第十六章   茜の衣

第一話

 甲寅きのえとらの年。(774年。)


 一月。


 三虎と大川さまは、卯団うのだんから五人の衛士を連れて、上野かみつけのの国から旅立ってしまった。

 あたしはちゃんと見送り、そしてもう、紅珊瑚の耳飾りは、耳から外さない。


 これは、己を慰める心のよすがを何一つ持てなかったおみなが、それでもあたしに、


おみなは頑張って美しくするものよ。」


 と与えてくれたものだ。

 三虎のためではなく、あたしの為に、紅珊瑚を耳に飾る。

 女としての飾りは、あたしにはこれだけで充分だ。


 三虎はいない。


 去年のあたしは、ひたすら悲しくて、ほとんど毎夜泣いていたように思う。

 でも、今年のあたしは、もうちょっと落ち着いて、日々をちゃんと過ごせてる、と思う。


 あたしの心の中には、大きな岩のような、ザラザラと尖った、氷のような冷たさの寂しさがあって、時々無性に泣きたくなる夜がある。

 去年のあたしは、あたしの宝物を抱きしめて、泣くことしかできなかった。


 三虎への恋いしさが、

 あたしの生きるいかり……。


 でも、今年のあたしは、泣かず、あることに思いを馳せる。

 不思議と三虎の唇を無断で奪ってしまったことより、三虎が泣いたことを思う。

 あの人は震えながら、


「なんでそれで、オレの声が届かねぇの。」


 と言い、


「オレ、すげぇ今回怖かった。間に合わないかと。それた矢が当たってたら、どうしようかと。

 魂呼たまよびに失敗するなんて、思いもしなかった。

 バカ、古志加こじか、バカ。」


 と泣いた。

 正直、どんな気持ちで泣いたのか、良く分からない。

 いつも何事も失敗しない三虎が、失敗しそうだったら怖かった、と古志加には聞こえた。


 そうではあるが、あたしのことを心配したから、泣いた、と思っていいんだよね……?


 自信は持てないが、古志加はそう思う。


 あたしの恋いしい人が、

 あたしを抱きしめて、

 あたしのために、

 泣いたんだよ……。


 三虎のあの温かい涙が、あたしの額に伝った時、あたしの心の中のザラザラとした寂しさを、少し溶かしてくれた。

 どうやって、心の中の奥深いところの、固くて、自分では動かすことのできない岩のような寂しさに届いて、溶かすことができたのだろう?


(三虎はすごい。)


 まだ、寂しさは大きな岩として残っているけど、輪郭が少し小さくなった。

 そして、寂しさが溶けた時の心の温かさ、広がった気持ちよさは、春の木漏れ日に包まれているようだった。

 三虎の涙がくれた、

 心に満ちた幸せな温かさ……。


 それに思いを馳せ、あたしは泣かない。




    *   *   *




 夏。


 陸奥国みちのくのくにで戦の火があがった。

 奈良にいた大川さまは、副将軍として、陸奥国みちのくのくにへむかった。もちろん、三虎も。

 上毛野衛士団かみつけのえじだんは、日本国の兵ではない。

 上毛野君かみつけののきみの屋敷を離れず、ただ、三虎の無事を祈る。

 とは言え、心配で夜も眠れぬほどではない。

 三虎の強さは、良く知っているから。



 秋。


 古志加こじかと花麻呂、二人だけ、陸奥国みちのくのくにに呼ばれた。

 三虎が呼んでくれたと、荒弓あらゆみが教えてくれた。


 嬉しい! 三虎に会える。


 花麻呂は、やぐらの怪我が治ってから、ちょっと元気がない。

 皆、心配してる……。


 上野国かみつけのくにから十一日かけ、陸奥国みちのくのくに桃生柵もむのふのき桃生もむのふ城)についた。

 三虎に無事会えて、安心した。

 三虎は変わらず格好良く、あとちょっと、優しくなった気がする。

 桃生柵もむのふのきでは、いろんな出会いがあった。

 あたしはますます、剣の腕に磨きがかかったと思う。



 冬。


 年が変わり、

 乙卯きのとうの年。(775年。)


