第三話  三虎、正述心緒、其の三。

「三虎、あたし……。」


 と言いかけた古志加こじかが、三虎の左手を見て、はっと息を詰めた。


(左手?)


 三虎はさっと古志加の手を振り払い、ちょっと七日月の方を見ながら、己の左手を握りしめ、下に降ろした。

 昨日、莫津左売なづさめに噛まれたあとが、小指にまだ残っている。


(なんだ、この気まずさは……。)


 古志加は細かく震えはじめた。





     *   *   *




 この人ぉぉぉ!

 五日前に遊浮島うかれうきしまに行ったばかりなのに、昨日も行ったぁぁぁ!


 小指噛まれてる。

 こんなことはおみなしかしない。

 女がねやでしかしない。

 その姿をまざまざと想像しそうになり、身体がカァっと熱くなり、頭が真っ白になった。

 言おうとしていた言葉が古志加の頭から吹っ飛んだ。


「恋してます。」


 と言うつもりだったのに。

 ダメ、このままでは。

 また失敗して、三虎を逃してしまう。

 もう時間がない。

 逃しちゃダメ。

 言え、歌え、歌え……。




     *   *   *




 古志加は顔色をますます白くしながら、


「こ、この時期、板鼻郷いたはなのさとでも祭りがあります。

 そこでは、歌垣うたがきが、あって……。」


 目に涙をにじませ、何かを訴えるように三虎を見ながら、細い声で、


「※大宮おほみやの  ちひ小舎人こどねり  や 


 手手ててにやは  手手にやは


 たまならば  手手にや  玉ならば


 ひるは手に取り  や  よるはさ


 手手にや。



宮中きゅうちゅうの、背の低い舎人とねり──宮中に使える人よ、

 かわいい舎人とねりよ、

 玉ならば、手にれられるでしょう。

 玉ならば、昼は手にとり、夜は一緒に寝るのですよ。

 手に入れられるでしょう。)」


 と歌った。


(あ。)


 と三虎は目を見開く。

 その歌は知ってる。韓級郷からしなのさとで聞いた。

 古志加に釣り込まれるように、歌の続きを口にする。


「手手にやは  玉ならば


 昼は手に据ゑすえ  夜は我が……。



(手に入れられるでしょう、玉ならば。


 昼は手にえ、夜はわたしの……。)」



 ───夜は我が手に。



 三虎はますます目をみはり、口を閉じた。


(今、おまえ……。)


 信じられないものを見るように、己に抱きついた古志加を見る。

 古志加は目を潤ませて、

 細かく身体を震わせて、

 じっと三虎を見ている。

 見つめ合い、

 うかつに口を開けない。


 今、古志加に歌垣の誘いを受けた。


 歌を返しては、誘いを受け入れることになってしまう。

 一夜の誘いを。

 オレが四ツ船に乗るからか。

 おまえ、そんなことを。

 驚き、戸惑い、信じられない、と思い、古志加の強く輝く瞳を見て、


(いや、オレは知っていた。)


 と思った。

 姉上に言われるまでもなく、オレは知っていたから、うらぶれしかかった古志加に、とっさにオレの名を呼ばせようとした。






 思えば、十四歳の古志加が薩人さつひとと市歩きをして、ちょいちょい薩人が古志加にちょっかいを出すのに、オレはイライラとして。

 ……オレも、ちょっと、古志加と市歩きがしたい、と思った。

 だから手を。

 親子や夫婦めおとしかそんな事はしないとわかってて、オレは古志加の手をひいた。


 誰にもとられたくない。


 そういう思いの芽は、きっと早くからあったように想う。

 だがオレはその気持ちにふたをして、見ないようにした。


 古志加は衛士として気にかけてやってるだけだ。

 可哀想なわらはだったから、幸せを願っているだけだ、と。


 薩人が、


「古志加に手を出しても良いんですか?」


 と聞いてきた夜。

 おみなの格好をさせて卯団うのだんの皆に見せれば、こう言ってくるヤツもでるよな、と思った。

 まあ、いいだろ。

 成り行きで拾ってきただけのわらはだ。

 そう思い、薩人の女グセがなければ、オレは駄目と言わなかった。

 本心だ。


 十五歳くらいからか、花がほころぶように笑うおまえの笑顔にはっとし、

 十六歳で、藤売ふじめの執拗ないじめに気をもんだ。

 賊にさらわれた時は、死ぬな古志加、と生きた心地がしなかった。

 その日の夕、明るく笑い、元気に立ち働くおまえを見て、


(無事で良かった。良く頑張ってるな。

 おまえは強いな……。)


 と、なぜが見ているだけで嬉しくなった。


 オレはおまえに惹かれはじめ……。

 同時に、オレのなかの、今まで知らなかった、あさましい嫉妬に気がついてしまった。

 大川さまに心の底でそんな思いを抱いてるなんて、直視できない。

 堪えられない。

 オレはおまえに対する気持ちごと、全部に蓋をした。


 古志加の幸せは願っている。

 でもオレは、いもなんていらない……。


 年頃になった古志加に、誰かつまを得ろ、と言ったのも本心だ。

 だがそう言ったことで、古志加を傷つけ、死地に行くな、との命令をやすやすと無視した古志加に腹が立ち、土師器はじきを投げて傷つけ、危うく矢で殺しかけ、魂呼たまよびに失敗した時、


