第五話  あたし頑張っちゃう。

「心配したんですよ。

 昨日、大川さまと三虎が奈良へ行ったのに、あなたが姿を見せなかったから。」


 と日佐留売ひさるめが米菓子と白湯をふるまってくれながら、言う。


 未の刻。(午後1〜3時)


 日佐留売の部屋。

 ここには古志加こじかと、福益売ふくますめ……もうあたしの働きだ。日佐留売の女官と、多知波奈売たちばなめもいる。

 多知波奈売は、刺繍を頑張って覚えている。


「昼ですが、寝てました。」


 と古志加が白状すると、日佐留売が首をかしげる。


「あの……。夜が、疲れまして。」


 と古志加が、顔赤く、うつむいて告げると、


「まあ!」


 と日佐留売がころころと笑った。


「もう弟の妻ね……。」


 その言葉に、古志加は、九日前、鎌売かまめに挨拶に行った時のことを思い出す。




    *   *   *




母刀自ははとじ……。古志加をいもとした。妻としたい。いいだろ?」


 と三虎が本当にざっくりと言い、


「……!」


 宇都売うつめさまの部屋から簀子すのこ(廊下)に呼び出され、立ち話でそう告げられた鎌売は、しばし絶句し、しげしげと三虎と古志加を見たあと、


「でかしたァァァ!」


 と刮目して叫んだ。

 声の大きさに古志加はびくっと肩を震わせ、三虎は苦い顔になり、


「あ、いや、子供ができたわけでは……。」


 と言ったが、


「ええ、ええ、そういう意味で言ったわけではありませんよ。

 とにかく、古志加……、良くやりました。

 手を。」


 と鎌売は両手を古志加にむけた。

 古志加がおずおず手を差し出すと、強い力で握られた。


「母刀自と呼びなさい。」


 そう鎌売はいつもの厳しい調子で口にしたあと、


「でかしたわ……。」


 と、驚くほど柔らかい、優しい微笑みを古志加にむけてくれた。

 目に涙がにじんでいる。


 ああ、日佐留売と、三虎に感じる優しさ……。間違いなく、親子なんだなぁ、と古志加は思ったものだった。





    *   *   *





 日佐留売が、


「いつでも、この部屋に遊びにいらっしゃい。

 三虎によく頼まれたけど、それだけじゃなく、あなたのことが大好きよ。

 遊びに来てくれたら、嬉しいわ。」


 と温かい陽の光のような笑顔を浮かべた。




 そう、もうあたしは、日佐留売にとってお客さんだ。

 もう、卯団うのだん衛士ではない。


 でもあたしは、十日に八日は卯団の稽古の時間に顔を出す。


 巳の刻。(朝9〜11時)


「また来たのかあ。」


 と荒弓は言うが、


「皆の顔が見れないと、寂しくて。

 稽古させてえ!」


 とスミレの花が散った濃藍こきあいの衣で、古志加は満面の笑みを浮かべる。




 だが、おそらく心の持ちようが違うのだろう。

 みるみる腕が落ちた、と古志加は思う。

 もう花麻呂に勝ち越せない。


「はっは……! また勝ったな!」


 と剣の稽古で花麻呂が嬉しそうに言うので、悔しくてたまらない。





 心の中のどこかで。


 ───もっと練習しろ。

 一日でも練習をかかすと、腕が落ちるぞ。


 と声がし、古志加を責め立てるが、


(もう、いいんだよ。)