 あたしは十九歳になった。


 五月。

 三虎と大川さまは、桃生柵もむのふのきから奈良へ行ってしまった。


 十一月。

 あたしと花麻呂は、上野かみつけの国へ帰ってきた。

 花麻呂は元気が復活した。


 そして、知った。


 大川さまは、遣唐使として選ばれたと。

 三虎も、大川さまにつきそい、ふねにのる……。


 既に、六月に決まっていたことだと、あたしと花麻呂を呼び出して、卯団の広庭のはじで荒弓が教えてくれた。


 古志加は、上野かみつけの国と陸奥みちのくの国にしか行ったことはない。

 西を行けば奈良があり、その先、筑紫つくしの島があり、秋津島あきつしまが終わり、海があり……。

 ということは知っている。

 そして海の向こうに、大唐だいとうがある。

 唐渡からわたりの品は、どれも高級で、陶器は薄く、細工物は美しい……。

 そう女官部屋の皆が、話しをしていたのも覚えてる。

 でも、そこへ大川さまと三虎が行くなんて。

 なんだか現実感がない。

 夢やお伽噺とぎばなしの国へ行くようだ……。

 だが何より古志加を戦慄させたのは、荒弓が、


「四つ船は、危険が伴う。船が波にまかれて、命を落とした遣唐使も多い。」


 と言ったことだ。


「イヤ!」


 古志加は思わず大声をだしてしまった。


「どうして、そんな危険な船に乗るの。

 そんな危険をおかして、遠い国に行かなくたっていいじゃない!」

「古志加、奈良のえらい方が決めたことだ。名誉なことだぞ。」

「イヤッ!」


 大きく叫び、古志加はとうとう荒弓と花麻呂に背中を向け、の木立のほうへ駆け出してしまった。



 イヤだ、イヤだ、

 死んでしまうかもしれない旅に行ってしまうなんて。

 今すぐ三虎に抱きついて、やめて、行かないで、って叫びたい。

 でも、三虎はいない。

 奈良だ。

 目から涙があふれる。

 今まで、三虎はずっと奈良で、あたしは寂しかったけど、三虎はちゃんと一年に何日かは帰ってくる。

 それを当たり前だって思ってた。

 死ぬかもしれないなんて、イヤ……!


「イヤ────!」


 大声を出し、にすがりつき、古志加は泣きむせぶ。




   *   *   *




 とりの刻。(夕方5〜7時)


 離れた大広間から、琵琶びわ篳篥ひちりきの、華やかな楽の音が、遠く風に乗り聞こえてくる。

 その楽の音に混じって、人々が談笑する声が、時々ここ、日佐留売ひさるめの部屋まで聞こえてくる。

 宴の最中だ。


(あの中に、三虎もいる……。)


 と耳を澄ませるが、三虎はきっと笑って大きな声をだしたりしないだろうな……。

 それでも、三虎がいる。

 耳が三虎の声を拾えないかと、意識が向いてしまう。



 日佐留売が古志加に、豪華な茜色の衣を着させてくれている。

 今、胸の合わせを閉じて、ばっと開いた。


(そんなに胸元開けて、着るの……?)


 古志加はびくっ、と身体を震わせる。


「んん……。」


 と日佐留売が悩み、また、合わせを閉じた。

 古志加はされるがまま、無言で大人しくしている。

 帯を締めるのかな、と待ってると、


「う───ん。」


 と日佐留売がまた、ばっと大胆に合わせを開いた。

 びくっ、と古志加は肩を震わせる。


 いつもは、首元まできっちり隠して、衣を着るのが普通だ。

 こんなに胸元を開けるのは、遊行女うかれめだけだ……。

 古志加は良く日焼けをしているが、いつも隠している胸元は、見下ろすと自分でも驚くほど白い。

 というか、こんなに見せていいのか。

 これから、あの宴にのこのこ出かけていって、上毛野君かみつけののきみの屋敷で働く大勢の前で、この姿を晒すというのに……!


「やっぱり……。」


 と日佐留売がつぶやいて、更に胸元を広げた。


「ひ、日佐留売……!」


 と古志加はとうとう真っ赤になってうつむいた。

 頭が重たい。

 日佐留売が、木を墨で塗りつけた拳大のものを二つ用意してくれて、髪に仕込んでるせいだ。

 おかげでかつてないほどの大きさと高さの二髻にけい(二つのお団子ヘア)が、古志加の頭上に生まれている。

 すごく華やかだ。

 もう目刺めざしの前髪はなく、額も広々と出している。

 化粧だって、時間をかけて、日佐留売がしてくれた。

 感謝をしなければ。


(あ、あたし、頑張らねば……!)


 でもやっぱり、恥ずかしい。

 古志加はこうなったきっかけ、七日前の会話を思い返す。














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