第七話 立待月
湯殿からでた三虎は、
(
と空を見上げた。
髪は
雲は多く、月が刻一刻とかわる雲間に隠れ、また
もう遅い時間だが、なんとなく夜のそぞろ歩きがしたくなった。
自分の部屋へは遠回りになる道を、布や胡麻油、垢取りの入った桶を持ちつつ、なんとなく歩いていると、
「……せっ。」
足を蹴り上げ。
身を回し。
「……やっ。」
右のこぶしを突き出す。
あれは
「何してる?」
三虎の声に、古志加は動きを止めた。息が弾んでいる。
「稽古を。」
「お前、こんな時間に……。やめろ。」
「まだ終わってません。」
古志加が稽古を再開しようとする。
(チッ、お前は……。なぜ言うことをきかない。)
桶を
左の腕で古志加の拳を止めた。
「もういい。やめろ! 倒れるぞ!」
藤売にどんな扱いをうけているかも。
ビッ、と腕をはじいて古志加が距離をとった。
「やめません! このままでは弱くなってしまう。
弱くなったら、あたしに
三虎に左の拳を打ち込んでくる。
いなす。
「
両手の平づき。
両腕で受け止める。
「そんなことはない。」
三虎が右の拳を打ち込む。
古志加は防御の型。
「あたしの気持ちは。」
古志加が右の回し蹴り。
避ける。
「わからない!」
左の回し蹴り。
膝をぶつけ、いなす。
あああっ、と古志加が悲鳴をあげてしゃがみこんだ。
「おい!」
三虎は慌てて古志加の両腕をつかんだ。
……女官は罰を与えられる時、ふくらはぎを打たれる。
避ければ良かった!
「あたしに、もういいって言わないで!
もうやめろ、って言わないで!」
古志加は三虎の腕を振り払い、
「三虎はあたしに、頑張れ、って言って!
頼んだぞ、って言ったじゃない!」
と右の拳を突きこんできた。
「あたしは、練習しないと怖い!」
左の拳。受け止める。
「クソ親父がそう言ったせいだあ!」
顔をゆがめ、叫びながら。
両手の平づき。
両腕で受け止める。
「
三虎が左の拳を打ち込む。
「えっ、なんで……。」
古志加は防御の型だが、しばし動きが止まる。
三虎は古志加の頭に、スパンと手刀を打ち下ろした。
「
行方不明なんだろ。
父親の特徴を話してみろ。」
はあ、はあ、と荒い息で立ち尽くし、
「右目に刀傷がある。…………。」
と古志加は黙り込んだ。
「それだけか。もっと他にも話してみろ。どんな親父だったんだ。」
しばらく、古志加の荒い息が続き、
「……クソ親父だって言ったろ。話したくない。」
と苦しそうな顔をした。
「話せよ。」
三虎は静かに言う。
「なんで……?!」
古志加が目を見開き、あえいだ。
「話してみろ。」
古志加はいつも、父親の話しをするとき、苦しそうな顔をする。
父親のことは、古志加のなかに深く根をはって、古志加を今も苦しめている。
……なら話せ!
花麻呂なんかじゃなく。
オレに話せよ。
古志加の頬に、涙がつぅ、と伝った。
「じゃあ教えてやるよ!」
古志加ががむしゃらに右の拳を打ち込んできた。
いなす。
「あの
右の拳。
受け止める。
「舌を切り、舌足らずだと
腰の入った両手の平づき。
受け止める。
「母刀自の
三虎が右の拳。
古志加が受け止める。
「泣く母刀自を
右の回し蹴り。
避ける。
「あたしはしょっちゅう殴られ。」
左の回し蹴り。
避ける。
「蹴られ、一回も。」
右の拳。
受け止める。
「抱きしめられたことなんてない!」
左の拳。
受け止める。
古志加の目からは涙がこぼれ、
「実の父親に、腕だって折られた!」
両手の平づき。
受け止める。
「
三虎が左の拳。
古志加が受け止める。
「頭に消えない傷だってある。
あんなヤツ、大嫌い、大嫌い……!」
とうとう動きが止まった。古志加は、わああ……、と顔を両手で覆って泣きだしてしまった。
「それは……、本当にひどいな。」
三虎は眉をひそめ、素直な感想をもらした。
「ほら、古志加。」
両腕を広げる。
こうすればいつも古志加は飛び込んでくる。
古志加が顔を覆っていた両手をはずし、顔を上げ、三虎を見た。
(おや?)
