第九話

 響神なるかみ(カミナリ)は激しいが、半刻もすれば、もう遠くに去る。

 雨は小雨となり、じきにやんだ。



 いぬはじめの刻。(夜7時)


 日佐留売ひさるめの部屋。

 奥の、戸で仕切られた部屋では、難隠人ななひと浄足きよたりが寝ている。

 日佐留売がこの部屋に連れ帰った古志加こじかを見て、二人とも泣いていたが、日佐留売が寝る時間だからと寝かせた。


 古志加は熱をだした。

 今は日佐留売の寝床に寝かせている。

 床に直接敷くことになるが、この部屋には、女官が寝れるよう、もともと布団が備えてある。

 今夜は古志加とこの部屋で寝よう。

 日佐留売はそう思いつつ、居心地悪そうに、古志加のそばに立つ弟に声をかける。


「おまえの卯団うのだん少志しょうしが、古志加を助けてほしい、戻ってきて欲しい、と使いに来たから来てみれば……。

 おまえから助けろ、ってことだったのね?

 間に合って幸いだわ、三虎。」


 辛辣しんらつに言ってやると、三虎は眉根を詰め、ぎゅっと目をつむった。


「違うんだ姉上……。オレは、干し杏を食べない古志加に苛立って……。」


 ともごもご言った。

 日佐留売は、おや? と三虎を見る。

 今日の三虎はずいぶん表情が豊かだ。

 それが苦悩の表情であっても。

 気のせいかしら?




    *   *   *




 三虎は熱にうなされる古志加を見ながら、今日の花麻呂の話を思い返す。



 まず荒弓あらゆみが、話がある、と三虎を呼びにきた。

 そして卯団うのだん衛士舎えじしゃで、池で溺れかけた古志加の話しを、眠くてフラフラしている花麻呂から直接きいた。

 自分で何があったか三虎に話したい、と寝ないで頑張っていたそうだ。


(古志加の命があって良かった。)


 と心から花麻呂に感謝しつつ、三虎は人目を避けて、広庭の隅に花麻呂を呼び出した。


「で……。古志加は知ってるのか。口から息を吹き込まれたことを。」


 花麻呂はそう言ってなかったが、そうだろうと踏んで、きいてみた。

 花麻呂は動きが固まり、

 あごに指をあて、

 上を見て、

 下を見た。


「してません。」

天地乎乞禱あまつちにこいのむうけひできるのか。(天地の神にちかえるのか。)」


 三虎が問うと、花麻呂は、

 上を見て、

 下を見た。


「しました。古志加は気がついてないと思います。」


 と言い、ビッと両手のひらをこちらに向けた。


「だけど、うけひします。

 あの状況だったら、オレはおのこであろうとも、同じことをします。

 たとえ、相手があなたでも。」


 と真剣な顔で言うので、


「おまえ……。」


 と三虎は言い、つい二人で見つめ合ってしまった。

 変な雰囲気になった。



 三虎はこの時点ですでに、薩人さつひとを日佐留売のもとに使いにやっている。

 夜番あけの花麻呂をねぎらって、あとで木綿一端いったんを届ける、と伝え、寝かせた。




「う……、は……。」


 と熱にうかされた古志加が、苦しそうにつぶやく。


(古志加、花麻呂の妻になってしまえ。)


 花麻呂は自分のおみなを幸せにできるおのこであろう。

 三虎はそう思う。



「泣かないで……。」


 眉をゆがめ、辛そうに首をふり、古志加はつぶやく。髪が顔にかかる。

 三虎は寝床のそばに座り、その髪をはらってやる。

 その唇を見る。


(……さっきは危ないところだった。)


