第九話
雨は小雨となり、じきにやんだ。
奥の、戸で仕切られた部屋では、
日佐留売がこの部屋に連れ帰った
古志加は熱をだした。
今は日佐留売の寝床に寝かせている。
床に直接敷くことになるが、この部屋には、女官が寝れるよう、もともと布団が備えてある。
今夜は古志加とこの部屋で寝よう。
日佐留売はそう思いつつ、居心地悪そうに、古志加のそばに立つ弟に声をかける。
「おまえの
おまえから助けろ、ってことだったのね?
間に合って幸いだわ、三虎。」
「違うんだ姉上……。オレは、干し杏を食べない古志加に苛立って……。」
ともごもご言った。
日佐留売は、おや? と三虎を見る。
今日の三虎はずいぶん表情が豊かだ。
それが苦悩の表情であっても。
気のせいかしら?
* * *
三虎は熱にうなされる古志加を見ながら、今日の花麻呂の話を思い返す。
まず
そして
自分で何があったか三虎に話したい、と寝ないで頑張っていたそうだ。
(古志加の命があって良かった。)
と心から花麻呂に感謝しつつ、三虎は人目を避けて、広庭の隅に花麻呂を呼び出した。
「で……。古志加は知ってるのか。口から息を吹き込まれたことを。」
花麻呂はそう言ってなかったが、そうだろうと踏んで、きいてみた。
花麻呂は動きが固まり、
あごに指をあて、
上を見て、
下を見た。
「してません。」
「
三虎が問うと、花麻呂は、
上を見て、
下を見た。
「しました。古志加は気がついてないと思います。」
と言い、ビッと両手のひらをこちらに向けた。
「だけど、
あの状況だったら、オレは
たとえ、相手があなたでも。」
と真剣な顔で言うので、
「おまえ……。」
と三虎は言い、つい二人で見つめ合ってしまった。
変な雰囲気になった。
三虎はこの時点ですでに、
夜番あけの花麻呂をねぎらって、あとで木綿
「う……、は……。」
と熱にうかされた古志加が、苦しそうにつぶやく。
(古志加、花麻呂の妻になってしまえ。)
花麻呂は自分の
三虎はそう思う。
「泣かないで……。」
眉をゆがめ、辛そうに首をふり、古志加はつぶやく。髪が顔にかかる。
三虎は寝床のそばに座り、その髪をはらってやる。
その唇を見る。
(……さっきは危ないところだった。)
オレはどうも、やりすぎてしまうところがある。
気をつけないとな、とため息をつく。
姉上が間に合っていなかったら。
古志加の口を己の口で
口が少しでも開いたら、舌を入れ、歯をくいしばっていたら、歯を開くまで、いくらでも舌で歯をなぞり、必ず歯を開かせ、古志加の舌の上に干し杏を置いてくる。
そこまでやるところだった。
口づけしそうなだけで、あれだけ泣く娘に。
間違いなく、大泣きさせてしまうところだった。
「
と古志加がつぶやき、目尻から涙をこぼした。
「姉上、ちょっと古志加と二人きりにしてもらえませんか。」
と三虎が言うと、日佐留売が無言で睨んだ。
信用がない、と心の中でガクリとうなだれながら、三虎は身じろぎした。
しょうがない、恥ずかしいけど、あれをやるか。
三虎はそっと古志加の耳元に口をよせ、
「
と優しくささやいた。
きつく歪められていた古志加の眉が、本当に? というように、戸惑うように動く。
一粒、二粒、涙をこぼす。
その涙をぬぐい、
「大丈夫だ、大丈夫だ……。古流波。」
重ねてささやくと、
「ふ……。」
古志加の口から息が抜け、表情が楽になる。
「そうだ古流波。安心して、よく眠れ。」
古志加が静かになった。
落ち着いた寝息をたてる。
三虎は顔を離した。
後ろをふりむき、口に手を当て目を見開いてる姉に、
「情けがあるなら、何もおっしゃらないで下さい。」
と先制して言う。
恥ずかしさで頬のあたりに力が入っているのを自覚し、三虎は、ふっ、と息をはいた。
三虎は気がついた。
トン、カツカツ。
トン、カツカツ。
杖をつく鼻高沓の足音が、
(……そろそろか。)
母刀自、
「入りますよ、日佐留売。」
「どうぞ、母刀自。」
日佐留売がこたえる。
鎌売は腰を痛めている。
ゆっくり中に入ってきて、さっと部屋のなかを見回した。
* * *
鎌売は部屋のなかを見てとった。
倚子に座る日佐留売。
そばには、生後六ヶ月の
寝床には古志加。
寝床の側には三虎が立つ。
奥の部屋には、
戸で仕切られて、姿は見えない。
