終話   幸せです。

 素梅開素靨そばいかいそえふ     嬌鶯弄嬌聲けいあうほうけいせい


 れにむかいて 懐抱くあいほうを、  や、


 ひらけ ひらけや 懐抱くあいほうを、  や、


 浮かれ 浮かれや 浮雲ふうんたのしび


 手をとり 遊べや 遊浮島うかれうきしま



 舞台で一斉に遊行女うかれめが舞い、唄うのをあたしは見つめる。


 いぬの刻。(夜7〜9時。)


 あたしは、莫津左売なづさめの顔を見てやろう、という気になっている。

 あたしはもう、三虎のいもだ。

 三虎の吾妹子あぎもこの顔を、記憶では美しいおみなだったと覚えてはいるが、初めの時以来、苦しくて、はっきり顔をみれなくて、やはり細かい所はかすんでしまっている。

 だけど、良く探しても、莫津左売なづさめはいない。

 いない……。


(どういうことだろう?)


 と首をひねる。

 莫津左売なづさめは何故いないのだろう?

 七夕の宴では……。


遊行女うかれめは、これで全員なんでしょう? 薩人さつひと。」


 近くで舞を見物していた薩人に、あたしは声をかける。


「おう。そうだよ。」


 薩人は気軽に答えてくれる。

 莫津左売はどこに行ったのだろう?

 誰かに遊浮島うかれうきしまを出してもらって、妻としてもらったの?


 まさか、花麻呂はなまろ


 阿古麻呂は、甘糟売あまかすめが遊びに来て欲しいと言ってる、と、何回か屋敷に招いてくれた。

 あたしも、甘糟売を何回か柿の木の屋敷に招いて、あたしと甘糟売、福益売ふくますめで話しに花を咲かせた。


 だが、花麻呂は、妻の名も、顔も、あたしに教えてくれようとしない……。

 でも、もし、莫津左売だったなら、

 花麻呂はずっと、三虎の吾妹子に恋をしていたことになる。


 知りたくない。

 確かめたくもない。


 ただわかることは、莫津左売はもう、遊行女ではない。

 そして、三虎の吾妹子でも、もうない。

 三虎は、あたしに、


おみなはおまえだけだ、古志加こじか

 オレのいも。」

 

 と言った。

 そして、あたしに屋敷を与えてからは、上野国かみつけののくにを発つまで、毎夜、屋敷に来て、眠った。

 一夜も欠かさず。


「勝てっこない。あんな綺麗な人に。」


 と泣いたのは十五歳の夜だ。

 どうやってかは分からないが、あたしは勝った。

 三虎を、あたし一人のものにした……。


 あたしは顔を動かさず、ただ遊行女の舞台を見る。

 笑顔は浮かんでこない。




 ふと最近耳にした話を思い出した。


薩人さつひと、誰なの?」


 薩人は、オレは百の掛け鈴を鳴らす、と豪語していたそうだが、ある遊行女うかれめに梅の枝を添えた木簡をもらい、今はその遊行女にばかりに通っているそうだ。


「ん……。後ろの列、右から二人目さ。地味だろ?」


 へへっ、と鼻の下を指でこすりながら、くすぐったそうに薩人が言う。

 細い目をさらに細めて笑うので、目が針のようになった。

 古志加が舞台を見ると、中肉中背、地味ではないけど、大勢の遊行女のなかでは、特段目を引くでもない普通の綺麗なおみなが、後ろの列の右から二人目にいた。


「もう、古志加といい、花麻呂といい、阿古麻呂といい、幸せそうな空気ポンポン出しやがって。荒弓までさあ!」


 と薩人が文句を言うようにつらつら喋る。

 古志加は、あはは、と笑い、


いもなの?」


 と訊いた。

 薩人は細い目を、はっ、と見開き、表情が真剣になった。


「ああ……妹だ。」


 と真面目に言い、そのあと、へへっ、と下を向いて笑い、舞台で舞う一人のおみなに、とろけるような笑みを向けた。


「そう……、オレの妹なのさ。」


 と嬉しそうに重ねて言った。


(良かったね。)