 オレはどうも、やりすぎてしまうところがある。

 気をつけないとな、とため息をつく。

 姉上が間に合っていなかったら。

 古志加の口を己の口でふさぎ、古志加が口を閉じたら、唇の房を唇で引き、口のはじに口づけ、唇を重ね、舌で閉じた口の合わせをなぞり、閉じる力を緩ませる。

 口が少しでも開いたら、舌を入れ、歯をくいしばっていたら、歯を開くまで、いくらでも舌で歯をなぞり、必ず歯を開かせ、古志加の舌の上に干し杏を置いてくる。

 そこまでやるところだった。

 口づけしそうなだけで、あれだけ泣く娘に。

 間違いなく、大泣きさせてしまうところだった。


母刀自ははとじ……。」


 と古志加がつぶやき、目尻から涙をこぼした。


「姉上、ちょっと古志加と二人きりにしてもらえませんか。」


 と三虎が言うと、日佐留売が無言で睨んだ。

 信用がない、と心の中でガクリとうなだれながら、三虎は身じろぎした。

 しょうがない、恥ずかしいけど、あれをやるか。



 三虎はそっと古志加の耳元に口をよせ、

古流波こるは。……大丈夫だ、古流波。よく眠れ。」


 と優しくささやいた。

 きつく歪められていた古志加の眉が、本当に? というように、戸惑うように動く。

 一粒、二粒、涙をこぼす。

 その涙をぬぐい、


「大丈夫だ、大丈夫だ……。古流波。」


 重ねてささやくと、


「ふ……。」


 古志加の口から息が抜け、表情が楽になる。


「そうだ古流波。安心して、よく眠れ。」


 古志加が静かになった。

 落ち着いた寝息をたてる。

 三虎は顔を離した。

 後ろをふりむき、口に手を当て目を見開いてる姉に、


「情けがあるなら、何もおっしゃらないで下さい。」


 と先制して言う。

 恥ずかしさで頬のあたりに力が入っているのを自覚し、三虎は、ふっ、と息をはいた。



 三虎は気がついた。


 トン、カツカツ。

 トン、カツカツ。


 杖をつく鼻高沓の足音が、簀子すのこ(廊下)を近づいてくる。


(……そろそろか。)


 母刀自、鎌売かまめだ。


「入りますよ、日佐留売。」

「どうぞ、母刀自。」


 日佐留売がこたえる。

 鎌売は腰を痛めている。

 ゆっくり中に入ってきて、さっと部屋のなかを見回した。




     *   *   *




 鎌売は部屋のなかを見てとった。

 倚子に座る日佐留売。

 そばには、生後六ヶ月の緑兒みどりこ(赤ちゃん)、多知波奈売たちばなめが、緑兒みどりこ用の寝台で寝ている。

 寝床には古志加。

 寝床の側には三虎が立つ。

 奥の部屋には、難隠人ななひとさまと浄足きよたりが寝ているはずだ。

 戸で仕切られて、姿は見えない。


「日佐留売。自分の緑兒みどりこ(赤ちゃん)がいては、難隠人さまの世話はできません。

 なぜ多知波奈売を連れてきたのです?」


 厳しく鎌売は問う。


「オレが呼んだんだ、母刀自。どうしても姉上のお力が必要だ。」

「三虎はおだまり!」


 緑兒みどりこ(赤ちゃん)を起こさぬよう、小声で、だが鋭く鎌売は言った。


「自分の子を産むなとは言いません。緑兒みどりこ乳母ちおもをつけろ、と言ったでしょう。

 だけどおまえは乳母ちおもをつけなかった。」

「そうです。」


 凛とした声で日佐留売は言う。


「あたしの子です。乳がでるんです。あたしが育てます。」

「ここに来るなら、多知波奈売を秋間郷あきまのさとに置いてくるべきと言ってるんです、日佐留売!」




     *   *   *





 母刀自は譲らない。知ってる。

 母刀自を見据え、日佐留売はすっと背筋をのばし、ぐっと全身に力をみなぎらせた。

 ジジ、と蝋燭ろうそくの火が揺れる。

 ここからの話しは、三虎には聴かせたくない。この優しい弟には。


「三虎。古志加はあたしがるわ。心配せず、もう行きなさい。味澤相あじさはふをや(良い夜を)。」


 三虎は気遣うようにこちらを見て、ちらっと古志加を見た。


「……母刀自、姉上。味澤相あじさはふをや。」

味澤相あじさはふをや。」


 母刀自がいつものピンと張った声で挨拶に答えた。

 三虎は部屋を出ていった。






「なぜ、あたしのようにできないのです、日佐留売。」


 母刀自は、大川さまが緑兒みどりこ(赤ちゃん)の時は、乳母ちおもとして上毛野君かみつけののきみの屋敷で寝泊まりをし、大川さまと三虎を手厚く、一緒に育てた。


 一方、長女のあたしと長男の布多未ふたみは、秋間郷あきまのさと石上部君いそのかみべのきみの本屋敷に住む、祖母と、父の同母妹いもうと夫妻めおとのもとに預けられ、育てられた。


 上毛野君かみつけののきみの屋敷のそばに、石上部君いそのかみべのきみの屋敷もあるが、鎌売は、大川さまが緑兒みどりこの頃はほとんど帰らず、当時、衛士団副長だった父も、朝早く、夜遅いことがしょっちゅうで、仕方のないことではあった。


