第六話 口をはくはく
翌日、
一歳の頃から、難隠人さまの成長を見守ってきた古志加だ。
古志加は、部屋の掃除をしながら、微笑ましく、難隠人さまを見た。
和歌の詠唱のあと、
貝合せの最中に、難隠人さまはそっと藤売を見て、
「藤売さまは、おきれいです。」
と赤面しながら言った。藤売は八の字眉をくつろげて、機嫌良く微笑んだ。
「ありがとう。難隠人さま。」
難隠人さまは、はにかんで、とても嬉しそうに笑った。
古志加は、
(ああ良かった。
と心から思った。貝合せが終わり、難隠人さまが、
「次にすぐとは言いません。気が向いたらで結構なので、また、貝合せで遊んで下さい。」
と貝合せの一枚を藤売にさしだした。
手が不安でふるふると震えている。
藤売は一瞬真顔になったが、目を細め、
「ええ……。」
と、その貝を受け取ってくれた。
難隠人さまがほっとして、ニッコリ笑った。
「ありがとうございます。」
(ワーホーイ!)
古志加は心のなかで喝采を叫んだ。
難隠人さまは約束の貝、藤売が持つ貝の片割れを、大事に胸に抱いて帰っていった。
その後、難隠人さまのイタズラも落ち着き、時々、金の貝を見つめているのだと、福益売にあとから教えてもらった。
* * *
「あら、あなた紅珊瑚の耳飾り、してないのね。売ったの?」
藤売に唐突に声をかけられた。古志加は、顔を赤くして、目を伏せた。
「売ってはいないんですが、恥ずかしくて……。」
紅珊瑚は高価で美しい。とても自分に似合うとは思えない。
「はっ。」
藤売は
「ああ……、自分を美しくすることもできない女官なんて、
と首をふり嘆いた。
* * *
翌日。藤売は、
「花を摘んできて。」
と古志加に言いつけた。
しもつけ、かきつばた、ぼたんの花を摘んできて、
「もっと欲しい。」
と言うので、また摘んでくる。
すると、
「もっと欲しい。まだまだよ。」
と言う。
午前中、いや、
「良い。」
と言った。しげしげと部屋を見つめ、口の端を釣り上げて古志加を見る。
(ああ、イヤな予感……!)
藤売は無言で、
花と水を木床にまき、緑釉の花瓶はもとの場所に戻す。
手が止まらない。
次々と花瓶を手にとり、中身を床にぶちまけ、花瓶は十八個にもなっていたのだが、全部、ぶちまけてしまった。
桃色、紫、赤、色とりどりの花びらが散乱し、花と水の匂いがむせ返るほど部屋に充満する。
古志加と
藤売は床に折り重なった生け花の
「あははは……。今夜は花風呂に入るわ。全部花びらを摘んで、湯船に持ってきてちょうだい。残りは綺麗に掃除しておくのよ、古志加。」
(なら始めからそう言えばいいじゃないか!)
「はい。」
と古志加が悔しそうに言うと、
「きちんと礼をしなさい!」
藤売の
「角度が悪い!
と言われ、ビシリとふくらはぎをムチで打たれた。
(いったぁ……。)
「ふん!」
藤売はムチを放り投げ、さっさと部屋を出ていってしまった。
やはり意地悪だ。
古志加は桶を用意し、花びらをむしり入れながら、
(負・け・な・い……!)
と奮い立った。
* * *
藤売は一人用の湯船に、色とりどりの花びらを浮かべ、ゆっくり花風呂につかった。
(
そして大川さまは、奈良でもめったに見られない、美しき
藤売は花風呂を、念入りに、腕に、首に、繰り返し浴びる。
良く花の匂いをすりこむのだ。
藤売は、大川さまの部屋にしのんでいく。
(あたくしはこんなに美しいのに、大川さまは夜、あたくしの部屋を訪れようとしない。
こんなに、いつでも良い、と
(あの不機嫌顔の従者め。
なんて時間まで大川さまの部屋にいるの。
早く出ていきなさい……!)
藤売は木陰から、室内の背が低いほうの人影を、
やっと退去した。
従者がずいぶん遠くまで行ったのを見計らって、藤売は大川さまの寝室の
「大川さま……。あたくしです。ここを開けて下さい。」
やや間があって、大川さまがなかから現れた。切れ長の黒目がちな目が、驚きで見開かれている。
「どうしたんです。」
藤売はしっとりと潤んだ瞳で、大川さまを見つめた。
部屋のなかから、蝋燭と、大川さまが好む
明るい
「あたくしを……、中に入れて。」
月光のもとでもなお赤い唇を光らせて、藤売は妖艶に笑った。
藤売は己の美しさに自覚的だ。こうやって
大川さまが、ふっ、と笑った。
優しいのに冷たい、とらえどころのない笑顔。
極上の美男に、
そくっ。
と奇妙に震えた。
「それはできない。」
「え?」
「自分で盆に飛び込んでくる魚は食べないようにしている。夜も更けた。帰りなさい。
なんと大川さまが
「お、大川さま? 大川さま?!」
二回呼ぶが返事はない。
(ええ────っ?!)
信じられない。
心のなかで大きく叫ぶが、
(恥を忍んで、あたくしの方から来てあげたというのに。
このあたくしを、このあたくしを……、袖にしたっていうの?!
あ、あたくしをっ……。
信じられない。
信じるものか。)
藤売は口をはくはくさせながら、どうにか人に見つからないように、自分の部屋に戻った。
* * *
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