 と古志加は心で呟く。


 舞台では独唱が始まった。





 玉蔓たまかずら、や、玉蔓


 えぬものから さらくは


 玉蔓、や、玉蔓


 としわたりに ただ一夜


 かささぎ橋の ただ一夜のみ





「古志加は、寂しくないの?」


 古志加が美しい歌声に聞き惚れていると、薩人と組の、古志加のかわりに新しく卯団うのだんに入った伊奴いぬが、そっと訊いてきた。

 突然の言葉に、古志加はただ驚いて、まばたきをして、まだ年若い伊奴いぬを見る。


「このバカ。」


 薩人が遠慮無く伊奴の頭に拳骨げんこつを落とす。


「てェッ!」


 伊奴が頭を抱えて呻く。

 古志加はそれを見て、あはは、と笑う。


「絶えぬものから、だから。寂しくないよ。」


 と、にっこり笑って、伊奴に言う。


 あたし、寂しそうな顔をしてたかな?

 でも、そこまで辛いわけじゃない。

 絶えること無く、心は愛子夫いとこせと繋がっている。

 一年に半月ほどしか逢えなくとも……。

 あたしも、織女星しゅくじょせいのようだ。




     *   *   *




 十二月。


 十ヶ月ぶりに、大川さまと、三虎が帰ってきた。

 夜。

 柿の木の屋敷で、


「あたしは良い子にして待ってました。」


 心から嬉しく、微笑みながらそう言うと、


「どれどれ。」


 と三虎はあたしの手をとり、手の甲に軽く口づけ、するり、と袖のなかに手を滑らせ、肘まで撫であげた。


「よしよし。」


 と三虎は口元が柔かく笑い、

 あたしの頭を撫で、また、


「よしよし。」


 と言い、髪にかんざしを挿してくれた。

 髪を分け入ってくる、尖った冷たい感触に、


「ん。」


 と肩をすくめる。


「これは……?」


 と訊くと、


「金のかんざし鋳直いなおした。気に入ると良い。」


 と三虎が古志加の額の中央に甘く口づけする。


「ん。」


 とくすぐったくて、また声が出る。


「見ても良いですか?」

「ああ。」


 と許可を得て、簪を引き抜き、蝋燭ろうそくに照らす。


「わぁ……。」


 金に輝くスミレが象られ、紅い貴石と、桃色の小さな貴石まで、新たに散りばめられている。

 もとの簪の形は、もうそこにはない。


「嬉しい。大切にします。」


 三虎が恋しい時、眺めても良い。

 美しく着飾りたい時、身につけても良い。

 あたしはなんて幸せなんだろう。

 涙ぐみ、微笑むと、そっと三虎の唇が唇に訪れた。

 優しさが、大事にしてくれてることが、愛されてることが。

 伝わってきて、甘い、と感じる。


(幸せ……。)


 また三虎が額の中央に口づける。

 あたしは目を細めながら、簪を机の上に置き、


「ここ、好きですか?」


 と額の中央を自分の指で触れて、訊いてみる。

 三虎は、額の中央に口づけしてくれることが多い。

 三虎は、ふっと笑い、


「一番初めに、おまえに唇で触れたところだからな。」


 と今度はこめかみに口づけた。


 こんなに愛されて。

 あたしは幸せです。


 幸せが過ぎて、とうとう、


「はあぁ……。」


 とうっとりしたため息がもれた。


「こっち。おいで。」


 三虎に抱き上げられる。





 あたしは、三虎が無表情にこちらを見つめながら、衣を解いていくのを見てるのが好きだ。

 首元から下が露わになり、すらりと引き締まった強靭な身体が、蝋燭に照らされるのを見ると、顔だけでも格好良いのに、身体もこんなに格好良いなんて、と思い、おみなおのこはこんなにも違うものか、と思ってしまう。

 三虎が無表情なのも良い。

 一見、怖いくらいの顔なのに、それでいて、あたしにすごく優しいんだよぉ……。

 もうたまらない。

 三虎は手が優しくて、繊細に動く。あれだけ弓矢を自在に操れる手なんだもの……。

 三虎の指も、大好き。


(十ヶ月前と、三虎は変わってない。良かった……。)