……動かない。
* * *
「ほら、古志加。」
三虎が両腕を広げて、可哀想に、という顔で目の前に立っている。
ああ泣かせてくれるんだ、と古志加は三虎の胸に飛び込もうとし、何かが胸に引っかかった。
体は泥のように疲れ、頭は憎しみとやるせなさがどうしようもなく渦巻き、息は乱れ、目からはボロボロ涙があふれているというのに、さっと氷の刃を胸に突きこまれたように、思いが去来し、
(───あたしは、知ってる。)
三虎は、あの美しい
きっと、その遊行女を腕に抱くときは、その
今、三虎は、泣いてるあたしを慰めるためだけに、その腕を広げてる。
今まで、そのようなこと、思いもしなかった。
古志加は自分に愕然とし、
(……ああ、違うんだぁ。)
唐突に理解した。
ずっと、十歳の、三虎が毎日一緒に寝てくれた日々が懐かしい、またあのように近くで寝て欲しい、と思っていた。
でも。
泣く
あたしが泣いたから、
「ほら、古志加。」
と言ってくれても。
それを何回、何十回、繰り返してくれようとも、恋うるゆえに抱きしめるのとは、全然、意味が違う。
あの美しい
それが良く、わかってしまった。
(……今、この人は、あたしを何とも思ってないのに、恋うてもいないのに、あたしを抱きしめようとしている。)
今までとは違う、熱い涙が目からあふれ、古志加は三虎を
「イヤ!」
身を
「三虎なんて嫌い!」
叫んでパッと走り去る。
* * *
走り、走り。
……三虎は追いかけてこない。
当たり前だ。
泣きながら、走り、走り。
声がもれでないように必死におさえる。
もう充分、充分すぎるほど三虎から離れたところで、やっと足を止めた。
(酷いことを言ってしまった。
なんであんなことを言ってしまったんだろう。
本当は恋いしいのに。
嫌われてしまう……。)
(本当は抱きしめてほしかったのに。
三虎の胸に思いきり顔を埋めて、心の許すまま泣いて、慰めてほしかったのに。)
きっと三虎は、優しく、抱きしめてくれたはずだ。
「う……っ。」
(
日佐留売はいない。
(
今は寝てる時間だ。
(母刀自……!)
「母刀自、母刀自……!」
何回も古志加は母刀自を呼んだ。
(母刀自、今すぐあたしを抱きしめて。
あたしを慰めて。
どうしてあたしを一人にしてしまったの。)
うわあん、と古志加は泣いた。
気がすむまで。
頭がぐちゃぐちゃで、酷い気分だった。
女官部屋に戻るまで、誰にも会いませんように、と思った。
とくに
今宵会ったら、誰彼かまわず、あたしを慰めて、と、無理やり胸に飛び込んで、泣いてしまいそうだった。
とくに花麻呂あたりとは。
花麻呂は優しい。
あ、でも
桑麻呂は困ったヤツ。
薩人は、いいお兄ちゃんではあるんだけど、
「ふふ……。」
我ながら、変なことを考えてる、と思い、古志加はちょっと笑った。
涙をぬぐい、女官部屋を戻る道を行く。
明日は明日で、朝は早いのだ。
* * *
「三虎なんて嫌い!」
古志加が叫んで走り去ったあと、三虎はしばし呆然とした。
まさか、こうなるとは思わなかった。
優しく抱きしめて、背中をたたいて、きちんと古志加が泣き止むまで待つ。
それで事はおさまると思ったんだが。
「しくじったなぁ……。」
三虎は一人、頭をかいた。
古志加の父親が、そこまで非道な男だとは思わなかった。
古志加は身のうちに、どれだけの傷を抱えているのだろう。
苦しげに思いを吐露し、泣く古志加の顔が頭から離れない。
古志加が最後逃げ出したことで、ずいぶん後味の悪いものとなってしまった。
(これでは、ただ泣かせただけじゃないか。)
「はぁ……。なんで
ぶちぶちと文句を言いつつ、夜空に輝く立待月を見上げた。
───月にひかれて。
こんなそぞろ歩きをするんじゃなかった。
「うっ。」
悪寒がした。汗が冷えたらしい。
(もう一回、風呂に入りなおすか。)
三虎は桶を持ち、湯殿に歩きだした。
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