 ───こんなのは嫌だ。


 とオレの中ではっきりした声がし、何かが身悶えした。

 心の中で蓋をしようとしていた感情の……。

 蓋が弾け飛んだ。

 そして、こんなのは嫌だ、と己の心の中でずっと声をあげ続けた。


 ───こんなのは嫌だ、こんなのは嫌だ……。


 真夜中、

 おまえがうらぶれから戻ってきたと告げた時、

 本当に嬉しくて、

 オレは甘く額に口づけして、

 おまえを抱きしめた。


 嬉しくて……。


 オレは目を見開いた。

 オレの胸が高鳴り、

 その高鳴りの奥に、身を痺れさせるような、

 甘い疼きがある。

 なんだこれは……。



 朝、ゆっくり白みはじめる朝の光のなかで、おまえの寝顔を見て、

 魂呼たまよびのために手折たおるはめにならなくて良かった、と思った。

 あまりの悪夢のひどさにオレは耐えきれず、魂を散らしかけ、ろくに抵抗もできないおまえに、


「今は古流波こるはだから、わらはだから。」


 と言い聞かせ、おみなとして手折ってしまっていたかもしれなかった。

 古志加に望まれぬまま……。

 そんなことは、オレも望んでいない。


 ではオレは……、何を望んでいるのだろうか?


 古志加の寝顔を見ていると、やはり胸の奥に何かを感じる。

 甘い疼きとも、醜い嫉妬ともつかぬ、何か……。


 オレはどうしたいのだろうか……。


 そして数日待ち、古志加のうらぶれが完全になおったか確かめ、オレは……。


(一夜近くで寝て、盛り上がってしまってるだけじゃないのか。

 気の迷いじゃないのか。)


 と自分に自信のないまま、

 揺れるまま、


「オレから何が欲しい。望みを言え。」


 と言った。おまえは、


「欲しいものはなにもない。」


 とぬかしやがった。

 オレは予想外の言葉に目眩めまいがし、それでもちょっと諦めきれず、寝床の方へ……。誘ってしまった。

 おまえは来なかったがな!

 オレはねた。


 そして奈良を離れ、オレは落ち着いた。



 …………。



 オレは、それでも、古志加が父の言ったような、


いもは会えばわかるのさ。」


 というのとは、違う気がする。

 これが妹だ、という確信がオレには持てない……。




 そう己を持て余しつつ、オレはずっと、待っていたのかもしれない。

 おまえがオレを望むのを……。




 まだオレのなかの、一方的な、あさましい嫉妬とは折り合いはつけられていない。

 古志加が大川さまに恋したら。

 大川さまが古志加を望んだら。

 オレはどうするか。

 答えは出ない。


 だがもう、答えは必要ない。

 オレと大川さまは唐へ行くのだから。




(バカなヤツ……。)


 思いが込み上げ、

 力強く、古志加を抱きしめてしまう。

 こんなに力を込めては、きっと苦しい。

 それでも、力いっぱい、抱きしめる。



 古志加はおのこでもおみなでも、たやすく抱きつく。

 オレにも、「三虎!」と名を呼んで、たやすくその身を預ける。

 しかし、それ以上は求めない。

 だから、猫を可愛がるように、可愛がった。

 それで良いと思った。


 でももし、たった一言でも、

 それ以上を求めたら。



(バカなヤツ。)


 こんな歌垣の誘いを仕掛けなくても。

 たった一言、おまえは求めれば良いだけだった。

 前に上野国かみつけののくにを去る前でも。

 桃生ももうの地でも。


(……真比登まひとの言う通りにすれば良かった。)


 左手で古志加の頭を抱え、強く己の顔に、古志加の髪を押し付ける。

 夜気をしっとり吸い込んだ冷たさと、古志加の日なたと、すみれの花の甘い匂いを感じる。


「バカなヤツだな。」


 今では駄目だ。


「四ツ船で死ぬかもしれない。無事、唐についても、一生帰ってこないかもしれない。」


 実際、帰国を望んでも果たせなかった遣唐使もいる。

 唐についたら、何がどう転ぶかなど、三虎にはわからない。


(とことん、おまえとは機会があわないな。)


「そんなおのこに、歌うんじゃない。」


 口づけもできない。

 口づけ一つで、おそらくオレは決壊する。

 そして、一夜だけ手をつけて、一生、上野国かみつけののくにで待たせるつもりか。

 そんなことはできない。

 ゆえに、何もできない。


 あ、クソ……。泣く。

 苦しい。


 三虎は笑いながら、涙をにじませながら、

 古志加から手をほどき、


「おまえ……。オレのことは忘れていいから、幸せになれよ。」


 と、とんと古志加の肩を押した。


「あっ……、イヤ……!」


 と涙を流した古志加が追いすがろうとするが、三虎はかまわず背を向け、人が集まる方へ行ってしまった。


「イヤ……、イヤ……、三虎!!」


 と古志加が叫ぶ声を背中に感じたが、三虎は振り返らない。






 ────手手にやは。










※参考……古代歌謡集  日本古典文学大系  岩波書店



 


 



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