 とあたしは自分に言い聞かせる。

 たしかに、弱くなるのは怖い。

 でももう、あたしは、三虎の妹なんだから。

 毎日、練習しなくても、弱くなっても、良いんだよ……。




 あたしは、心の中で、不安がるわらはのあたしを、慈しむ笑顔を浮かべて、抱きしめる。

 己を抱いてブルブル震える童の腕を、そっとほどき、解放する……。




     *   *   *




 しばらくして、花麻呂は卯団に二人いる少志しょうしの一人になった。

 剣と弓の腕が、桃生柵もむのふのきから帰って、卯団でも指折りになった。


「オレと、荒弓と、布多未ふたみで話し合って、すぐに決まったぜ。」


 と薩人さつひとが教えてくれた。

 花麻呂は得意満面で、


「オレは妻から文字を教えてもらうんだ……。」


 とニコニコ笑う。

 少志はともかく、大志たいしは文字の読み書きができないとなれない。


「えいっ!」


 良かったね、と思いつつ、古志加は鋭く拳を下腹に見舞ってやった。


「なにすんだ!」


 と怒る花麻呂に、


「良かったね! おめでとう!」


 と言い、古志加はピュ───と逃げた。

 あとから荒弓に、浄酒一壺を渡し、


「これ、花麻呂が少志になったお祝い、あたしから……。」


 と告げる。

 卯団長の妻からしてみれば少ないかも。

 でもこれは、


「卯団の、一衛士として……。」


 もし古志加が卯団の衛士のままなら、こうやって皆少しずつお代を出し合って、皆で花麻呂をお祝いしたはずだ。


「ありがとうな。」


 と荒弓は頷き、すこし迷ってから、肩を叩いてくれた。




     *   *   *




 あたしは、月の印がきて、がっかりした。



 福益売すくますめの母刀自は、飯売いいめといった。

 福益売の二人の妹を郷のおのこに無事に嫁がせ、一人で細々と暮らしていたのだという。

 顔に独り身の寂しさと、生活の疲れがにじんでいた。


 一緒に暮らしはじめて、あたしは二人に沢山お礼を言われてくすぐったい気持ちになった。


 そして福益売は、この柿の木の屋敷の警護についている川嶋かわしまのことを、


「素敵な人よね……。この前、あたしが井戸の水を運んでいたら、重いだろ? ってかわりに運んでくれたのよ。」


 と大事な秘密を打ち明けるように教えてくれた。


「うん、川嶋は良いヤツだよね。弓矢も上手。でも、癸丑みずのとうしの年(773年、6年前)の矢傷がもとで、もう長時間は剣がふれない。」


 と、ついあたしは衛士の見方で言ってしまった。

 福益売は、あたしの方を驚いたように見て、


「かわいそうだわ……。

 さぞや辛い思いをしたんでしょう。

 でもあの人は、弱音を吐かず、優しくて、とても強そうよ。

 川嶋がこの屋敷を守ってくれてると思うと、すごく安心して、夜、眠れるわ……。」


 と頰を染めた。


「そうだね。矢傷があったって、川嶋は強い。」


 とあたしは、ちょっと川嶋に申しわけなく笑い、


「福益売、かわいい!」


 と福益売に抱きついてしまった。




 夏を待たず、福益売と川嶋は夫婦めおととなった。




 昼餉と夕餉は、福益売と飯売いいめが用意してくれる。

 あたしも料理の心得はあるから、


(暇つぶしに手伝おうかな?)


 と炊屋かしきやをのぞいたら、福益売と飯売が二人で仲良く笑いながら、流れるように料理を作っているのが見えた。

 あたしは、そっと引き返した。


(……いいな。良かったね、福益売。)


 あたしは、あの中に入れない。







 そして、飯売と、老麻呂おゆまろも、なんだか良い雰囲気だ。

 老麻呂は四十四歳、飯売は四十五歳。

 年の釣り合いも悪くないだろう。

 老麻呂は、飯売を、優しく慈しむような目で、じっと見つめていることがある。

 飯売は、その視線に気がつくと、まばたきを一つし、少しだけ頰を赤くし、はにかんでうつむく。


(かわいらしいんだなぁ。

 あの年になっても、おみなは女なんだなぁ……。)


 と、古志加は思う。

 だが、こちらの二人は、福益売のようにポンポンと進まない。

 見つめ、はにかむ。

 そこからなかなか進まない。

 でもきっと、古志加が何か手出しをする必要は無いのだ。

 見つめ、はにかんでいるだけで、二人だけの世界があるようだ。

 時間なら、たっぷりとある。

 二人とも、この屋敷にすんでいるのだから。


 三虎の用意してくれたこの屋敷は、よくできていて、こじんまりとしているが、部屋数は多い。

 今は、飯売いいめの部屋、福益売ふくますめ川嶋かわしまの部屋、老麻呂おゆまろの部屋、と三つの部屋で、二人の働きと、二人の警備人が住んでいるが、いずれ二部屋になるかもしれない。




     *   *   *





「また来たのぉ?」


 午はじめの刻。(午前11時)


 あたしは、上毛野君かみつけののきみの屋敷の湯殿ゆどので、遅番の女官、波古売はこめに、あきれたような声をかけられる。


 あたしは卯団の午前中の稽古のあと、ちゃっかり湯殿を使わせてもらう。

 そして柿の木の屋敷に戻り、昼餉を食し、今度はおみなの衣に着替えて、日佐留売ひさるめに会いに行くのが日課だ。

 柿の木の屋敷で、お湯で身体を拭うのでも充分だ。

 でも、もうあたしは、この湯殿の気持ちよさを知ってしまっている。


「えへへへ……。」


 お湯からあがると、日佐留売に教えてもらった通り、身体が濡れたまま、少量の椿油を全身にすりこむ。

 三虎に、


「おまえはもっと、肌の手入れをしろ。

 もうおまえはオレのものなのだから。

 もっと自分で、自分を慈しめ。

 肌を磨いて、いい子にして、オレの帰りを待て。」


 と言われた。

 日佐留売曰く、一日二日で結果はでないが、一夏続ければ、肌は見違えるほど柔らかく潤った肌になるそうだ。

 あたし、頑張っちゃう。


 福益売と、貴重な椿油を分け合う。

 福益売は遠慮するが、幸い、三虎は椿油を沢山用意していってくれた。

 たっぷり使える。


「福益売だって、一緒にがんばれば、川嶋が喜ぶよ。」


 とニヤニヤしながら古志加が言ってやると、


「あら……、あら……。」


 と福益売が真っ赤になり、幸せそうに恥じらう。

 それを見た波古売が、


「あんたら、羨ましい───!」


 と声をあげる。


(えへへへ……。すみません。)


 あわてて、その波古売の手のひらにも、椿油を壺から垂らしてあげる。




     *   *   *




 あたしは、変わらず、卯団の稽古に顔を出す。


 荒弓は、馴染みの遊行女うかれめを、遊浮島うかれうきしまから出し、夫婦めおととなったそうだ。

 もともと金はたまっていたのだが、なじみの吾妹子あぎもこが嫉妬深いので、一緒になることに踏み切れなかったそうだ。

 その吾妹子が最近体調を崩し、すっかりしおらしく、嫉妬もいくらか穏やかになったので、夫婦めおととなる決意がついたそうだ。


(良かったね。)


 荒弓は幸せそうに笑っていた。





 あたしは、花麻呂に抱きついたのを最後に、もう衛士の皆に抱きつかない。

 皆もあたしに遠慮をするし、あたしも、もう、男の身体が、手が、どう動くのか知ってしまった。

 無邪気に抱きつけない。


 でも、三虎が帰ってきたら、三虎の目の前で、誰かに抱きついてみようかなぁ……。

 そして、三虎に、コラァァァ! と怒られたい。

 あたし、三虎の怒り顔、格好良くて好きなんだよね。えへへへ……。

 でも、困らせちゃうか。

 こんなこと思うなんて、あたしは、いけない子です……。




 そして、ゆるやかに時は過ぎ、


 七夕の宴。




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