第三話  かぎろひ

 昼餉ひるげを、大川さまと、宇都売うつめさまと、可須美かすみさまと、穎人かいひとさまときょうする。

 鎌売かまめ日佐留売ひさるめ浄足きよたり多知波奈売たちばなめもいる。


 多知波奈売たちばなめがもう、知らない女童めのわらわがいる、というかんじだ。

 前に会ったのは二歳。

 今は六歳なのだから、当たり前か。


「三虎……。」


 左頬に刀傷のある大男が……。と言っても、三虎と同じくらいの背なのだが……、三虎以上の無表情でこちらに近づいてくる。

 早くも昼餉を食し終わった多知波奈売たちばなめに質問攻めにあって、困ったのだろう。

 まだ、この男は日本語を上手に話せない。


霽成はるなり、日本語学べ。学べば困らないだろ。──日本語当為学、学則不憂。」


 と言ってやり、


「多知波奈売は、このおのこが怖くねぇのかよ。」


 と霽成はるなりにくっついてきた女童めのわらはに訊く。


「ここは上毛野君かみつけののきみの屋敷の中よ。何が怖いって言うのよ。」


 と多知波奈売が胸をそらして言った。


「たしかにそうだなぁ。」


 三虎は苦笑し、興味津々の多知波奈売の通訳を務めてやる。



 ようやく満足した多知波奈売に解放され、霽成の安堵のため息を聞いたあと、ずいっと日佐留売が三虎に近づいてきた。


「三虎、あとで届けたいものがあります。

 いぬはじめの刻(夜7時)、部屋に届けますからね。」

「え……。今、戴くわけにはいきませんか?」


 面倒だ。


「仕込みがあるのよ!」


 姉がくわっ、と歯を剥き出しにした。怖い。

 三虎はため息をつき、日佐留売に従う。


「それはそうと……、留守中、変わりはありませんでしたか?」


 特に古志加こじかとか。

 四年も留守にしていたから、つまができたとか、誰かの吾妹子あぎもこになったとか、誰か恋しい相手ができたとか……。

 姉ならきっと知ってるはずだ。


「全員、息災ですよ。喜ばしいことね、三虎……。」


 ほほほ……。と笑いながら姉は去り、穎人かいひとさまの側に向かう。


「む……。」


 つい三虎はしかめっ面になってしまう。

 日佐留売は、きっと全部わかってて、何も言わず去った。

 腹立たしい。



    *   *   *



 とり四つの刻。(夕方6:30)


「ふふ……。綺麗にできたわ、古志加。」


 日佐留売が化粧を終えた古志加に、微笑みながら言った。


「ありがとうございます。」


 耳に紅珊瑚を光らせた古志加は、照れながらお礼を言った。

 蘇比そび色の女官の衣は、いたって普通の格好だが、日佐留売から高麗錦こまにしきかざおびを借りた。

 蘇芳すはうの花の刺繍がある、朱金しゅきんの飾り帯だ。

 これで随分見た目は華やかになるはずだ。

 日佐留売は髪も結ってくれた。

 古志加が自分で結うより、ふんだんに真葛さねかずらの油を使う。

 おかげで髪がツヤツヤになった。


 精緻せいち唐草文様からくさもんようくれない貴石きせきが輝く、まばゆい金のかんざしも、日佐留売がさしてくれた。


 このかんざしは、とても一女官が持てる代物ではない。

 本来なら、大豪族の妻である宇都売うつめ様が持つような代物だ。


 あたしが十五歳の時に、


「あなたはきっと今に、誰よりも美しい、この金のかんざしが良く似合うくわになるわ。

 三虎の心を捕らえられるほどの。

 それまで待つのよ。

 そして時が来たら、迷わず三虎の胸に飛び込むのよ、いい?」


 と日佐留売があたしにくれた物だ。


 今宵、初めて髪にさした。


 前に三虎に歌垣の歌をうたったときは、郷のおみなよそおいで、郷の女のように、誘い、誘われ、祭りの夜だから、たわむれでも良いから、手をひいて、と装った。

 それに金の簪は似つかわしくなかったので、つけられなかった。


 ……半分は嘘だ。


 この金の簪がまばゆすぎて、つける自信がなかった。

 日佐留売くらい美人だったら、よく似合うだろう。

 でも、あたしは……。



 あたしは、この金の簪をつける勇気がでなかったことを、ずっと胸の片隅で後悔した。

 今でも、この簪がしっくりくるほど、あたしは美人じゃない、と思う。

 でも、この簪は、あたしの物だ。


 この簪をつけたい。


 思いを遂げたい。


 三虎の心を捕らえたい。


 そしたら、三虎は……吾妹子あぎもこと呼んでくれるだろうか。

 いもと呼んでくれるだろうか。

 おのこにとってたった一人のおみないも


 三虎に、妹、と呼んでほしい。

 

