第十ニ話  三虎、正述心緒、其の一。

 正述心緒せいじゅつしんしょ……心のさま(心緒)を率直に表現する(正述)もの。




     *   *   *




 翌朝。

 古志加こじかは、まだ少し熱っぽかったが、高熱は下がった。

 むくりと寝床から起き上がった古志加の第一声は、


「お腹が減った。」


 だった。難隠人ななひとさまが、


「古志加! 気分はどう?」


 古志加の右手をとる。古志加はにこっと微笑む。


「気分は良いです。お腹が減りました。」


 浄足きよたりが、


「心配したよ!」


 と古志加のふすま(かけ布団)ごしの足の上に、ばふっ、とうつ伏せになった。日佐留売ひさるめがおっとりと微笑み、


「良いわ。福益売ふくますめ炊屋かしきやで一人分の食事を作らせて、持ってきてちょうだい。」


 と、古志加を特別扱いしてくれた。

 通常は、通常は昼餉と夕餉の二食だ。

「日佐留売バンザイ! ありがとう日佐留売!」





 食事を待つあいだ、


「これが日佐留売の緑兒みどりこ? 可愛い!」

「そうよ。多知波奈売たちばなめおみなよ。」

「抱かせて!」

「いいわよ。」


 と、緑兒を抱かせてもらう。


「あ……、あ……。あぶ。」


 抱っこされた多知波奈売たちばなめは、古志加をつぶらな目で見上げた。


「わぁー、柔らかい! 難隠人さまも昔はこうだったなぁ。」

「やめてよ古志加……。」


 難隠人さまが嫌そうな顔をする。

 皆、いっせいに笑う。






 福益売が盆に乗せて、食事を運んできてくれた。

 大盛りの雑穀米、すずしろの汁もの、早蕨さわらびの塩漬け、毛桃けもも(小さい桃。桃の原種)。

 古志加は、もりもり、平らげた。


「ほほ……。おのこみたいな食べっぷりね。」


 日佐留売は、追加でなんと、蒸し鶏まで炊屋に作らせてくれた。


「日佐留売バンザイ! 日佐留売、大好き! 福益売も、持ってきてくれて、ありがとうっ。」


 古志加は一人でぺろりと平らげた。福益売と日佐留売は呆気あっけにとられた顔をする。


「朝からこんなに……?」

「すごい、あっという間に皿から蒸し鶏が消えた……。」

「すみません。昨日は食べそびれたので。」


 古志加は赤面した。

 歯木しぼく(木を割いた歯ブラシ)で口を清め、


(お腹いっぱい!朝からご馳走!)


「ふんふん〜。」


 古志加の口からは、機嫌の良い鼻歌のようなものがでる。難隠人さまの、


「我をかけずとも───。」


 和歌の詠唱のおさらいが、それに重なる。

 浄足は、難隠人さまの後ろにちょこんと座っている。


(難隠人さま、誰にうながされずとも、自分からおさらいを始めて、えらいなぁ。)


 難隠人さまが古志加を、ぱっ、と見た。


「古志加はここで寝てていいんだよ。」

「ありがとうございます。」


 上毛野君かみつけののきみの一人息子、難隠人さまは、この部屋の主と言って良い。

 古志加はその優しさに甘え、まだふらつくから、と自分に言い訳して、ふかふかの上等の布団で、続けて寝かせてもらう。




 そのうち、部屋から誰もいなくなった。 


 古志加はまどろむ。





   *   *   *




 三つの刻。(午前10時)


 三虎は一人で日佐留売の部屋を訪れる。

 古志加が一人で寝ていた。


(良かった。顔色がずいぶん良くなった。)