 と密かに安堵する心を、三虎がよこす波が揺さぶってゆく。

 快楽くわいらくの波が強すぎて、溺れそうになりながら、あたしは全身でそれを受け止め、全身で味わう。


「三虎……、三虎……。」


 上の空で口走り、身体の内側がきゅ───っと絞られていく感覚を、不思議、と思いながら、おみなで良かった。との言葉が心に浮かぶ。


 おみなでなくば、今、三虎が与えてくれてるむせぶような歓びを、三虎の全てをもらえる歓びを、体の全部で味わえていなかったろう。


おみなと生まれて……。)


 古志加は果て、これ以上はないというほど愛をもらいながら、それでも恋いしさが込み上げ、涙を流してしまう。




     *   *   *




 巳の刻。(午前9〜11時)


「あ、またこんなところにいた。この野郎! ……古志加っ!」


 さっぱりと晴れた冬の碧空へきくうのもと、鼻高沓はなたかくつが天高く石畳を鳴らし、すぐに卯団うのだんの稽古場に足を踏み入れ、むき出しの土をザッザッと踏む音となった。

 三虎がズンズン近づいてくる。

 あたしは今、午前の組み稽古の最中だ。

 ちょうど阿古麻呂と拳で打ち合っていたところに、ザッと土埃を上げながら三虎が素早く割って入った。

 怒り顔であたしを凝視する。

 あたしはムッと唇をつきだす。


(この野郎、じゃないもん。おみなだもん!)

 

 細かい言葉にいちいち言い返すと怒られそうだ。だから言わないでおく。


(そんな怒り顔したって、ぜーんぜん、怖くないもんね!)


 昔のあたしだったら、三虎にこんな顔されたら、怖くなって目をそらしたくなっただろう。でも今は、不思議とちっとも怖くない。

 この人は、昨日、あたしをその懐にいだとろけるいこいを与えてくれたばかりだ。今夜だって、きっと、そう……。


「ちゃんと、スミレの濃藍こきあい衣を着てます! 邪魔しないで下さい!」


 あたしは不満顔を三虎に向けたまま、はっきり大声で告げる。

 阿古麻呂は、はは、と笑いながら二歩引いた。


「おまえなぁ、オレは時々、遊びに行くぐらいなら、って言ったんだぞ。

 荒弓に訊いたら、ほぼ毎日じゃないか!」


 と言いながら、三虎の目が、さっ、と動く。

 あたりを見回し、新入りの伊奴いぬのところで目が止まった。


「稽古しかしてないもん……。」


 と言いつつ、釣られてあたしも伊奴いぬの方を見る。

 伊奴はすこし顔を赤くして、目をそらした。

 なんでだろう……。


「おまえってヤツは……! こうだ!」


 いきなり三虎に肩を掴まれて、口づけをされた。


「……! ……! ……!」


 なにか言ってやりたいが、長い。

 いつの間にか、三虎の左手は、あたしの頭の後ろに。

 右手は背にまわり、深く三虎に抱きしめられている。

 夫婦めおとといえど、人前でしていいのは、手を繋ぐまで。


(こんなの恥ずかしいよぉ。)


 うおお、とか、わああ、とか皆がまわりでどよめいている。


「やれやれ。」


 と呟いたのは、桃生ももうであの二人を見慣れた花麻呂に違いあるまい。

 やっと三虎が古志加を解放した。

 古志加は真っ赤になり、涙目で、


「あ、あ、あたし佐久良売さくらめさまとは違うんだからね!」


 と叫んだ。

 三虎は顔色を全く変えず、ムッとした不機嫌そうないつもの顔で、


「ふん、知るか。オレは分かった。これが一番だ。」


 とたんたんと言い切った。

 ブハッ、と花麻呂が吹いた。


「わあああん! 意地悪───!!」


 あたしは両手を握りしめ、声をかぎりに叫んだ。

 そしてパッと身をひるがえし、その場から逃げ出した。




 上野国かみつけののくにの強く風が、十二月の弱い陽の光を帯びて光りながら、古志加の揺れる巻いた髪をなびかせ、吹き抜けていった。







  ────完────






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