第八話  響神 〜なるかみ〜

「あたくしが良いと言うまで、ここに立っていなさい。

 水も食べ物も、何もしょくしてはいけません。」


 そう藤売ふじめは言い、古志加こじか洗濯桶せんたくおけを掲げさせた。

 古志加の肩から指まである大きさの洗濯桶を、両手と頭で支えさせ、洗濯桶になみなみと水を注いだ。


「もちろん、水をこぼしても許しません。

 その時は、福益売ふくますめにも同じ罰ですからね……。」


 と美しく恐ろしく笑い、藤売は去っていった。




    *   *   *




 さるはじめの刻。(午後3時)


 洗濯桶を頭の上に捧げ持ち、古志加は一人、簀子すのこ(廊下)に立つ。

 風がでてきた。

 なかなか洗濯桶が重い。

 首をすこしでも動かすと、水がこぼれそうになる。


(お腹へったなぁ……。)


 昼餉を食べそこねた。

 午前中は池で溺れかけたし、体力的にはなかなかきつい。

 でもあたしは負けない。

 負けるわけにはいかない。

 難隠人ななひとさまのために。

 日佐留売ひさるめのために。

 三虎のために。


(……三虎。)


 古志加は気持ちがしょんぼりした。

 昨日の夜、酷いことを言ってしまってから、会えてない。

 会って、許しを請いたい。

 でも、冷たい目で見られたら、どうしよう。

 ばしゃり。

 頭の上の桶の水が波打つ。

 おっと、いけない。

 うつむき加減になっていたようだ。

 しゃんとしないと。


「……古志加! 古志加!」


 難隠人さまの声がした。

 難隠人さまと浄足きよたりと福益売が来た。

 福益売は頭と腕にはし布をまいてる。

 痛々しい。


「福益売……! こんなところに、二人を連れてきちゃいけない。」


 と古志加が注意すると、


「だって、だって、古志加、こんな、ひどすぎるわ……。」


 と福益売が泣いた。


「古志加っ!」


 難隠人さまが古志加の腰に抱きついた。

 ばしゃり、と頭の上の水がなって、少しこぼれた。


「あ……、ごめん。」


 と難隠人さまが慌てて離れ、気遣わしげに古志加を見あげた。


「古志加、頬が切れてるよ。」


 と、オロオロと浄足が言う。


「大丈夫。」


 と古志加はにっこり笑い、


「福益売も、怪我はどう?」


 ときいた。


「治るまで、ちょっと日にちはかかるけど、跡は残らないって言われたわ。」


 と福益売が、古志加の左頬に手布をあてようとするが、


「もう血は止まってる。平気。」


 と明るく古志加は言った。


「古志加、待ってて、必ず助けるから。」


 と難隠人さまは言い、


「助けを呼んでくるから!」


 と急ぎ足で去っていった。


「あたしなら平気ですから!」


 とその背に古志加は声をかける。

 



    





 しばらくして、風の強く吹くなか、大川さまと三虎が現れた。

 大川さまはいつもと変わらないが、古志加を見て、三虎が明らかに狼狽した。

 大川さまは三虎を付き従えて歩いてくる。胸下まで垂らした美しい長髪が、風に散らばる。


「難隠人に言われて来た。古志加、何をしている?」


 大川さまは静かに問う。


「藤売さまが福益売をムチ打つのを止め、女官にあるまじき発言をしました。

 ゆえに、罰を頂戴しています。」


 古志加も静かにかえす。

 大川さまは静かに頷き、


「では、引き続き罰を頂戴するように。」


 と言った。古志加は、


「はい。」


 とだけ答えたが、


「大川さま……! それは……!」


 と三虎が大川さまの後ろで大きな声をだす。

 大川さまは銀花錦石ぎんかにしきいしかんざしを煌めかせながら振り返り、


「三虎。古志加は難隠人付きの女官だが、今は藤売さまが預かっていると聞いた。

 藤売さまが与えた罰に、口出ししてはいけない。

 私も、おまえも。」

「どうか曲げて……!」


 三虎が食い下がる。

 大川さまが少し思案顔になる。




     *   *   *





 三虎が辛そうな顔で大川に懇願している。

 大川としても、三虎がここまで言うなら、と心は動いたが、三虎が知らないこともある。

 ……昨日、藤売を袖にしたんだよね!