 だが布多未ふたみは、武芸を父が仕込むから、と、七歳には上毛野君かみつけののきみの屋敷近くの、石上部君いそのかみべのきみの屋敷にうつされ、母父おもちちと暮らしはじめた。


 おみなのあたしは、十四歳で上毛野君かみつけののきみの屋敷の女官になるまで、ずっと秋間郷あきまのさとだった。


「何不自由なく育ててもらいました。でもあたしは、ずっと、ずっと、秋間郷で、寂しかったのです、母刀自……!」


 力をこめて言うと、母刀自が息をのんだ。

 今まで、このような恨み言を言ったことはない。


「あたしの寂しさは、布多未にも、三虎にもわかりません。

 母刀自にもわかりません。味わった者にしか……。

 あたしは、多知波奈売たちばなめにそのような思いはさせません。

 必ず自分の手で育てます。」


 日佐留売に気圧されたように、


「おまえ……、でも……。」


 と母刀自がつぶやいた。


「必要とされるなら、難隠人ななひとさまの世話も、立派に務めてみせます。

 難隠人ななひとさまも、浄足きよたりも、多知波奈売たちばなめも、あたしの乳を飲んだ子よ!」


 つい声が大きくなった。


「ふぎゃあ……。」


 多知波奈売が泣き始めてしまった。


「おお、よしよし。」


 日佐留売はすぐ多知波奈売を抱き上げる。

 下を触る。濡れてはいない。

 優しくゆすり、


「驚かせたわね……。大丈夫よ。お腹すいた? んん……?」


 と話しかける。

 奥の戸がタン、と開いて、目をこすりながら難隠人さまがでてきた。

 泣き声で起こしてしまったようだ。


「あら……、申しわけありません。

 難隠人さま。」


 と日佐留売は言い、乳をだす準備をする。


「ほら、ごらんなさい。緑兒みどりこ(赤ちゃん)の泣き声を甘く見てはいけませんよ。」


 と母刀自が言う。

 難隠人さまがまばたきをして、母刀自を見た。


多知波奈売たちばなめを責めているのか? 鎌売かまめ。」


 乳をふくみはじめた多知波奈売のほうに、難隠人さまは歩いてきた。


「たしかに泣き声はうるさいが、多知波奈売を責めてはいけない、鎌売。

 奮励努力ふんれいどりょくして泣いてるんだ。」


 のぞきこみ、人差し指を多知波奈売に差し出す。





    *   *   *




 多知波奈売は、難隠人の人差し指を、ぱっと握りしめた。


「ふふ……。」


 と難隠人は笑みをもらす。


(かわいい。)


 自分の人差し指に、緑兒みどりこ(赤ちゃん)の細い指は、五指すべてすっぽり収まってしまう。

 細くて、ちっちゃいのに、ちゃんと指は五本ある。

 小さい爪も生えている。

 当たり前のことなのだが、それだけのことが、とても愛おしい。


「かわいいなぁ……。」


 うっとりとつぶやくと、乳を飲み終えた多知波奈売と目が合う。

 日佐留売が緑兒みどりこ(赤ちゃん)を縦に抱き、とんとん、と背中をたたきはじめた。


「ねえ、日佐留売。ずっといてよ。もう秋間郷に帰ってしまわないで。ね、多知波奈売も一緒に……。いいでしょう、ねぇ?」


 と日佐留売の膝にまとわりつく。

 日佐留売はふふ、と笑い、


「では難隠人さまも、この子を守ってくださいますか。

 まだ一人で歩くこともできない、強く殴られれば、それだけで死んでしまう、か弱い、守りを必要としてる命なのですよ。」

「守る! 私はおのこだから、多知波奈売を守れるよ!」


 難隠人は胸をそらして、嬉しく笑いながら言った。

 げふ、とげっぷをした多知波奈売が、


「あぁ……ん。」


 と泣きはじめた。

 日佐留売は腕に抱いた多知波奈売を、ゆるく揺すりながら、にっこりと難隠人を見下ろした。


「ええ……、お守り下さいませ。

 あたしと多知波奈売はどこにも行きません。」


 そして無言の鎌売の方を日佐留売は見て、


「ここにいますわ。」


 と言った。


(やったぁ!)


 鎌売は退去の挨拶をして、なんだか元気のない様子で部屋を出ていった。

 辛い目にあった古志加は、顔は赤いが、良く眠っている。

 日佐留売に寝かされる前に、


「朝になっても、ここにいてね。」


 とお願いして、難隠人は穏やかに眠りについた。








↓挿し絵です。

https://kakuyomu.jp/users/moonpost18/news/16817330667034063574

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