第四話  大川、於観音山坦懐攄。

 観音山くわんのんやまにおいて坦懐たんかい(広くたいらかな心)を述べる。



    *   *   *




 多胡郡たごのこおり韓級郷からしなのさと


 観音山くわんのんやまに登り、大川さまと二人きりで、韓級郷からしなのさとを見下ろす。

 日は高く、

 風が強く吹き、木の葉を散らす。

 をばな(ススキ)の穂が風に揺れる。

 のどかな、田舎の郷。

 八歳の夏を、ここで大川さまと過ごした。


「私は命ある限り、必ずまたこの地に戻る。」


 大川さまが静かに言う。


「はい。どこまでもお供します。」


 三虎も静かに答える。


「四ツ船に乗り、無事に帰ってこれる保証はない。

 三虎、私はそんな旅路におまえを……。」

「どこまでもお供します。」


 三虎は遠慮なく、大川さまの言葉を遮る。

 大川さまが苦笑し、三虎を振り返った。

 銀花錦石ぎんかにしきいしかんざしきらめき、さらりと肩にかかった長髪が揺れる。


「心残りはないか?」

「はい。挨拶はすませました。」


 三虎は大川さまの後ろに広がる、美しい韓級郷を見た。

 稲が刈り取られた田。

 赤や黄の朽ち葉を揺らす木々。

 遠くに流れる鏑川かぶらがわ

 碓氷山、子持山、久路保くろほ山、赤見山……。

 栗を拾う人々……。

 小さい子をあやす母親……。


 三虎は上野国かみつけののくにが好きだ。


 強く吹く風。高い空、険しい山々。豊かな実り。

 良く目に焼き付ける。


 ……莫津左売なづさめは、オレの腕の中で泣いていた。


 古志加は、口づけ一つできなかったけど、美しい面影なら、三虎はいくつでも鮮明に思い出すことができる。

 夜空に冴え冴えと輝く満月のような美しい顔に、命の炎を燃やすような強い瞳のおみな


「心残りは……、何も。」

「そうか……。」


 大川さまは静かに微笑み、三虎に背をむけ、再び韓級郷を見下ろす。





 三虎は年の幼い従者、己の甥っ子を思い出す。

 主である穎人かいひとさまが随分成長し、落ち着いてきたので、今は浄足きよたりも穏やかな顔をしているが、

 イタズラが盛んな頃は、浄足はいつも恥ずかしそうにしていた。

 同じ従者として、オレは良くわかる。


 実の母父おもちちは黄泉へ行き、濃い血の繋がりを一つも持たぬ主に比べ、浄足は持ちすぎている。

 実の母父おもちち、祖父母、兄代わりの叔父も二人までいる……。

 持ちすぎていることを、恥じている。





 オレは、大川さまの夜を全て把握しているわけではないが、おそらく大川さまは、腕のなかでおみなを果てさせ、泣かせたことまでは無いはずだ。

 それを知らないまま、四ツ船に乗る。

 もし命をはかなくするようなことがあれば、それはあまりに……。

 オレは大川さまに、もっと働きかけることができたのではないか、と思う。

 知らぬまま、四ツ船に乗せてしまうのは、オレの落ち度ではないかと。


 オレはおそらく、おみなに関して大川さまより知っている。

 そしてそのことを、恥じてもいる。

 心の底で醜く嫉妬しつつ、自分の方が持つと申しわけなく思う。

 従者というのは、どうしようもないな、と三虎は心の中でため息をつく。




 全く動く気配のない大川さまの肩に、蜉蝣あきづ(トンボ)がついっと飛んで、一瞬とまり、すぐに離れた。


「オレを死ぬまで、お側においてください。」


 と三虎は声をかける。それがオレの望み。


「ああ、三虎。いてくれ。」


 心に染み透るような静かな声で、微笑みながら大川さまは振り返った。

 わらはの頃から、大川さまの心は、水精玉すいせいだまのように清らかで美しい。

 その美しさを天上にいます神々が愛しんで、これだけの美しい姿を与えたのだ、と三虎は思う。


 大川さまのそばに。大川さまを守る。

 それが果たせれば、オレは幸せだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る