(………無理かなぁ。)


 ふっと弱気が心をかすめる。


(ううん、頑張る。)


 と即座に心の中の弱気を打ち消す。

 前に、歌垣の歌をうたった時、三虎は、唐に行くから駄目、と言ったように聞こえた。


 では、唐に行くのではなかったら、どうだったの?


 ……あたしを受け入れたくれた?


 ……それとも、あたしを突き放すことに変わりはない?


 淡い期待が胸から消えない。

 このままでは、ただ三虎に抱きついて、背中をポンポンしてもらえば満足の古志加に戻れない。




 今日、三虎が卯団の広庭に顔を出し、皆が三虎に抱きついて喜びを表してる時、あたしはじっと遠くから三虎を見てるだけだった。

 ……もし抱きついたら、あたしは何をしでかすかわからない。

 あたしは泣きながら、三虎の両頬をつかまえて、三虎の許しを得ることもせず、皆が見てることも忘れ、口づけをしてしまいかねなかった。

 花麻呂に、


「行かないのか?」


 と気軽に訊かれたが、 


「うん、いいの。ここからで。」


 としか答えられなかった。

 それ以上、気持ちを上手く伝えられない。

 この静かな高揚を。


 ……野にかぎろひは上に燃え。あたしの想いは下焦したこげに燃ゆ。


 陽の光が野に燃え立つように見え───それをかぎろひと言う───その下では、あたしの想いが、まるで大地を黒く焦がしているよう。

かぎろひが燃えている大きさより、もっと広く。

 華やかに燃え上がる恋の炎より、もっと下の大地の燃焼範囲のほうが広い。

 焦げて、焦げて、熱さが大地を広がり続けている。


 それがあたしの恋だ。

 燃え立ち、同時に、見えない果てまで大地を焦がす。

 あたしの胸をずっと焦がし続けてる恋だ。


 だから行くしかない。

 あたしはもう一度、仕掛ける。

 三虎が生きて平城京についたと聞いた後から、この夜を入念に準備してきた。

 あたしは行く。


「行ってきます!」


 フン! と気合を入れ、日佐留売が用意してくれた土師器はじきの壺を乗せた盆を持ち、古志加は大きな声で言った。


「頑張って。」


 と日佐留売はふくよかな笑みで見送ってくれた。




     *   *   *




 いぬはじめの刻。(夜7時)


「三虎、入れて下さい。」


 と古志加の声がした。

 厨子棚ずしたなの引き出しをあけて中の確認をしていた三虎は、


「入れ。」


 と声をかけ、妻戸つまとをタン、と開けてやった。

 外は明るい小望月。白梅が匂う。

 古志加はしずしずと、盆を掲げ持ち、部屋の中へ入ってきた。

 古志加は女官姿だ。

 ……今日は、衛士として務めている日のはずだが。

 わざわざ着替えたか。


「日佐留売から、白酒しろさけ浄酒きよさけです。」

「そこの机の上に。ご苦労だったな。姉上によろしく伝えておけ。」


 そうキビキビ三虎は返し、また厨子棚ずしたなの方へむかう。

 だが、机の上に盆を置いた古志加が、出ていくそぶりを見せない。


「あの……、珍しい飲み方で、日佐留売が三虎と一緒に飲ませてもらったら良い、と……。」


 三虎はため息をついて古志加を見る。

 姉も、花麻呂も、変な気をまわしすぎだ。


「おまえなぁ……。姉上に言われたからって、こんな時間にホイホイと……。」


 言葉が途中で消えた。

 ある物に目が止まったからだ。

 高価そうな高麗錦こまにしきの飾帯、紅珊瑚の耳飾り、それではない。

 古志加が髪にさしている金のかんざし


 金の簪……。


 三虎は厨子棚の引き出しを閉め、さっと古志加に歩み寄った。


「あの……。」


 見上げる古志加の髪から、乱暴に簪を一気に引き抜いた。


「痛ぁっ!」


 髪の毛を二、三本抜かれた古志加が悲鳴をあげ、びっくりした顔が涙目になる。






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