「日佐留売。自分の
なぜ多知波奈売を連れてきたのです?」
厳しく鎌売は問う。
「オレが呼んだんだ、母刀自。どうしても姉上のお力が必要だ。」
「三虎はおだまり!」
「自分の子を産むなとは言いません。
だけどおまえは
「そうです。」
凛とした声で日佐留売は言う。
「あたしの子です。乳がでるんです。あたしが育てます。」
「ここに来るなら、多知波奈売を
* * *
母刀自は譲らない。知ってる。
母刀自を見据え、日佐留売はすっと背筋をのばし、ぐっと全身に力をみなぎらせた。
ジジ、と
ここからの話しは、三虎には聴かせたくない。この優しい弟には。
「三虎。古志加はあたしが
三虎は気遣うようにこちらを見て、ちらっと古志加を見た。
「……母刀自、姉上。
「
母刀自がいつものピンと張った声で挨拶に答えた。
三虎は部屋を出ていった。
「なぜ、あたしのようにできないのです、日佐留売。」
母刀自は、大川さまが
一方、長女のあたしと長男の
だが
「何不自由なく育ててもらいました。でもあたしは、ずっと、ずっと、秋間郷で、寂しかったのです、母刀自……!」
力をこめて言うと、母刀自が息をのんだ。
今まで、このような恨み言を言ったことはない。
「あたしの寂しさは、布多未にも、三虎にもわかりません。
母刀自にもわかりません。味わった者にしか……。
あたしは、
必ず自分の手で育てます。」
日佐留売に気圧されたように、
「おまえ……、でも……。」
と母刀自がつぶやいた。
「必要とされるなら、
つい声が大きくなった。
「ふぎゃあ……。」
多知波奈売が泣き始めてしまった。
「おお、よしよし。」
日佐留売はすぐ多知波奈売を抱き上げる。
下を触る。濡れてはいない。
優しくゆすり、
「驚かせたわね……。大丈夫よ。お腹すいた? んん……?」
と話しかける。
奥の戸がタン、と開いて、目をこすりながら難隠人さまがでてきた。
泣き声で起こしてしまったようだ。
「あら……、申しわけありません。
難隠人さま。」
と日佐留売は言い、乳をだす準備をする。
「ほら、ごらんなさい。
と母刀自が言う。
難隠人さまがまばたきをして、母刀自を見た。
「
乳をふくみはじめた多知波奈売のほうに、難隠人さまは歩いてきた。
「たしかに泣き声はうるさいが、多知波奈売を責めてはいけない、鎌売。
のぞきこみ、人差し指を多知波奈売に差し出す。
* * *
多知波奈売は、難隠人の人差し指を、ぱっと握りしめた。
「ふふ……。」
と難隠人は笑みをもらす。
(かわいい。)
自分の人差し指に、
細くて、ちっちゃいのに、ちゃんと指は五本ある。
小さい爪も生えている。
当たり前のことなのだが、それだけのことが、とても愛おしい。
「かわいいなぁ……。」
うっとりとつぶやくと、乳を飲み終えた多知波奈売と目が合う。
日佐留売が
「ねえ、日佐留売。ずっといてよ。もう秋間郷に帰ってしまわないで。ね、多知波奈売も一緒に……。いいでしょう、ねぇ?」
と日佐留売の膝にまとわりつく。
日佐留売はふふ、と笑い、
「では難隠人さまも、この子を守ってくださいますか。
まだ一人で歩くこともできない、強く殴られれば、それだけで死んでしまう、か弱い、守りを必要としてる命なのですよ。」
「守る! 私は
難隠人は胸をそらして、嬉しく笑いながら言った。
げふ、とげっぷをした多知波奈売が、
「あぁ……ん。」
と泣きはじめた。
日佐留売は腕に抱いた多知波奈売を、ゆるく揺すりながら、にっこりと難隠人を見下ろした。
「ええ……、お守り下さいませ。
あたしと多知波奈売はどこにも行きません。」
そして無言の鎌売の方を日佐留売は見て、
「ここにいますわ。」
と言った。
(やったぁ!)
鎌売は退去の挨拶をして、なんだか元気のない様子で部屋を出ていった。
辛い目にあった古志加は、顔は赤いが、良く眠っている。
日佐留売に寝かされる前に、
「朝になっても、ここにいてね。」
とお願いして、難隠人は穏やかに眠りについた。
↓挿し絵です。
https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330667034063574
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