 大川は、自分から夜忍んでくるおみなだけは、絶対に部屋に入れないと決めている。

 いずれ、藤売と婚姻したら、きちんとしようとは思っている。

 藤売は家柄が良い。

 婚姻することになるだろう。

 年も釣り合ってるし、美人だし……。

 でも怖いんだよね! 顔が。

 今もこうやって女官にきつくあたってるし。

 なんであんなに怖いんだろう。

 ここで、大川が古志加を助けたら、昨日の今日だ。

 藤売がどんな態度にでるかわからない。


(怖────!)


 今思えば、比多米売ひたらめも怖かった。

 当時の私は気がつけなかった。

 どうして私は怖いおみなに縁があるんだ。

 自分から夜、忍んでくる女と、怖い女だけは遠慮したい。


 大川は目の前の、大きい桶を頭上に掲げて、顔色悪く立っている女官を見る。

 母刀自ははとじ鎌売かまめも、女官にこのような罰は与えない。

 古志加は左頬にムチ打たれた跡があるが、目の光は強く、きりりと口もとを引き結んでいる。

 気力では負けてないようだ。

 可哀想ではあるが……。


「藤売さまが正式に妻になれば、当たり前のことになるぞ。慣れろ。」


 大川は切り捨てた。そのまま古志加を見て、


「礼は良い。」


 ときびすをかえす。



   *   *   *



 たしかに頭に洗濯桶があっては、礼の姿勢はとれない。

 古志加は目だけ下に落とし、気持ちだけで礼の姿勢をとる。

 三虎が狼狽した顔で、こちらを見て、立ち去る大川さまを見て、またこちらを見た。

 口が何か言いたげに開いているが、結局、何も言わない。


(あたしなら大丈夫だから。三虎。)


 目だけで、そう三虎に伝える。

 三虎は、大川さまの従者として仕えてる最中だ。

 あたしも無駄口はきけない。

 三虎はつらそうに眉をゆがめ、その場を去った。


(そんなに心配しないで。)





     





 さる三つの刻。(午後4時)


 さっきまで晴れていたのが嘘のように、久路保くろほの山の北の空に、黒い雲が涌き出で、雲はあっという間に大きくふくれあがる。

 雲のなかに、白と赤の響神なるかみ(カミナリ)が見える。

 風はますます吹き、あたりは暗くなり、大きな雨粒が降り始める。

 ゴロゴロゴロ……と響神なるかみの音が、天と地をとどろかす。

 古志加の立っている簀子すのこ(廊下)は、雨は直接かからないが、風がふけば飛沫しぶきが飛ぶ。

 あたりが白く光り、響神なるかみがのたうち地上に落ちるのが見えた。


(……響神なるかみが来るのはわかっていた。)


 この季節、頻繁ひんぱんに夕方になると響神なるかみは来る。

 空の雲を見ればわかる。

 響神なるかみは恐ろしい。

 屋内ならともかく、直接│響神なるかみに全身を照らされるこんな所にいては、


(……魂を抜かれてしまう。)


 またゴロゴロと音が鳴り、あたりが白く光り、響神なるかみが大音量とともに落ちる。

 古志加は歯を食いしばり、きっと目を見開き、その響神なるかみを睨みつけた。


響神なるかみが来るのは、わかっていた!)