 三虎は古志加を起こさないように、静かに倚子に座った。

 机に見舞いの干しあんずとくるみを置く。

 風がふわりと花咲くあふち(センダン)の匂いを運び、ほととぎすが鳴く。

 落ち着いた時間が流れた。

 三虎はゆっくり古志加の顔を見た。

 力の抜けた寝顔。

 規則正しい寝息。

 いつもはこんなにゆっくり古志加の顔を眺めることはない。

 こちらにも時間はないし、古志加だってこんなに眺めたら目をしばたたいて逃げ出してしまうだろう。


(お、いいじゃないか。)


 じゃあ見てやろう。

 三虎はふっ、と笑った。

 古志加は衛士として剣や弓を扱うときは、強い気を目から放つ。

 自分も武芸を鍛えるものとして、その気は好ましいものだが、

 目を閉じて、こうやって眠りに落ちていると、


おみなの寝顔だなあ。)


 頬は丸く、まつ毛は長く、唇は柔らかそうだ。

 きちんときれいな、おみなの顔だ。


「ん……。」


 古志加が寝返りをうった。

 顔がむこうを向いたので、つられるように三虎も倚子を立ち、寝床に近づいた。

 古志加を起こさないように顔をのぞきこむと、左頬の傷跡が痛々しかった。

 ……昨日は、大川さまが助けてくれると思ったのに、助けてくれなかった。


「古志加、大川さまは冷たいよなぁ。」


 昔はこうじゃなかったのにな、と思う。

 古志加の耳元に口をよせ、小声で、


「古志加、大川さまだけはダメだぞ。」


 ささやく。

 返事はない。寝ている。

 起きる気配がないのを確かめ、


「大川さまにだけは、恋するな。」


 大川さまは、きらきらしく涼しげな風貌で、そこにいるだけで、おみなを恋に落としてしまう。

 一番近くにいる三虎は、そのことを良く知っている。

 だが古志加、大川さまだけはダメだぞ。

 お前を幸せにしてくれるおのこなら、誰でもつまにして良いから、大川さまにだけは、恋するな。

 オレがおまえに望むことがあるとすれば、その一つだけだ。



 古志加の左頬の傷に、そっと触れたい、と思ったが、オレはそんなことはしない、と思いなおし、古志加の眠る部屋をあとにする。




    *   *   *





 午三つの刻。(昼12時)


「古志加、昼餉の時間だよ!

 今日は、藤売さまが貝あわせをしてくれたよ。」


 浄足が元気に古志加を起こす。


「この干し杏、うまいぜ!」


 難隠人さまも古志加に声をかける。福益売が、寝床で寝ていた古志加に、


「古志加、起きれる?」


 と、声をかけてくれる。


「うん……。」


(もう昼か、早いなぁ……。)


 古志加は身を起こす。頭がぼんやりしている。

 日佐留売が机の上の干し杏を見て、


「あら、誰かきていたの? あたしが用意したものじゃないけど?」


 首をかしげる。


「このくるみ、変な味!」


 難隠人さまが、べっ、と口からくるみを出す。


「あら……。」


 福益売がそのくるみをはし布で受け取る。

 古志加の頭が覚醒した。


「あっ、それ、あっ! あたしも食べる……!」


 慌てて寝床をおりる。

 干し杏。

 昨日のことを思い出して、頬が紅潮する。

 響神なるかみ(カミナリ)の鳴るなか、両頬を、三虎の手が包んで、三虎の顔がすごく近づいてきた……。


(ひぇぇ……。)


 頭から汗が吹き出してきた。

 干し杏を食べ、くるみを食べる。

 このくるみ。

 甘さと、桂皮の複雑な刺激。

 コリリとした歯ざわり。

 あたしのくるみの人。


「三虎だ……。」


 さらに顔を真っ赤にしながら、古志加は言った。


(来たなら、起こしてほしかったのに。)


 古志加はまだ、三虎に嫌いって言ってしまったことを、謝れていない。


「オレのこと嫌いでも言うことはきけ!」


 って昨日、三虎は言ってなかったか。

 ひどい誤解だ。どうしよう。






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