よ!」


 つい声が大きくなった。


「ふぎゃあ……。」


 多知波奈売たちばなめが泣き始めてしまった。


「おお、よしよし。」


 日佐留売はすぐ多知波奈売を抱き上げる。

 下を触る。濡れてはいない。

 優しくゆすり、


「驚かせたわね……。大丈夫よ。お腹すいた? んん……?」


 と話しかける。

 奥の戸がタン、と開いて、目をこすりながら難隠人さまがでてきた。

 泣き声で起こしてしまったようだ。


「あら……、申しわけありません。

 難隠人さま。」


 と日佐留売は言い、乳をだす準備をする。


「ほら、ごらんなさい。緑兒みどりこの泣き声を甘く見てはいけませんよ。」


 と母刀自が言う。

 難隠人さまがまばたきをして、母刀自を見た。


多知波奈売たちばなめを責めているのか? 鎌売かまめ。」


 乳をふくみはじめた多知波奈売のほうに、難隠人さまは歩いてきた。


「たしかに泣き声はうるさいが、多知波奈売を責めてはいけない、鎌売。

 奮励努力ふんれいどりょくして泣いてるんだ。」


 のぞきこみ、人差し指を多知波奈売に差し出す。





    *   *   *




 多知波奈売は、難隠人の人差し指を、ぱっと握りしめた。


「ふふ……。」


 と難隠人は笑みをもらす。


(かわいい。)


 自分の人差し指に、緑兒みどりこの細い指は、五指すべてすっぽり収まってしまう。

 細くて、ちっちゃいのに、ちゃんと指は五本ある。

 小さい爪も生えている。

 当たり前のことなのだが、それだけのことが、とても愛おしい。


「かわいいなぁ……。」


 うっとりとつぶやくと、乳を飲み終えた多知波奈売と目が合う。

 日佐留売が緑兒みどりこ(赤ちゃん)を縦に抱き、とんとん、と背中をたたきはじめた。


「ねえ、日佐留売。ずっといてよ。もう秋間郷に帰ってしまわないで。ね、多知波奈売も一緒に……。いいでしょう、ねぇ?」


 と日佐留売の膝にまとわりつく。

 日佐留売はふふ、と笑い、


「では難隠人さまも、この子を守ってくださいますか。

 まだ一人で歩くこともできない、強く殴られれば、それだけで死んでしまう、か弱い、守りを必要としてる命なのですよ。」

「守る! 私はおのこだから、多知波奈売を守れるよ!」


 難隠人は胸をそらして、嬉しく笑いながら言った。

 げふ、とげっぷをした多知波奈売が、


「あぁ……ん。」


 と泣きはじめた。

 日佐留売は腕に抱いた多知波奈売を、ゆるく揺すりながら、にっこりと難隠人を見下ろした。


「ええ……、お守り下さいませ。

 あたしと多知波奈売はどこにも行きません。」


 そして無言の鎌売の方を日佐留売は見て、


「ここにいますわ。」


 と言った。


(やったぁ!)


 鎌売は退去の挨拶をして、なんだか元気のない様子で部屋を出ていった。

 辛い目にあった古志加は、顔は赤いが、良く眠っている。

 日佐留売に寝かされる前に、


「朝になっても、ここにいてね。」


 とお願いして、難隠人は穏やかに眠りについた。







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