 あたしは負けない。

 響神なるかみが来ようとも。

 あたしが人生のなかで、一番恐ろしかったのは、十歳の、あの夜だ。

 母刀自がいなくなったあの夜だ。

 あれ以上の夜があろうはずもない。

 ならあたしは耐えられる。




     





「おい! 古志加!」


 鼻高沓はなたかぐつがカカカッと木の簀子すのこ(廊下)を走ってくる音がし、三虎の声がした。

 息を切らした三虎が目の前に立つ。

 三虎のもとどりに挿した黒錦石くろにしきいしかんざしが、黒くあやしく光る。

 あたし三虎に謝りたいんです、と古志加が言う前に、


「お前、もうやめろ。中へ入れ。」


 三虎が命令する。

 ゴロゴロゴロ……と響神なるかみが鳴り、


「藤売さまに直接良いと言われるまで、それはできません。」


 きっぱりと古志加は言い放つ。


響神なるかみが鳴ってるんだぞ? 言うこときけ!」


(駄々っ子か。)


 白くあたりが光り、眉根をつめた三虎と睨む古志加を照らし出す。

 響神なるかみが落ちた音をきいてから、


「できません。」


 と古志加は言う。


「おまえ、オレの言うことを……。」


 と三虎がうめく。


「オレのことを嫌いでも言うことはきけ!」


 驚き、そんなんじゃ、と言いかけた古志加の口に、三虎は何かをねじこんだ。


「むぐ!」


 干しあんずだ。


「食え! お前真っ青だぞ。」


 古志加は再び三虎を睨みつけ、ぷっと干し杏を口から吐き出した。


(ああ、もったいない。)


 心が痛む。


「何も食すな、と藤売さまに言われてます。」

「この野郎……。」


 三虎のこめかみがドクンと脈打ち、目に怒りの炎が燃え上がった。


「じゃあ口で直接押し込んでやる。舌ぁ入れるから、噛むな。」

「へ……?」


 古志加は三虎を睨んでいたが、瞬時に顔から力が抜け、赤面した。

 くくく……口!

 ししし……舌!

 両手は上にあげ、洗濯桶を支えている。

 頭も洗濯桶を支えている。

 動かせない。

 古志加の顔を隠せるものは、何もない。

 半歩あとじさったら、洗濯桶の水がバシャリと音をたてた。


(う……動けない!)


「ひぇ……。」


 何か言うべきだが、舌までもつれて、うまく動かせない。

 三虎が古志加をまっすぐ睨みながら、自分の口に干し杏を入れ、すう、と息を吸った。

 目を見開いた古志加の頬を両手でしっかり固定し、一歩、古志加にむかって踏み出した……。









「あなたたち、何をやっているの!」


 おみなの鋭い声が飛んだ。

 簀子すのこの向こうから、厳しい顔をした日佐留売ひさるめが、女官を何人か引き連れて、カツカツカツ、と鼻高沓を鳴らし、早足で歩いてくる。


(日佐留売だあ!)


 三虎は慌てて古志加から離れた。


「あっ、姉上……!」

「古志加、罰は終わりです。あたしが藤売さまからお許しをもらいました。」

「日佐留売ぇ!」


 古志加は洗濯桶を三虎にぐいっと押し付け、日佐留売にむかって一直線に走った。

 その胸に飛び込み、泣きながら、


「わあん! 三虎が! あたしに無理やり口づけしようと……! 怖かったよぅ!」


 と大声で叫んだ。ゴロゴロ……空が鳴り、


「三虎……。」


 と日佐留売が白い目で弟を睨み、かっと響神なるかみが落ちた。


「恥を知りなさい!!」


 日佐留売のうしろでは、


「無理やり……。」

「動けない女官に……。」

「最低……。」


 と女官たちがささやきかわす。


「ちっ、違う!」


 と慌てた三虎は干し杏を喉につまらせ、右手を喉にあてようとして、頭上にあった洗濯桶の中身をぶちまけ、洗濯桶は、ガン、と三虎の頭にあたり、

三虎は倒れた。








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