第九話 響神 〜なるかみ〜
「あたくしが良いと言うまで、ここに立っていなさい。
水も食べ物も、何も
そう
洗濯桶にはなみなみと水が入っており、両手と頭で洗濯桶を支える古志加の頭上に、ズシリと重たさがかかる……。
「もちろん、水をこぼしても許しません。
その時は、
八の字眉の美女は、にぃ、と口の両端をつり上げ、酷薄そうに笑い、去っていった。
* * *
大きい洗濯桶を頭に乗せ、古志加は一人、
風がでてきた。
なかなか洗濯桶が重い。
首をすこしでも動かすと、水がこぼれそうになる。
(お腹へったなぁ……。)
昼餉を食べそこねた。
午前中は池で溺れかけたし、体力的にはなかなかきつい。
でもあたしは負けない。
負けるわけにはいかない。
三虎のために。
(……三虎。)
古志加は気持ちがしょんぼりした。
昨日の夜、酷いことを言ってしまってから、会えてない。
会って、許しを請いたい。
でも、冷たい目で見られたら、どうしよう。
ばしゃり。
頭の上の桶の水が波打つ。
おっと、いけない。
うつむき加減になっていたようだ。
しゃんとしないと。
「……古志加! 古志加!」
難隠人さまと、従者の
福益売は頭と腕にはし布をまいてる。
痛々しい。
「福益売……! こんなところに、二人を連れてきちゃいけない。」
と古志加が注意すると、
「だって、だって、古志加、こんな、ひどすぎるわ……。」
福益売は古志加の頬と、洗濯桶を見て、つらそうに顔をゆがめ、ぼろぼろっと涙をこぼした。
「古志加っ!」
難隠人さまが古志加の腰に抱きついた。
ばしゃり、と頭の上の水がなって、少しこぼれた。
「あ……、ごめん。」
難隠人さまは慌てて離れ、
「古志加、頬が切れてるよ。」
オロオロと浄足が言う。
「大丈夫。」
古志加は浄足ににっこり笑い、福益売を見る。
「福益売、怪我はどう?」
「治るまで、ちょっと日にちはかかるけど、跡は残らないって言われたわ。」
と福益売が、古志加の左頬に手布をあてようとするが、
「もう血は止まってる。平気。」
と明るく古志加は言った。難隠人さまは、
「古志加、待ってて、必ず助けるから。」
と決意をこめた顔で古志加を見て、身を
「助けを呼んでくるから!」
と急ぎ足で去っていった。
「あたしなら平気ですから!」
その背に古志加は声をかける。
* * *
しばらくして、風の強く吹くなか、大川さまと三虎が現れた。
大川さまはいつもと変わらないが、三虎は古志加を見て、明らかに狼狽した。
大川さまは三虎を付き従えて歩いてくる。胸下まで垂らした美しい長髪が、風に散らばる。
「難隠人に言われて来た。古志加、何をしている?」
大川さまは静かに問う。
「藤売さまが福益売をムチ打つのを止め、女官にあるまじき発言をしました。
ゆえに、罰を頂戴しています。」
古志加も静かにかえす。
大川さまは静かに頷き、
「では、引き続き罰を頂戴するように。」
「はい。」
「大川さま……! それは……!」
三虎が大川さまの後ろで大きな声をだした。
大川さまは
「三虎。古志加は難隠人付きの女官だが、今は藤売さまが預かっていると聞いた。
藤売さまが与えた罰に、口出ししてはいけない。
私も、おまえも。」
「どうか曲げて……!」
三虎が食い下がる。
大川さまが少し思案顔になる。
* * *
三虎が辛そうな顔で大川に懇願している。
大川としても、三虎がここまで言うなら、と心は動いたが、三虎が知らないこともある。
(……昨日、藤売を袖にしたんだよね!)
大川は、自分から夜忍んでくる
いずれ、藤売と婚姻したら、きちんとしようとは思っている。
藤売は家柄が良い。
年も釣り合ってるし、美人だし……。
(でも怖いんだよね! 顔が。
今もこうやって女官にきつくあたってるし。
なんであんなに怖いんだろう。)
ここで、大川が古志加を助けたら、昨日の今日だ。
藤売がどんな態度にでるかわからない。
(怖────!)
今思えば、
当時の私は気がつけなかった。
どうして私は怖い
自分から夜、忍んでくる
大川は目の前の、大きい桶を頭上に掲げて、顔色悪く立っている女官を見る。
古志加は左頬にムチ打たれた跡があるが、目の光は強く、きりりと口もとを引き結んでいる。
気力では負けてないようだ。
可哀想ではあるが……。
「藤売さまが正式に
大川は切り捨てた。そのまま古志加を見て、
「礼はとらずとも良い。」
と
* * *
たしかに頭に洗濯桶があっては、礼の姿勢はとれない。
古志加は目だけ下に落とし、気持ちだけで礼の姿勢をとる。
三虎が狼狽した顔で、こちらを見て、立ち去る大川さまを見て、またこちらを見た。
口が何か言いたげに開いているが、言葉は出てこない。
(あたしなら大丈夫だから。三虎。)
目だけで、そう三虎に伝える。
三虎は、大川さまの従者として仕えてる最中だ。
あたしも無駄口はきけない。
三虎はつらそうに眉をゆがめ、その場を去った。
(そんなに心配しないで。)
さっきまで晴れていたのが嘘のように、
雲のなかに、白と赤の
風はますます吹き、あたりは暗くなり、大きな雨粒が降り始める。
ゴロゴロゴロ……と
古志加の立っている
あたりが白く光り、
(……
この季節、
空の雲を見ればわかる。
屋内ならともかく、直接│
(……魂を抜かれてしまう。)
またゴロゴロと音が鳴り、あたりが白く光り、
古志加は歯を食いしばり、きっ、と黒い空を睨みつけた。
(
あたしは負けない。
あたしが人生のなかで、一番恐ろしかったのは、十歳の、あの夜だ。
母刀自がいなくなったあの夜だ。
あれ以上の夜があろうはずもない。
ならあたしは耐えられる。
「おい! 古志加!」
息を切らした三虎が目の前に立つ。
三虎の
あたし三虎に謝りたいんです、と古志加が言う前に、
「お前、もうやめろ。中へ入れ。」
三虎が命令する。
ゴロゴロゴロ……と
「藤売さまに直接良いと言われるまで、それはできません。」
きっぱりと古志加は言い放つ。
「
(駄々っ子か。)
白くあたりが光り、眉根をつめた三虎と睨む古志加を照らし出す。
「できません。」
「おまえ、オレの言うことを……。」
と三虎がうめく。
「オレのことを嫌いでも言うことはきけ!」
驚き、そんなんじゃ、と言いかけた古志加の口に、三虎は何かをねじこんだ。
「むぐ!」
干し
「食え! お前真っ青だぞ。」
古志加は再び三虎を睨みつけ、ぷっと干し杏を口から吐き出した。
(ああ、もったいない。)
心が痛む。
「何も食すな、と藤売さまに言われてます。」
「この野郎……。」
三虎のこめかみがドクンと脈打ち、目に怒りの炎が燃え上がった。
「じゃあ口で直接押し込んでやる。舌ぁ入れるから、噛むな。」
「へ……?」
古志加は三虎を睨んでいたが、瞬時に顔から力が抜け、赤面した。
くくく……口!
ししし……舌!
両手は上にあげ、洗濯桶を支えている。
頭も洗濯桶を支えている。
動かせない。
古志加の顔を隠せるものは、何もない。
半歩あとじさったら、洗濯桶の水がバシャリと音をたてた。
(う……動けない!)
「ひぇ……。」
何か言うべきだが、舌までもつれて、うまく動かせない。
三虎が古志加をまっすぐ睨みながら、自分の口に干し杏を入れ、すう、と息を吸った。
目を見開いた古志加の頬を両手でしっかり固定し、一歩、古志加にむかって踏み出した……。
「あなたたち、何をやっているの!」
(日佐留売だあ!)
三虎は慌てて古志加から離れた。
「あっ、姉上……!」
「古志加、罰は終わりです。あたしが藤売さまからお許しをもらいました。」
「日佐留売ぇ!」
古志加は洗濯桶を三虎にぐいっと押し付け、日佐留売にむかって一直線に走った。
その胸に飛び込み、泣きながら、
「わあん! 三虎が! あたしに無理やり口づけしようと……! 怖かったよぅ!」
と大声で叫んだ。ゴロゴロ……空が鳴り、
「三虎……。」
と日佐留売が白い目で弟を睨み、かっと
「恥を知りなさい!!」
日佐留売のうしろでは、
「無理やり……。」
「動けない女官に……。」
「最低……。」
と女官たちがささやきかわす。
「ちっ、違う!」
と慌てた三虎は干し杏を喉につまらせ、右手を喉にあてようとして、頭上にあった洗濯桶の中身をぶちまけ、洗濯桶は、ガン、と三虎の頭にあたり、三虎は倒れた。
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