第七話
翌朝。卯四つの刻。(朝6:30)
「散歩がしたいわ。
といきなり
(こんなに朝早く?)
と古志加は不思議に思ったが、すぐ、
「はい。」
と返事をする。
散歩というには、ぶらぶら歩くと言うより、目的地があるように藤売がまっすぐ歩く。
藤売は穏やかに笑っているが、
(そういう顔で、意地悪をたくらんでいる事があるからなぁ……!)
用心しながら、古志加は付き従う。
屋敷の裏の、池のほとりに藤売は立ち、じっと池を眺めた。
動かない。
「あの……。
遠慮がちに古志加は切り出す。
藤売はゆっくりと、こちらに体の向きをかえた。
目をらんらんと輝かせ、ふっくらと艶のある唇を思いきり釣り上げ、美しくも
(イヤな予感……!)
と古志加は生唾を飲み込んだ。
「そうよねぇ、気になるわよねぇ。」
と笑う藤売の手には、いつの間にか金の貝が握られている。
「おまえとしては、そろそろ、貝合せで難隠人さまと遊んでほしい頃かしらねぇ?」
藤売はころころと笑い、古志加の目の前で貝を振ってみせる。
古志加は無言で距離をつめる。
「でもあたくし、今朝はとっても……、虫の居所が悪くってよ……?」
藤売はそう言うなり、
ぽいっ、
と金の貝を池にむかって放った。
(ほら来たあ!)
古志加は素早く飛び、腕を思いきり伸ばし、水面に沈む直前に、空中で金の貝を捕まえた。
そのまま顔面から池に落ちた。
「この貝がないと……、あらぁ? 最後まで言わせなさいよ。」
と藤売は笑ってひとりごちたが、古志加の耳には届かない。
飾り池とはわけが違う。
足がつくところも、つかぬところもある、本物の池だ。
藻も生えている。
(やりすぎだ! バカ!)
と古志加は心のなかでなじり、手足を必死でバタつかせる。
バシャバシャという水音に重ね、
「あはははは……!」
藤売の笑い声が響き、
「おまえなら、見つけられるわよ!」
と、古志加に聞こえるように、藤売は大声をだした。
そのままくるりとその場をあとにしてしまう。
「ちっくしょう、この……!」
思わず悪態をついてしまい、口から池の水が流れ込んだ。
素晴らしく嫌な味……!
衣が重く手足にからみつく。
古志加はまったく泳げないわけではないが、
(これはマズイ……!)
足がつかない。
浮かねば、浮かねば、と思うが、
池のふちまではそんなに遠くない。
頑張れ、頑張れあたし……!
(あっ!!)
右足がつった。マズイ……!!
* * *
「うっ。」
と花麻呂は青い顔をしてうめいた。
なんだが腹が冷えて、ものすごく、気分が悪い。
「
近くを歩いていた、同じ夜番あけの衛士に声をかける。
「悪い。今日は早く休みたい。酒壺ひとつぶんで、馬の世話を代わってくれ。」
花麻呂の顔色が悪いのを見てとると、川嶋は、
「いいぜ。」
と言ってくれた。
礼を言い、一人衛士舎へむかう。
とにかく急ぎたい気分だ。
急げ、急げ……。
屋敷裏の池の近くを通りかかった時、池の方から歩いて屋敷へむかう、きらびやかな藤色の衣の
あれは藤売さま。
うちの古志加を
一人だった。
通常、女官が一人は付き従ってるはず。
悪い予感がして、藤売がやってきた方向、裏の池に駆けていく。
(……大きな水音がする!)
あれは、人が
やはり!
池の水面の上に、
「古志加!」
叫び、池に飛び込む。
(間に合え、間に合え!)
* * *
古志加は水を吐いた。
「げっ、げはっ……。」
体は野の上に横たえられていた。
「大丈夫か。」
優しく力強く、上半身を起こし、支えてくれる手があった。
花麻呂だ。
花麻呂も全身が濡れている。
池から救いだしてくれたに違いない。
「うわ───ん、花麻呂ぉぉ。ありがとう。」
と古志加は花麻呂に抱きついた。
「怖かった。し、死ぬかと……!」
と涙が出た。
「よしよし、怪我はないか。」
と花麻呂は背中をたたいてくれた。
何があったか問うので、わけを話し、
礼を言って別れた。
その後湯殿で身を清めた。
今の古志加は、女官の衣をもう一揃い支給されている。
良かった……!
(いくらなんでも、これはやりすぎだ。)
危うく死ぬところだった。
怒りでかっかと体を火照らせながら、
* * *
古志加は乱暴に藤売の部屋の
室内にいた藤売、
福益売はちょうど、
革靴の足音も高く、古志加は藤売の前に突き進んだ。
怒りのあまり、恐ろしい形相で藤売をにらみつける古志加に対し、藤売は冷酷に笑い、舌なめずりをし、手を甘糟売にさしだした。……ムチをとる。
古志加はトン、と藤売の前に金の貝がらを置いた。
間違いない、難隠人との約束の貝がらだ。
古志加はすっくと立ち、
「なんで、こんな意地悪するんだ! 死にかけた!」
大声で藤売を叱りつけた。
藤売は目をギラギラと光らせながら立ち、ぱんと一回床をムチ打った。
「
「田舎でどこが悪いんだ!」
わけがわからない。
古志加は言った。
「おまえにはわからないでしょうね。
奈良からおおきく離れた、こんな
美しいのは……大川さまだけ。」
そう言って、藤売は、ふふ、と含み笑いをした。
蒼白な顔をした福益売が、ぽつりと、
「あんたは大川さまにふさわしくないわ。」
ともらしてしまった。
小声ではあったが、声はよく響いた。
藤売が凄まじい形相で、ぱっと福益売を振り向き、
「おまえ!」
とムチを福益売の顔面に振り下ろした。
あっ、と古志加も甘糟売も息を呑む。
「きゃあ……、お許しを。」
と悲鳴をあげる福益売にむかって、激しくムチを二度、三度と振り下ろし、
「や、やめろ!」
と藤売の左腕をひいた古志加には目もくれず、そのまま四度、五度、顔といわず、福益売が己をかばった腕といわず、凄まじい勢いでムチ打った。
血が飛ぶ。
「ひ……。」
あまりの恐ろしさに福益売が気を失った。
倒れる前に、
「福益売!」
と古志加が福益売の肩を抱き、力を失った体を抱きとめる。
その古志加と福益売に、びしゃっ、と冷たい水がかけられた。
何がおこったかわからず、一瞬、古志加は呆然とする。
藤売が机の上に置いてあった、金色の
「起きなさい。これぐらいでは、足りなくってよ?」
怒りのあまり、白い顔をさらに白くした藤売が、もはや笑わず、目を見開いて福益売を睨んでいる。
古志加は、気を失ったまま水をかけられ、うう、とうめいた福益売を丁寧に床に置き、立った。
藤売と福益売の間に立つ。
甘糟売は部屋のはじで震えている。
古志加は、きっ、と藤売を睨みつけ、凛とした声をはなった。
「やめなさい!
気絶した
藤売も怒声を放つ。
「主に口ごたえするか!」
「あたしは衛士だ! ここの女官は守る!」
「生意気な! おまえは
藤売がぱぁんと古志加の顔にムチをふるった。
古志加はよけない。少しも動かない。
左頬が切れた。
そのまま古志加と藤売はにらみ合う。
「口ごたえした女官に、ふさわしい罰を与えてやる。」
と
「罰ならあたしに!」
少しもひるまず、古志加は言う。
「良いでしょう。」
残虐に藤売が笑う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます