第六話  立待月

 はじめの刻。(夜9時)


 湯殿からでた三虎は、


立待月たちまちづきが綺麗に見えるなあ。)


 と空を見上げた。

 髪はもとどりに結い、黒錦石くろにしきいしかんざしを挿しているが、衣は縹色はなだいろの夜着。


 立待月が明るく夜空を照らしている。

 雲は多く、月が刻一刻とかわる雲間に隠れ、またあらわれ、影の美しさにいつまでも見飽きない。

 もう充分、遅い時間だが、なんとなく夜のそぞろ歩きがしたくなった。


 自分の部屋へは遠回りになる道を、布や胡麻油、垢取りの入った桶を持ちつつ、なんとなく歩いていると、可我里火かがりびに照らされた柳のそばで、濃藍こきあい衣の人影が、後頭部で一本に結っただけの長髪を揺らし、武の型をさらっているのが見えた。


「……せっ。」


 足を蹴り上げ、

 身を回し、


「……やっ。」


 右のこぶしを突き出す。

 あれは古志加だ。


「何してる。」


 三虎は声をかけた。

 古志加は動きを止め、息を弾ませながら、


「稽古を。」


 と言った。


「お前、こんな時間に……。やめろ。」


 とあきれながら三虎が言うと、


「まだ終わってません。」


 と古志加が稽古を再開しようとする。


(チッ、お前は……。なぜ言うことをきかない。)


 桶を簀子すのこ(廊下)に置き、鼻高沓はなたかぐつを鳴らしながら、三虎は素早く古志加のいる庭に降りていった。

 左の腕で古志加の拳を止めた。


「もういい。やめろ! 倒れるぞ!」


 日佐留売ひさるめも、鎌売かまめの助けも期待できないなか、古志加が頑張っているのは知っている。

 藤売にどんな扱いをうけているかも。

 ビッ、と腕をはじいて古志加が距離をとった。


「やめません! このままでは弱くなってしまう。

 弱くなったら、あたしに卯団うのだんの居場所はない!」


 三虎に左の拳を打ち込んでくる。

 いなす。


おみなのあたしは、追い出される!」


 両手の平づき。

 両腕で受け止める。


「そんなことはない。」


 三虎が右の拳を打ち込む。

 古志加は防御の型。


「あたしの気持ちは。」


 古志加が右の回し蹴り。

 避ける。


「わからない!」


 左の回し蹴り。

 膝をぶつけ、いなす。

 あああっ、と古志加が悲鳴をあげてしゃがみこんだ。


「おい!」


 三虎が慌てて古志加の両腕をつかんだ。

 ……女官は罰を与えられる時、ふくらはぎを打たれる。

 避ければ良かった!


「あたしに、もういいって言わないで!

 もうやめろ、って言わないで!」


 古志加は三虎の腕を振り払い、


「三虎はあたしに、頑張れ、って言って!

 頼んだぞ、って言ったじゃない!」


 と右の拳を突きこんできた。


「あたしは、練習しないと怖い!」


 左の拳。受け止める。


「クソ親父がそう言ったせいだあ!」


 顔をゆがめ、叫びながら、

 両手の平づき。

 両腕で受け止める。

 

吉弥侯部きみこべ 伊太知いたちか。」


 三虎が左の拳を打ち込む。

 古志加は防御の型。


「えっ、なんで……。」


 しばし動きが止まる。

 スパンと古志加の頭に手刀を下ろす。


戸籍計帳こせきけいちょうを見たって言ったろ。

 行方不明なんだろ。

 父親の特徴を話してみろ。」


 はあ、はあ、と荒い息で立ち尽くし、


「右目に刀傷がある。」


 と古志加は黙り込んだ。


「それだけか。もっと他にも話してみろ。どんな親父だったんだ。」


 しばらく、古志加の荒い息が続き、


「……クソ親父だって言ったろ。話したくない。」


 と苦しそうな顔をした。


「話せよ。」


 三虎は静かに言う。


「なんで……?!」


 古志加が目を見開き、あえいだ。


「話してみろ。」


 古志加はいつも、父親の話しをするとき、苦しそうな顔をする。

 父親のことは、古志加のなかに深く根をはって、古志加を今も苦しめている。

 ……なら話せ!

 花麻呂なんかじゃなく。

 オレに話せよ。

 古志加の頬に、涙がつぅ、と伝った。

 可我里火かがりびに照らされる。


「じゃあ教えてやるよ!」


 古志加ががむしゃらに右の拳を打ち込んできた。

 いなす。


「あのおのこは母刀自をさらった!」


 右の拳。

 受け止める。


「舌を切り、舌足らずだとあざけった!」


 腰の入った両手の平づき。

 受け止める。


「母刀自の緑兒みどりこ(赤ちゃん)を売り払い、」


 三虎が右の拳。

 古志加が受け止める。


「泣く母刀自をさげすんだ!」


 右の回し蹴り。

 避ける。


「あたしはしょっちゅう殴られ、」


 左の回し蹴り。

 避ける。


「蹴られ、一回も、」


 右の拳。

 受け止める。


「抱きしめられたことなんてない!」


 左の拳。

 受け止める。

 古志加はとめどなく泣き、


「実の父親に、腕だって折られた!」


 両手の平づき。

 受け止める。


「赤ちゃんのときに、土師器はじきを投げられて、」


 三虎が左の拳。

 古志加が受け止める。


「頭に消えない傷だってある。

 あんなヤツ、大嫌い、大嫌い……!」


 とうとう動きが止まった。

 わああ、と顔を両手で覆って泣きだしてしまった。


「それは……、本当にひどいな。」


 眉をひそめ、素直な感想を三虎はもらした。


「ほら、古志加。」


 両腕を広げる。

 こうすればいつも古志加は飛び込んでくる。

 古志加が顔を覆っていた両手をはずし、顔を上げ、三虎を見た。


(おや?)


 ……動かない。




     *   *   *





「ほら、古志加。」


 三虎が両腕を広げて、可哀想に、という顔で目の前に立っている。

 ああ泣かせてくれるんだ、と古志加は三虎の胸に飛び込もうとし、何かが胸に引っかかった。

 体は泥のように疲れ、頭は憎しみとやるせなさがどうしようもなく渦巻き、息は乱れ、目からはボロボロ涙があふれているというのに、さっと氷の刃を胸に突きこまれたように、思いが去来し、


(───あたしは、知ってる。)


 三虎は、あの美しい遊行女うかれめを、その腕に抱いてることを。

 きっと、その遊行女を腕に抱くときは、そのおみなを恋しく、口づけとか、もっと、……おのことして、抱くのであって。

 今、三虎は、泣いてるあたしを慰めるためだけに、その腕を広げてる。

 今まで、そのようなこと思いもしなかった。

 古志加は自分に愕然とし、


(……ああ、違うんだぁ。)


 ずっと、十歳の、三虎が毎日一緒に寝てくれた日々が懐かしい。

 三虎が慕わしくて、また、あのように近しく寝て欲しい、と思っていた。

 でも、

 泣くわらはを慰めて抱きしめてくれても。

 あたしが泣いたから、


「ほら、古志加。」


 と言ってくれても。


 それを何回、何十回、繰り返してくれようとも、恋うるゆえに抱きしめるのとは、全然、意味が違う。

 あの美しい遊行女の前では、何の意味もなさない。

 それが良く、わかってしまった。


(……今、この人は、あたしを何とも思ってないのに、恋うてもいないのに、あたしを抱きしめようとしている。)


 今までとは違う、熱い涙が目からあふれ、古志加は三虎を睨みつけ、両手でドンと三虎の肩を押した。


「イヤ!」


 身を翻し、可我里火かがりびの近くに置いておいた剣を拾い上げ、


「三虎なんて嫌い!」


 叫んでパッと走り去る。




     *   *   *




 走り、走り、

 ……三虎は追いかけてこない。

 当たり前だ。

 泣きながら、走り、走り、

 声がもれでないように必死におさえる。

 もう充分、充分すぎるほど三虎から離れたところで、やっと足を止めた。

 酷いことを言ってしまった。

 なんであんなことを言ってしまったんだろう。

 本当は恋いしいのに。

 嫌われてしまう……。

 可我里火かがりびの届かない庭のに片手をそえ、立ったまま古志加はもう片方の手で目もとをおさえた。

 本当は抱きしめてほしかったのに。

 三虎の胸に思いきり顔を埋めて、心の許すまま泣いて、慰めてほしかったのに。

 きっと三虎は、優しく、抱きしめてくれたはずだ。


「う……っ。」


 と声をもらしながら、古志加は泣き、誰かあたしを慰めて、と思った。


日佐留売ひさるめ、あたしを抱きしめて。)


 日佐留売はいない。


福益売ふくますめ、あたしを抱きしめて。)


 今は寝てる時間だ。


(母刀自……!)


「母刀自、母刀自……!」


 何回も古志加は母刀自を呼んだ。

 母刀自、今すぐあたしを抱きしめて。

 あたしを慰めて。

 どうしてあたしを一人にしてしまったの。

 うわあん、と古志加は泣いた。

 気がすむまで。

 頭がぐちゃぐちゃで、酷い気分だった。

 女官部屋に戻るまで、誰にも会いませんように、と思った。

 とくに卯団うのだんの皆には。

 今宵会ったら、誰彼かまわず、


「あたしを慰めて。」


 と無理やり胸に飛び込んで、泣いてしまいそうだった。

 とくに花麻呂あたりとは。

 花麻呂は優しい。

 あ、でも薩人さつひと桑麻呂くわまろには抱きつかない。

 桑麻呂は困ったヤツ。

 薩人は、いいお兄ちゃんではあるんだけど、遊行女うかれめに対して言ってることが理解できない。


「ふふ……。」


 我ながら、変なことを考えてる、と思い、古志加はちょっと笑った。

 涙をぬぐい、女官部屋を戻る道を行く。

 明日は明日で、朝は早いのだ。





     *   *   *





「三虎なんて嫌い!」


 古志加が叫んで走り去ったあと、三虎はしばし呆然とした。

 まさか、こうなるとは思わなかった。

 優しく抱きしめて、背中をたたいて、きちんと古志加が泣き止むまで待つ。

 それで事はおさまると思ったんだが。


「しくじったなぁ……。」


 三虎は一人、頭をかいた。

 古志加の父親が、そこまで非道な男だとは思わなかった。

 古志加は身のうちに、どれだけの傷を抱えているのだろう。

 苦しげに思いを吐露し、泣く古志加の顔が頭から離れない。

 古志加が最後逃げ出したことで、ずいぶん後味の悪いものとなってしまった。

 これでは、ただ泣かせただけじゃないか。

 三虎はため息をついた。


「なんでおみなの部下は、こんなに扱いづらいんだ。」


 ぶちぶちと文句を言いつつ、夜空に輝く立待月を見上げた。

 ───月にひかれて。

 こんなそぞろ歩きをするんじゃなかった。


「うっ。」


 悪寒がした。汗が冷えたらしい。


(もう一回、風呂に入りなおすか。)


 三虎は桶を持ち、湯殿に歩きだした。









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